The Great Gatsby 翻訳

F. Scott Fitzgeraldの傑作 "The Great Gatsby"の翻訳です。

The Great Gatsby 第7章

Chapter VII

ある土曜日の夜、ギャツビーの邸の電燈が灯らなかった。ギャツビーへの好奇心が最も高まっていたときのことだった。成り上がり者(トリマルキオ)としての彼の役回りはいつの間にか始まったが、その終わりもまた、漠としたものだった。期待に胸を膨らませて彼の車回しに入って行く車が、ほんの少しそこにいただけで、憤然として立ち去って行くようになったことに私が気づいたのは、あくまで少しずつのことだった。ギャツビーは病気なのかと思い、詳細を知るべく私は訪ねて行った――そこには邪悪な顔つきの見知らぬ執事がいて、疑わしそうに目を細め、扉から私を見遣った。
 「ミスタ・ギャツビーはご病気ですか?」
 「いいえ」しばしの間の後で、彼は「サー(訳注:男性への改まった呼びかけの語)」と付け加えた。緩慢で、嫌々ながらといった感じだった。
 「しばらくお見かけしておらず、心配致しておりまして。ミスタ・キャラウェイが伺った旨をお伝えいただけませんか」
 「誰ですって?」と彼は不躾に訊いた。
 「キャラウェイです」
 「キャラウェイさんか。分かりました、お伝えしましょう」突然彼は扉をピシャリと閉めた。
 うちのフィン人婆さんが、ギャツビーは一週間前に邸の召使いを全員解雇して、新しい人間を六人雇ったのだと教えてくれた。彼らは、ウェスト・エッグ村まで行って商売人から賄賂を受け取るような真似は決してせず、必要な買い物だけを電話で済ませるのだそうだ。けれども、食料雑貨店で働く少年によると、邸の厨房は豚小屋のごとき惨状だということだし、村人の見方を総合すると、新しく雇われた人間は召使いなどでは断じてないということになる。
 翌日ギャツビーが私に電話をよこした。
 「引っ越しでもするつもりなのか?」と私は尋ねた。
 「違うよ、オールド・スポート」
 「召使いを全員クビにしたと聞いた」
 「噂話をしない人を雇いたかったんだよ。デイジーが来てくれるようになったからね――午後の時間にさ」
 こうして、彼女には目障りに映ったというわけで、隊商宿(キャラヴァンサリー)全体がトランプ札で作った家のように崩落してしまっていた。
 「ウルフシャイムが一肌脱いでやろうと言ってたんだよ、うちの新しい召使いのことでさ。皆兄弟姉妹だろうということでね。あの人たちは、昔は小さなホテルを経営していたんだよ」
 「なるほどね」
 彼は、デイジーに頼まれて電話をよこしていた――明日、デイジーの家で昼食をご一緒しないかい?ミス・ベイカーも来ることになっているのだが。半時間後、デイジー本人から電話があった。私が来ると分かって安心しているようだった。嫌な予感がした。けれども、二人があえてこの機会を選んで、一悶着の場にしようとしていたなどとは――ギャツビーが自邸の庭園でその筋書きを披露していた、惨劇とも言える場にしようとしていたなどとは――ゆめゆめ思わなかった。
 翌日は焼け付くような暑さだった。暑さはほぼ終わりに差し掛かっていたが、この日はその夏で間違いなく一番暑い一日だった。私の乗った列車がトンネルを抜け、陽の光の中に現れた。ナショナル・ビスケット・カンパニー(訳注:現ナビスコ。製菓会社)が鳴らす、正午の熱い汽笛だけが、今にも沸き立ちそうな静けさを破った。車輛の麦藁編みの席は、今にも燃え出しそうだった。隣に座った女性は汗をかいていた。汗は、しばらくは淑(しと)やかにブラウスに染みるだけだったが、読んでいた新聞が指の中で湿るに到って、女性は情けない声を洩らし、もういいとでも言うように灼熱の中に沈み込んだ。ハンドバッグがくちゃりと床に落ちた。
 「もうっ!」我に返った彼女が声を上げた。
  私はやおらかがみ込んでそれを拾い上げ、彼女に渡してやった。ハンドバッグを持ったときには、他意がないことを示すために、腕を伸ばして身体から離し、一番端にしか触れなかった――けれどもその女性を含め、近くにいた全員は、私を疑っていた。
 「暑いね!」と車掌が馴染みの客らに言った。
 「なかなかの天気だね。暑い!暑い!暑い!これだけ暑けりゃもういいかい?暑い?ねえ……?」
 私が差し出した回数券を車掌の手から受け取ってみると、黒いしみが付いていた。こんな暑さの中、誰しもが、誰の真っ赤な唇に自分がキスしたかとか、誰の頭が、自分の心臓の上にあるパジャマのポケットを汗で湿らせたかとか、そんなことを気にしてるなんて!
 ……ビュキャナン一家の邸の玄関ホールを、微風が吹き抜けた。電話のベルの音が風に乗って、扉の外にいた私とギャツビーにまで聞こえてきた。
 「旦那様のご遺体!」と執事が電話の送話口に向かって叫んだ。「申し訳ございません、マダム、私たちはご遺体をどうすることもかないません――今日の昼間はあまりに暑すぎて、触れることもできないのです」
 本当はそうではなかった。彼が言ったのは「ええ……ええ……確認してまいります」だけである。
 彼は受話器を置いて、こちらに歩いてきた。汗でしっぽりと濡れた顔が少し照らついていた。玄関まで来て、二人の固い麦藁帽を受け取った。
 「奥様は応接間でお待ちです!」と彼は大声で言って、必要もないのにその方向を示した。この暑さである。凡夫には、あらゆる余計な仕草が忌々しい。
 部屋は廂(ひさし)の陰になっていて、暗く涼しかった。デイジーとジョーダンは大きなカウチに横になっていた。銀でできた偶像みたいだった。周りの扇風機からは歌うような微風が吹いていて、二人は白いドレスの裾を押さえていた。
 「動けない」と二人は揃って言った。
 ジョーダンの指は、日焼けの後を隠すように白粉が施してあって、しばらくは私の指に包まれて休んでいた。
 「で、アスリートの、ミスタ・トマス・ビュキャナンは?」と私は訊いた。
 と同時に、彼の声が聞こえた。野卑でくぐもったハスキーな声で、玄関ホールの電話で話していた。
 ギャツビーは緋色の絨毯の真ん中に立ち、うっとりとして周囲にある物に見入っていた。デイジーは彼を見つめ、笑った。甘くて、ぞくぞくさせるような笑い声だった。胸にかかっていた白粉が空中に舞い上がった。
 「噂から判断するに」とジョーダンは囁いた。「あれ、トムの浮気相手よ」
 私たちは黙った。玄関ホールの声は、苛立ちとともに高く昇っていった。「それで結構だ。車は売ってやらないからな……。お前に借りがあるというのでもない……。それから、昼食の時間につまらんことで電話をかけてきてるがな、次はもう許さんぞ」
 「受話器を置いてるくせに」とデイジーが皮肉を込めて言った。
 「いや、それは違う」と私は断定した。「本当にやり合ってるんだよ。たまたま事情を知っててね」
 バンッと扉を開け、トムはしばし、厚みのある身体でその空間を塞いでいた。そしてスタスタと部屋に入ってきた。
 「ミスタ・ギャツビー!」と言って、彼は大きな平たい手を差し伸べた。嫌悪の念はおくびにも出さなかった。「ようこそ、サー……ニック……」
 「皆に冷たい飲み物を作ってよ」とデイジーが大声で言った。
 トムが再び部屋を出ていくと、彼女は立ち上がってギャツビーのところまで歩み寄り、顔を引き寄せた。そして、彼の唇にキスをした。
 「愛してるって、分かってるね」と彼女は小声で言った。
 「レイディがここにいることを忘れてない?」とジョーダンは言った。
 デイジーが疑わしそうに辺りを見遣った。
 「あなたもニックにキスしたらいいじゃない」
 「何てふしだらなことを!」
 「知るもんですか!」とデイジーは声を上げ、暖炉前の煉瓦床で足を鳴らして軽快に踊り始めた。それから、暑さに思いがいたり、ばつが悪そうにカウチに腰を下ろした。そこに、洗ってアイロンをかけたばかりの服を来た子守女が小さな女の子の手を引き、部屋に入ってきた。
 「お、ひ、め、さま」と、彼女は優しく歌って両腕を開いた。「おいで、あなたのことがだーいすきなお母様のところへ」
 子供は子守女の手を離れ、駆け足で部屋を横切ると、恥ずかしそうに母親のドレスにくっついた。
 「お、ひ、め、さま!あなたのきいろい、きいろい髪の毛に、お母様は白粉をつけちゃわなかった?さあ、立ち上がって、『はじめまして』ってご挨拶なさい」
 ギャツビーと私は順に屈み込んで、気乗りしない女の子の手を取って挨拶した。その後で、ギャツビーは、驚いたままに子供をじっと見ていた。そんなのが存在しているなんて、ギャツビーには思いもよらなかったのだろう。
 「お昼を食べる前に、お着替えしたの」と子供は言い、ねえ、ねえとでも続けんばかりにデイジーの方を向いた。
 「それはね、お母様があなたのことを見せびらかしたかったからよ」彼女は顔を傾げ、子供の小さくて真っ白な頸に走る一本だけの皺に押し付けた。「あなたが私の夢。絶対的な、可愛らしい夢」
 「うん」と子供は平然と言った。「ジョーダンおばちゃんも、白のドレスを着てる」
 「お母様のお友達はいかが?」とデイジーは言って、娘の向きを変え、ギャツビーの方を向かせた。「皆様、素敵だと思わない?」
 「お父様はどこ?」
 「あの子は父親には似てないの」とデイジーは説明した。「私似ね。髪も、顔の形も」
 デイジーはカウチに深く腰掛けた。子守女が一歩前に出、手を差し伸べた。
 「パミー、いらっしゃい」
 「またね、愛するパミーちゃん!」
 後ろ髪を引かれているように振り返りながら、このよく躾された子供は子守女の手をしっかり握り、扉の外に連れて行かれた。同時にトムが戻って来た。それに続いてジン・リッキーが四杯運ばれて来た。グラスには氷がいっぱい入っていて、カラカラと音を立てた。
 ギャツビーは自分の分を取り上げた。
 「すごく冷たそうだ」と彼は言った。緊張の色が窺えた。
 私たちはむさぼるように、ゴクッ、ゴクッとそれを飲んだ。
 「太陽は毎年熱くなってきているそうだ。どこかで読んだ」とトムが楽しそうに言った。「地球はじきに太陽に飲み込まれてしまいそうだな――いや、待て、逆だ。太陽は毎年冷たくなっている」
 「表にいらっしゃい」と彼はギャツビーを誘った。「邸を御覧いただきたい」
 私は二人についてヴェランダに出た。緑の『海峡(サウンド)』は灼熱の中で凪(な)いでいた。小さな帆船が一艘あって、そこよりも風の強い沖へ向けてのろのろと進んでいた。ギャツビーは束の間それを目で追うや、片手を上げて湾の向こう側を指した。
 「私は真向かいに住んでおります」
 「そうですな」
 私たちは目を上げ、炎天下の岸沿いに、薔薇の花壇、熱を湛えた芝、そして、雑草に塗(まみ)れたゴミを見渡した。帆船の白い翼帆はゆっくりと、空の青く涼し気な果てに向かって行った。前方には、帆立貝の殻のような漣(さざなみ)が広がり、恵みの島々がたっぷりとあった。
 「面白いことがありますよ」とトムは言って頷いた。「一時間ほどこちらの方と海に出られればな」
 私たちはダイニング・ルームで昼食をとった。暑気を避けるためにここも暗くしてあった。どこか落ち着かない浮わついた感じを、冷たいエイルビールとともに飲み干した。
 「今日は何をしましょうか?」とデイジーが大きな声を上げた。
「それから、明日は?これから先の三十年間は?」
 「悲しいことを言わないの」とジョーダンは言った。「秋になってひんやりしたら、人生はまた一から始まるの」
 「でも、こんなに暑いのよ!」とデイジーは食い下がった。泣きそうになっていた。「それに何もかもぐちゃぐちゃ。皆で街に行きましょう!」彼女の声はジタバタともがき続けて暑気を抜け出ると、そいつをめった打ちにした。無意味にしか聞こえなかった彼女の声が具体的な形を帯びてきた。
 「馬小屋を車庫にしたという話は聞くが」とトムはギャツビーに言った。「車庫を馬小屋にしたのは私が初めてでしょう」
 「街に行きたいのはだあれ?」とデイジーはなおも質した。ギャツビーの目が彼女の方に泳いだ。「まあ!」と彼女は声を上げた。「あなたはほんとに涼しげね」
 二人の目が合った。二人は互いを見つめた。二人だけがそこにいた。彼女は振り切るように目を逸らし、テーブルに目を落とした。
 「いつも涼しげなんだから」と彼女は繰り返した。
 それは、彼に愛を告げたも同然だった。トム・ビュキャナンはすべてを目撃した。彼は愕然とした。少し口を開けてギャツビーを見、それからデイジーに視線を戻した。まるで、たった今、彼女は自分が昔知っていた人だと分かったかのように。
 「あなたは、広告に出てるあの男の人に似てる」彼女は屈託なく続けた。「あの広告知ってるでしょう」
 「分かった」とトムがさっと間に入った。「是非とも街に行きたいね。ほら、行こうぜ――皆で街に行くんだ」
 彼は立ち上がった。両眼は、ギャツビーと自分の妻との間でぎらついていた。誰も動かなかった。
 「ほら、行くぞ!」彼は少々癇癪を起こした。「何か問題があるか?行くんなら、さあ、出かけよう」
 自制しようと震えた手で、グラスに残ったエイルビールを口まで運んだ。デイジーが声を発したのを機に、私たちは立ち上がり、砂利の焼け付く車回しに出た。
 「ほんとに行くの?」とデイジーは反対した。
「こんなふうにして?どなたかまず煙草を吸ったら?」
 「皆、昼食の間中ずっと吸ってたよ」
 「ねえ、楽しくやりましょうね」と彼女は彼に請うた。「こんなに暑いんだから喧嘩は無理」彼は応えなかった。
 「お好きに」と彼女は言った。「行きましょう、ジョーダン」
 二人は支度をするために階上に行った。私たち男三人はそこに立ったまま、足下の熱い石を片足で動かしていた。西の空には今や、弓なりになった銀色の月が浮かんでいた。ギャツビーが何かを言いかけたが、思い直して口をつぐんだ。けれどもトムは振り向いて、彼の方を見た。どうしたんでしょうとでも言わんばかりだった。
 「こちらには馬小屋があるんですか?」とギャツビーは何とか切り出した。
 「道路を四百メートルほど行ったところに」
 「そうですか」
 間。
 「街に行きたいなんて、よく分かりませんよ」とトムが吐き出すように口にした。「女があんなふうに考えるなんて――」
 「何かお酒を持っていかない?」とデイジーが階上の窓から声を張り上げた。
 「ウィスキーを持っていくか」とトムが応え、邸の中に入っていった。
 ギャツビーは私の方を向いた。顔が強張っていた。
 「彼の家にいては何も言えないよ、オールド・スポート」
 「デイジーの声は明け透けだね」と私は評した。「何かで満ちてるというかさ」そこで私は躊躇した。
 「彼女の声は金(かね)で満ちている」と彼は唐突に言った。
 そうなのだ。それまで私には分からなかった。彼女の声は金で満ちていた。いつまでも立ち昇っては落下する蠱惑だった。チャリン、チャリン。シンバルのシャン、シャンという響き……真っ白な宮廷の高くにおわす、王の娘、黄金の女の子……。
 トムが、一リットルほどの瓶をタオルに包みながら、邸の外に出てきた。デイジーとジョーダンが後に続いた。金属のような生地でできた小さく締まった帽子を被り、腕には軽やかなケープを纏(まと)っていた。
 「全員私の車で行きませんか」とギャツビーが提案した。座席の緑の皮革が熱くなっているのを手に感じた。「日陰に停めておくべきでしたね」
 「その車はスタンダード・シフトかね?」とトムが訊いた。
 「ええ」
 「そうですか。君は俺のクーペを運転したらいい。君のを街まで運転させてほしい」
 この提案は、ギャツビーにとって快いものではなかった。
 「ガソリンがあまり入っていませんし」と彼は食い下がった。
 「ガソリンならたっぷり入っている」とトムは語気を荒げて言った。そして、燃料計を見た。「それに、なくなったら薬局に寄ればいい。最近では薬局で何でも買えますしね」
 この、無意味とも思われる発言の後で間があった。デイジーは眉を顰めてトムを見た。何とも言えない表情がギャツビーの顔に浮かんだ。これまでそんな表情を見たことがないのは歴然としているのに、同時に、何となく見覚えもあるような。一度言葉で説明されるのを耳にしたことがあるような。
 「来いよ、デイジー」とトムが言って、彼女を片手でギャツビーの車の方に向けて押した。「このサーカス馬車で連れて行ってやるぞ」
 彼は扉を開けた。けれども彼女は、彼の腕から抜け出した。
 「あなたがニックとジョーダンを連れて行ってよ。私たちはクーペに乗って後から行くから」
 彼女はギャツビーの傍らまで歩き、彼の上着に触れた。ジョーダンとトムと私は、ギャツビーの車の前部座席に乗り込んだ。トムは自信がなさそうに慣れないギアを試していたが、車はすぐに、茹だるような暑さの中へと飛び出して行った。二人の姿は見えなくなった。
 「あれを見たか?」とトムが訊いた。
 「何を?」
 彼はきっとして私を見た。ジョーダンと私は初めから知っていたに違いないと踏んでいた。「俺のことを阿呆だと思ってるだろ?」と彼は言った。「そうかもしれん。でも俺には――勘が働くんだ。それで、何をしたらいいのかが分かるわけだ。信じないかもしれないけどな、でも科学によると――」
 彼は間を置いた。直ちに起こるかもしれないことが彼を圧倒し、理論的深淵の縁から彼を引き戻した。
 「あいつについてはささやかな調査をした」と彼は続けた。「あのことを知っていれば、さらに調査できたかもしれないが――」
 「真ん中辺り(ミディアム)には(訳注:a medium: 「中間」という意味と「霊媒師」という意味がある)行ったということ?」とジョーダンがふざけて尋ねた。
 「何?」混乱して彼は私たちをじっと見た。私たちは笑った。「ミディアム?」
 「ギャツビーの話よ」
 「ギャツビーの話だ!いや、まだまだ。彼の過去について、ささやかな調査を進めてきたとは言ったよな」
 「で、彼がオックスフォードを出てるってのは分かったでしょう」とジョーダンが合いの手を入れた。
 「オックスフォード卒!」彼は信じられないという顔をした。「そんなはずがあるか。ピンクのスーツを着てるんだぞ」
 「でも、オックスフォード卒なのよ」
 「ニュー・メキシコのオックスフォードか」とトムは侮蔑を込めて吐き捨てるように言った。「まあ、そんなようなところだ」
 「ねえ、トム。そんなにお高くとまるなら、どうしてあの人を昼食に誘ったりしたのよ」とジョーダンが苛立ちを隠さずに質した。
 「デイジーが誘ったんだよ。俺達が結婚する前からのお知り合いだそうだからな――一体どこで知り合ったんだか!」
 皆が不機嫌になっていた。エイルビールの酔いは醒めつつあった。そうした自覚があって、しばらく誰も一言も発しなかった。そのときT. J. エクルバーグの色褪せた両眼が道路の先で視界に入ってきた。私は、ギャツビーがガソリンのことで注意していたのを思い出した。
 「街に行くには十分入ってるよ」とトムは言った。
 「でも、ここに自動車修理店があるじゃない」とジョーダンが異を唱えた。「こんな焼け付くような暑さの中、車が止まったりしたら最悪」
 トムは苛ついて両方のブレーキを踏み込んだ。車は砂埃を上げて急停止した。ウィルソンの店の看板の下だった。 しばらくして、店主が店内から現れた。ぼんやりと車を見入っていた。
 「ガソリンを入れてくれ」とトムが荒っぽく言った。「何で俺たちがわざわざ車を停めたと思ってるんだ――景色でも見るためか?」
 「具合が悪くて」とウィルソンは言った。微動だにしない。
 「一日具合が悪いんです」
 「どうしたんだ?」
 「ぺしゃんこに轢かれたみたいな気分です」
 「そうか。なら俺が自分でやろうか?」とトムは言った。「電話ではしっかりしてたのにな」
 ウィルソンは戸口に身をもたせかけていたが、何とか日陰から出て来、喘ぎながらタンクの栓を開けた。陽の光の中、彼はひどい顔色だった。
 「昼食のお邪魔をする気はなかったんです」と彼は言った。「でもどうしてもお金が要るんです。お売りいただけることになっていたお車はどうなさるんでしょうか」
 「この車はどうだ?」とトムは尋ねた。「先週買ったばかりだよ」
 「素敵な黄色のお車ですね」とウィルソンは、ガソリンポンプの取っ手を引っ張りながら言った。
 「買いたいか?」
 「のるかそるか」とウィルソンは力なく笑った。「やめときます。あの車でしたらお金にはなるのですが」
 「何で突然金が要るんだ?」
 「ここには長くおり過ぎました。遠くへ行きたくなりまして。家内と二人で西部に行こうかと」
 「奥さんもか!」とトムは仰天して叫んだ。
 「家内はこの話を十年はしとります」と彼は言い、ポンプに寄りかかって一休みした。手を翳(かざ)して光を遮っていた。「で、今ではね、行きたかろうと行きたくなかろうと、家内は行ってしまうんですよ。あいつを遠くに連れて行くんです」
 クーペが私たちの傍を駆け抜けた。砂埃が舞い上がった。一瞬、走り去る車から手が出て、合図した。
 「いくらだ」とトムがきつい調子で言った。
 「この二日ばかり、知恵がついたのか、おかしなことに気づきまして」とウィルソンは言った。「それで、遠くに行きたいんです。それで、車の件でご迷惑をおかけしている次第です」
 「いくらだ」
 「一ドル二十セントです」
 暑さはどこまでも容赦なく、私はぼんやりとしてきた。しかし、あそこでは居心地の悪い思いをしたが、これまでのところウィルソンの疑念はトムには及んでいないということに気づいた。確かにウィルソンは、マートルが自分から離れた別の世界に別の生活を持っていることに気づいていたし、そのせいで身体を壊してしまった。私はウィルソンをよく見、それからトムもよく見た。トムもまた、その一時間足らず前に、自分がウィルソンと同じ目に遭っていたことに気づいていたのに――そのとき私は思った。知性や人種における人間の差異など、病んだ人間と健やかな人間との差異に比べれば、取るに足りぬものだ。ウィルソンは病み、罪を犯したかのように――許されざる罪を犯したかのように――見えた。まるで、どこかの貧しい少女を孕(はら)ませたばかりのように――。
 「車は明日売る」とトムは言った。「明日の午後に届けさせよう」
 あの辺りはどこか落ち着かないものだった。真昼に日がぎらぎらと照りつけていてもだ。さて、私は後ろで何か警告を受けでもしたように振り返った。灰の山々の上にはT. S. エクルバーグ医師の巨大な両眼が寝ずの番をしていた。しかしすぐに私は、六メートルも離れていないところから別の目が、私たちに向けて異様に激しい眼差しを送っているのに気づいた。
 修理店の上階の窓のひとつではカーテンが少し開け、マートル・ウィルソンが隙間から目を凝らして下の車を見ていた。彼女は一心不乱で、まさか自分が見られているなどとは思いもしなかった。ある感情が顔に浮かび、徐(おもむろ)に別の感情がそれに取って代わった。ゆっくりと現像している写真に浮かび上がってくる被写体のようだった。彼女の表情には、不思議にも見覚えがあった。それまで私は、女性の顔にこの表情が浮かぶのをよく目にしてきた。しかし、マートル・ウィルソンの顔では、それは目的を欠き、説明を寄せつけないものだった。そこで私は思い至った。彼女の、嫉妬に満ちた恐怖で見開かれている両眼は、トムにではなくジョーダン・ベイカーに注がれていた。トムの妻だと取り違えていたのだ。


 単純な人間の抱く混乱ほど、始末に負えないものはない。私たちが再び車を走らせていたとき、トムは、鞭で打たれ、ひりひり痛む傷のようなパニックに苛まれていた。一時間前までは安泰で、不可侵でもあった彼の妻と愛人は、今やあっけなく彼の掌中から零(こぼ)れ落ちようとしていた。本能的に彼はアクセルを踏み込んだ。デイジーに追い付くためでもあったし、ウィルソンの元を去るためでもあった。アストリアに向け、時速五十マイルで疾駆した。そうしていると、高架鉄道の、蜘蛛の巣のように張り巡らされた大梁の一角に、悠々と走る青いクーペが見えてきた。
 「五十丁目辺りの大きな映画館は涼しいよ」とジョーダンが提案した。「夏の午後のニューヨークって大好き。皆、いなくなってて。何かすごくエロいというか、甘ったるい感じがする。面白い果物が全部、手の中に落ちて来そうな」
 「エロい」という語でトムはさらに落ち着かなくなった。けれども、トムが抗議するより前に、クーペが停まった。デイジーが私たちに、車を隣に並べて停めるよう合図した。
 「さて、どこに行きましょうか」とデイジーが声を上げた。
 「映画館はどう?」
 「暑いよ」と彼女は反対した。「三人で行ってきたらいいじゃない。私たちはドライブしてるから。後で落ち合いましょう」そして彼女は、何とかして無理に冗談を言った。「それではどこかの街角で。煙草を二本まとめて吸ってるおじさんが私だから」
 「ここでそういうおしゃべりはなしだ」とトムが苛々して言った。すると、後方でトラックが忌々しそうにクラクションを鳴らした。「俺についてきてくれ。セントラル・パークの南側、プラザ・ホテルの前まで行く」
 トムは何度か振り返り、二人の車を確認した。交通が混雑して速く走れないときは、速度を緩め、二人の車が目に入るようにした。思うに、彼らが脇道を突っ切り、彼の人生から消えてしまうのを恐れていたのではないか。
 けれども、そんなことはなかった。結局私たちは、説明のつかない選択をしてしまうことになった。プラザ・ホテルのスウィートを借りたのだ。
 どういう顛末で皆であの部屋に行くことになったのか。間延びした喧々囂々(けんけんごうごう)の議論は今となっては思い出せない。けれども、その渦中で私の下着は汗を含み、湿った蛇のように両脚をずっと這い上がってきたのと、時折汗の粒が背中を斜めに伝っては冷たくなっていったのは、今でも生々しく覚えている。そもそもは、デイジーが、バスルームを五つ借りて水風呂を浴びるのはどうかしらと言ったのが始まりだった。それがもう少し具体的になり、「ミント・ジュレップ(訳注:バーボンに砂糖を加え、砕いた氷の上に注ぎ、ミントの葉を添えたカクテル)が飲める場所」ということになった。私たちのそれぞれが、何度も、何度も、そんなのは「クレイジーな考え」だと言った。――ホテルに着くと、皆が一斉に受付係に話しかけ、彼女を当惑させた。皆が、自分たちは愉快にやっていると思っていた――いや、そう思っている振りをしていただけなのかもしれないが……。
 部屋は大きく、むっとしていた。もう午後四時だったが、窓という窓を開けても、公園の低木から熱風が吹いてくるばかりだった。デイジーは鏡台に行き、背を向け、立ったままで髪を直した。
 「すぅてきなスゥウィート」とデイジーは気を遣ってささやいた。それで、皆が笑った。
 「他の窓も開けてよ」とデイジーが背を向けたまま言った。
 「他のは、もうないよ」
 「そっか。電話して斧でも――」
 「とにかく、暑いのは忘れることだ」とトムがぴしゃりと言った。「ぐちぐち言うから、十倍くらいに暑くなる」
 彼は、ウィスキーのボトルをくるんでいたタオルを外し、ボトルをテーブルの上に置いた。
 「そっとしておいてあげられませんか、オールド・スポート」とギャツビーが間に入った。「街にいらしたいとおっしゃったのはあなたでしょう」
 沈黙があった。釘に掛けてあった電話帳が、びしゃんと音をたてて床に落ちた。そこで、ジョーダンがこっそり「ごめんね」と言った――けれども、今度は誰も笑わなかった。
 「拾うよ」と私が言った。
 「私が」と言って、ギャツビーはちぎれた紐を点検した。興を惹かれたように「ほぉ!」と小声で言った。そうして、電話帳を椅子の上に放った。
 「なかなかの物言いじゃないですか」とトムが棘々(とげとげ)しく言った。
 「何がです?」
 「オールド・スポートというのですよ。どこで覚えたんだ?」
 「ねえ、トム」とデイジーが鏡からこちらを向いて、言った。「立ち入ったことを言うんだったら、私、帰るよ。フロントに電話して。ミント・ジュレップの氷を頼んで」
 トムが受話器を上げた。圧搾されていた熱気が爆発して音になった。私たちは、受話器から聞こえる、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』の大仰な和音に耳を澄ませた。
 「一体誰が、この暑い中に結婚するんでしょう」とジョーダンが参ってしまったような声を絞り出した。
 「でも――私が結婚したのは六月の半ばよ」とデイジーが思い出したように言った。「六月に、ルイヴィルで。熱中症で気を失った方もいらしたっけ。どなただったかしら、トム?」
 「ビロクシ」と彼は簡潔に答えた。
 「そう、ビロクシっていう男の人。ブロクス(訳注:積み木)・ビロシキって呼ばれてて、箱を作るのがお仕事だったの――嘘じゃなくて――で、テネシーのビロクシのご出身」
 「皆が私の家に連れて来たの、その人」とジョーダンが相槌を打った。「私の家が、教会から二件隣だからって。それでその人、三週間も家にいたんだよ。とうとうお父さんが『出て行きなさい』って言ったんだけど、その次の日にお父さんは死んじゃった」少しして、彼女は、まるで自分が、関係のない話をしているような印象を与えたのではないかとでも言うように、こう付け加えた。「だからお父さんが死んじゃったって言うんじゃないよ」
 「メンフィス出身のビル・ビロクシという人なら、昔知り合いだったよ」と私は言った。
 「その人は従兄だね。家族歴については、家を出ていく前には全部知っていたから。頂いたアルミのパターは今でも使ってるよ」
 式が始まったときには音楽は止んでいた。今では、長く続く歓声が立ち上って窓から室内に入って来た。後に、散発的に「イー、イー、イー!」という声が聞こえた。そうして、ダンスとともに、ジャズの演奏がどっと始まった。
 「私たちも、歳ね」とデイジーが言った。「若かったら、立ち上がって皆で踊るのに」
 「ビロクシのこと、忘れないで」とジョーダンが彼女の出鼻を挫いた。「トム、あなたはどちらでその方と知り合ったの?」
 「ビロクシのこと?」とトムは散りかけた注意を集中した。「俺は直接は知らないよ。デイジーの友達じゃないのか」
 「違うよ」とデイジーは言った。「式の前にはお会いしたことがないもの。貸し切りの車でいらしたのよ」
 「そうか、あいつはお前の知り合いだと言ってたけどな。ルイヴィルで育った、ともね。直前になってアサ・バードが連れて来て、こいつの席はまだあるか、と訊いてきたんだよ」
 ジョーダンは、笑んだ。
 「物乞いでもしてお家に帰ろうとしてたのかしら。イェールではお二方のクラスの代表をなさってたってお話してくれたのに」
 トムと私はぽかんとして顔を見合わせた。
 「ビロクシ、という人が?」
 「そもそも、クラスの代表なんていう制度はない――」
 ギャツビーが足下で、トントン、トントン、と落ち着きなくリズムを刻んでいた。突然に、トムが見咎めた。
 「ところで、ミスタ・ギャツビー。あなたはオックスフォード卒だと聞き及んでおりますが」
 「正確にはそうではありません」
 「ほう。オックスフォードに通ってらしたとのことですが」
 「ええ、行っておりました」
 間。それから、疑い深く、侮蔑の込もったトムの声が響いた。「ビロクシがニュー・ヘイヴン(訳注:イェール大学の所在地)に行っておったときには、君もオックスフォードに行っていたんでしょう」
 さらに、間。給仕が扉をノックし、潰されたミントと砕かれた氷を持って入室し、「ありがとうございます」と言ったが、沈黙は破られなかった。そのまま、扉が静かに閉じられた。件のすさまじい詳細が、今や明らかになろうとしていた。
 「確かに行っておりました。今申し上げたように」とギャツビーが言った。
 「ええ、お聞きしました。ですが、いつのことか、お伺いできれば」
 「1919年のことです。行ったのは五ヶ月だけです。ですから、『オックスフォード卒』とは申し上げられません」
 トムは、私たちが自分と同じ不信感を表しているかと周りを見遣った。けれども、私たちの眼差しはギャツビーに注がれていた。
 「休戦(訳注:1918年11月11日)の後で、一部の軍人に与えられた機会でした」と彼は続けた。「イングランドないしはフランスの大学になら、どこへでも行く権利があったのです」
 私は立ち上がり、彼の背をぽんと叩いてやりたいと思った。かつて感じていた、彼への全幅(ぜんぷく)の信頼がたちまち蘇ってきた。そのうちのひとつを、私はまさにそのとき感じていた。
 デイジーが立ち上がって、力なく笑み、テーブルへと歩み寄った。
 「ウィスキーを開けて、トム」と彼女は言いつけた。「私がミント・ジュレップを作ってあげる。一杯飲んだら、惨めな気持ちも醒めるんじゃない?……わ、このミント!」
 「待て!」とトムが噛み付いた。「ミスタ・ギャツビーにはもうひとつお伺いしたいことがある」
 「どうぞ、どうぞ」とギャツビーは礼を崩さずに言った。
 「君は一体、私の家庭にどういった諍(いさか)いを持ち込もうとしているのか」
 さあ、もう二人は隠し立てできない。ギャツビーはほくそ笑んだ。
 「諍いなんて持ち込んでないじゃない」とデイジーは二人を交互に見た。「それは、あなたの方よ。少しは自分を抑えてよ」
 「自分を抑える!」とトムは信じられないとでも言うように繰り返した。「手をこまねいていて、どこの馬の骨とも分からん奴に妻を寝取られて平気でいるっていう生き方も近頃ではあるらしいけどな、俺はご免だ……。今じゃ、家庭生活とか家族制度が愚弄され始めている。次には奴らは、全部をひっくり返す。黒人と白人が混血するようになるぞ」
 トムは、熱に浮かされたように訳のわからない演説をぶちながら、紅潮していた。文明の最後の砦にたった一人で立ち向かっているとでも思っていたのだろう。
 「ここにいるのは皆白人なのに」とジョーダンがぼそっと言った。
 「俺は人好きがしない。でかいパーティーを開いたりしないしな。友達を作るには、家を豚小屋にしなくちゃならない――今の世の中ではな」
 私は皆と同じで、腹が立っていた。けれども、彼が口を開く度に笑いたくなった。遊び人から堅物への移行は、ここに極まれり。
 「『あなたに』言っておきたいことがあります、オールド・スポート――」とギャツビーは切り出した。けれども、デイジーが彼の意図を察知した。
 「お願い、やめて!」と彼女はおろおろしてギャツビーに割って入った。「お願い、皆でお家に帰りましょうよ。ねえ、お家に帰りましょうよ」
 「そうしようよ」と私は立ち上がった。「行こうぜ、トム。もう誰も飲みたくないしさ」
 「俺は、ミスタ・ギャツビーがおっしゃりたいことをお伺いしたい」
 「奥様は、あなたを愛していませんよ」とギャツビーは言った。「愛したことすらない。私を愛しているから」
 「お前、頭がおかしいのか!」とトムは反射的に怒鳴りつけた。
 ギャツビーは跳ね上がった。昂奮で、力がみなぎっていた。
 「愛したことすらないって言っただろ?」と彼も声を張り上げた。「あの女性(ひと)があんたと結婚したのは、私が貧しくて、待っていられなくなったからに過ぎませんよ。大きな間違いでしたが。でも、心の底では私以外の誰も愛したことはないんだ!」
 この瞬間、ジョーダンと私は立ち去ろうとした。けれども、トムとギャツビーが、留まるように促した。その頑固さでも二人は張り合っていた――まるで、どちらにも隠し立てすることはないし、自分たちの感情を傍で感じられるのは光栄だろうとでも言わんばかりだった。
 「座りなさい、デイジー」とトムは言った。父性的な響きを模索したが、うまくいかなかった。「何が起こっていたんだろうね。全部聞いてみたい」
 「何が起こっていたかはお話したでしょう」とギャツビーが言った。「五年続いています――そして、あなたはご存知なかったようだ」
 トムはきっとデイジーのほうに目を向けた。
 「こいつと五年も付き合ってきたのか?」
 「付き合っていたわけじゃありません」とギャツビーは言った。「そうじゃない。お会いすることはできなかった。でも、その間ずっと愛し合っていたんです、オールド・スポート。そして、あなたはご存知なかった。時には声を上げて笑ったものです」――けれども、彼の目は笑いなどはちっとも湛(たた)えていなかった――「あなたがご存知ないと思うと」
 「ああ、それだけのことか」トムは聖職者のように分厚い指をとんとんと打った。そうして、椅子に深く腰掛けた。
 「頭がおかしいのか!」と彼は爆発した。「五年前に何があったかなんて、知るか。そのときにはまだデイジーと知り合ってなかった――食料品か何かを裏口に配達に来たんでもなけりゃ、お前がデイジーの一マイル以内に近づいたとは思えない。でもな、他のは全部、糞みたいな嘘だ。デイジーは結婚したとき俺を愛していたし、今だって俺を愛している」
 「いいえ」とギャツビーは言って首を振った。
 「ところが俺を愛してるんだよ。ときどき馬鹿な考えが浮かんで、自分が何をしてるのか分からなくなることはあるにせよ、な」彼は訳知り顔で頷いた。「それにな、俺だってデイジーを愛している。ときおり羽目を外して馬鹿な真似はしてしまう。でも、俺は必ず戻ってくる。いつも、心底あいつを愛してるんだよ」
 「気色悪い」とデイジーは言い、私の方を向いた。声を一オクターヴ低くした。彼女の声は、刺すような軽蔑で部屋を満たした。「どうして私たちがシカゴを離れたか知ってる?あのちょっとした騒ぎのお話を、皆が面白可笑しくするのはきっとお耳にしたでしょう?」
 ギャツビーが部屋を横切って、彼女の傍に立った。
 「デイジー、もう全部終わったよ」と彼は熱っぽく言った。「もうどうでもいいんだ。ただ、本当のことを教えてあげて――あの人を愛したことはないって――そうしたら、永遠に消えてしまうんだ」
 彼女は何も考えられずに彼を見た。「ねえ――どうして私があの人を愛せるっていうのよ――一体?」
 「君はあの人を愛したことはない」
 彼女は躊躇(ためら)った。訴えかけるような眼差しがジョーダンと私に注がれた。まるで、ついに自分のしていることが分かったようだった――そして、まるで彼女はこの方一度も、何もするつもりはなかったかのようだった。けれどもそれはなされてしまったのだし、もう手遅れだった。
 「あの人を愛したことはない」と彼女は言ったが、否応なしに言っているのが見て取れた。
 「カピオラニ(訳注:ハワイにある公園)でも?」と咄嗟にトムが質した。
 「ええ」
 下の舞踏室から、くぐもった、息の詰まるような和音が暑い気流とともにたゆたってきた。
 「パンチボウルの丘から君を抱っこして下ろしてやったときも?靴が濡れないようにと言って」彼の声色には、ハスキーな優しさがこもっていた……。「デイジー?」
 「やめて」彼女の声は冷ややかだった。だが、あの憎しみは消えていた。彼女はギャツビーを見た。「ねえ、ジェイ」と彼女は言った――けれども、煙草に火をつけようとしたとき、彼女の手は震えていた。突然彼女は、煙草と火のついたマッチを絨毯に投げ捨てた。
 「あなたは多くを求め過ぎよ!」と彼女はギャツビーに向けて叫んだ。「今でもあなたを愛してる――それじゃ不足?過ぎ去ったことはどうにもできない」どうすることもできずに、彼女はむせび泣き始めた。「かつてあの人を愛したことは、確かにあった――それでも、あなたのことも愛していた」
 ギャツビーの眼は開き、閉じた。
 「私のこと『も』愛していた?」と彼は繰り返した。
 「それにしたって、嘘だ」とトムは激しく言った。「こいつは、あんたが生きてることも知らなかったんだ。なあ、デイジーと俺との間にはな、あんたにはどうしたって分からんことがある。二人にとって忘れられない思い出もある」
 この言葉は、ギャツビーの肉を抉ったようだった。
 「デイジーと二人きりで話がしたい」と彼は言い張った。「デイジーは今はすっかり昂奮していて――」
 「二人きりでも、トムのことは愛したことがないなんて言えない」と彼女は痛ましい声で言った。「嘘になる」
 「もちろん、嘘になる」とトムが同意した。
 彼女は、夫の方を向いた。
 「関係ないでしょ」
 「大いにある。今からは、君のことをもっとちゃんとするよ」
 「あなたは分かっていない」とギャツビーが言った。微かにパニックを起こしていた。「あなたはもう、デイジーに優しくすることはこの先ないんです」
 「そうかい?」とトムは目を見開いて、声を上げて笑った。今では自分を抑えられるようになっていた。「なぜだ?」
 「デイジーがあなたの元を去るからですよ」
 「冗談じゃない」
 「でも、そうなのよ」と彼女は言ったが、目に見えて無理をしていた。
 「デイジーが俺の元から出ていくわけがないだろう!」トムの言葉は突然、ギャツビーを威圧した。「盗んだ指輪しかはめてやれないような卑しい身分の詐欺師のために、俺の元を出ていくもんか」
 「もう嫌!」とデイジーは叫んだ。「ねえ、もうここを出ましょうよ」
 「ところで、あんた、何者だ?」とトムが切り出した。「マイア・ウルフシャイムの取巻きの一人だろ――それくらいは偶々(たまたま)知っていてね。あんたのやってる仕事については、ちょっとは調べさせてもらった――明日にはもう少し調査を進めるつもりだ」
 「好きにしたらいい、オールド・スポート」とギャツビーは落ち着いて言った。
 「あんたのやってる『薬局』がどういうのか分かったよ」と彼は言って私たちの方を向き、捲し立てるように話した。「こいつとウルフシャイムって奴は、場末の薬局を多数買い占めた。ここニューヨークでも、シカゴでもな。そして、店頭で酒を売った。それが、こいつのつまらん事業とやらのひとつだよ。初めて見たとき、酒の密売人だろうと踏んでいたが、まあ、大体当たっていたようだ」
 「それがどうなさいました?」とギャツビーは礼儀正しく言った。「お友達のウォルター・チェイスさんだって、この事業に加わったんですよ。気位が高すぎてできないということはなかった」
 「あんた、あいつを見捨てただろ?おかげであいつはニュージャージーの刑務所に一ヶ月行く羽目になった。全く!ウォルターがあんたの話をするのを聞かせてやりたいよ」
 「彼は一文無しで私たちのところに来たんです。いくらかお金になって大層喜んでましたよ、オールド・スポート」
 「俺のことを『オールド・スポート』と呼ぶのは止めろ!」とトムは怒鳴りつけた。ギャツビーは何も言わなかった。「ウォルターは賭博法違反であんたを訴えることだってできたんだ。ウルフシャイムが圧力をかけて口封じをしたけどな」
 見慣れぬ、けれども紛う方のない表情がギャツビーの顔に蘇った。
 「薬局事業なんて、まだ序の口だ」とトムはゆっくりと続けた。「だけど、あんた他にも企んでることがあるだろ。ウォルターは怖気づいて、俺にも話そうとしないんだけどな」
 私はちらりとデイジーを見た。怯えきった様子で、ギャツビーと彼女の夫の間をじっと見ていた。そして私はジョーダンを見た。目には見えない、けれども強烈に私を惹き付ける何かを顎の上に載せて、釣り合わせにかかっていた。そうして、私は、ギャツビーを見た――彼の表情には驚愕した――彼は――私は、彼の庭園で繰り広げられた、べちゃべちゃと口煩い誹謗中傷を心底軽蔑しているが、それでも――「人を殺したことがある」ように見えた。束の間ではあったが、彼の形相は、まさにそれほど凄まじい形容をするしかないものだった。
 それはやがて行き過ぎ、ギャツビーは昂奮してデイジーに話し始めた。全てを否定した。浴びせられてもいない批難に対してまで弁明をした。けれども、話せば話すほど、彼女は心を閉ざしてしまった。それで、ギャツビーは諦めた。午後の時間がひっそりと終わりを迎える中で、ただ破れた夢だけが戦いを続けた。今や触れることのできないものに触れようとして、苦悶し、けれども望みは捨てず、部屋の向こう側の失われた声へと懸命に手を伸ばした。
 その声が再び、帰りたいと請うた。
 「お願い、トム!こんなのは耐えられない」
 彼女の恐れ戦(おのの)いた目は、かつて彼女が抱いた、どのような意図も勇気も、確かに霧消してしまったことを示していた。
 「君らは二人で家に帰りなさい、デイジー」とトムは言った。「ミスタ・ギャツビーの車で」
 彼女は彼を見た。今では彼女は慄然としていた。けれども彼は、侮蔑を込めて彼女を赦した上で、そうするように言い張った。
 「さあ。もう鬱陶しいことはされないから。行き過ぎたつまらん火遊びはもう終わったって、この人はもう分かってるだろうからな」
 二人は出て行った。一言も発しなかった。引き剥がされ、必然性を剥奪され、孤立させられていた。私たちの憐憫も一役買って、二人は幽霊のように見えた。
 しばらくしてトムが立ち上がり、封を切っていないウィスキーの瓶をタオルで包み始めた。
 「飲むか?ジョーダン?……ニック?」
 私は応えなかった。
 「ニック?」と彼は再び訊いた。
 「何?」
 「飲むか?」
 「いや、いらない……そういえば、今日は僕の誕生日だ」
 私は三十歳になっていた。眼前には、由々しく、不穏な、未踏の十年の道が伸びていた。
 七時になって、私たちはトムの運転するクーペに乗り込み、ロング・アイランドに向けて出発した。トムはひっきりなしに話をした。勝ち誇ったように、大いに笑っていた。しかし彼の声は、ジョーダンからも私からも遠い所にあるように響いた。歩道で見知らぬ群衆が叫んでいるようでもあったし、頭上の高架鉄道が轟音を鳴らしているようでもあった。人間が持てる同情には限りがある。街の灯が後方に流れてゆくのと同時に、トムとギャツビーが交わした凄惨な紛擾(ふんじょう)の全ても色褪せていった。それで、私たちはほっとしていた。三十歳――それは、孤独な十年の訪れを告げていた。独り身の男友達は少なくなるし、情熱の詰まったブリーフケースはどんどん小さくなるし、そして、髪は薄くなるに違いない。しかし、傍にはジョーダンがいた。デイジーとは違い、道理をよく心得ている。うまく忘れられる昔の夢を、いつまでも引きずることはない。真っ暗な橋を渡ったとき、彼女の蒼い顔が気怠そうに私の上着の肩に載った。三十歳になったというのには、堪(こた)えた。けれども、彼女の手が「大丈夫」とでも言うように私の掌を抑えてくれるのを感じていると、私の怖れは徐々に消えていった。
 そんなふうに私たちは、涼しくなりつつあった宵の中を、死に向かって走り続けた。


 ミケイルスなる若いギリシャ人青年(灰の山々の傍らで、安コーヒー屋をやっていた)が、検死における最重要目撃者であった。彼は灼熱の中、五時過ぎまで眠り、工場(こうば)までのんびり歩いた。そして、ジョージ・ウィルソンが事務室で具合が悪そうにしているのを見つけた。すっかり弱りきっていた。自分の薄色の髪のような血の気の引いた顔色で、全身が震えていた。ミケイルスは、寝ろと言ったが、ウィルソンは拒んだ。仕事を休むわけにはいかない、と言った。隣人であるミケイルスが説得にかかっていると、頭上でドカンという音が聞こえた。
 「女房を閉じ込めていてね」とウィルソンが平然と説明した。「あいつは明後日まではあそこにいる。それから、二人で出ていくよ」
 ミケイルスは驚愕した。四年来の隣人である。ウィルソンはそんなことを言える男ではなかった。仕事をしていないときには戸口に置いた椅子に座り、道路を過ぎ行く人や車を見つめているだけの、典型的な「疲弊しきった」男だった。話しかけられたときには相手に賛意を示して笑ってやるが、単なるお仕着せといった具合なのが常だった。彼は、彼の妻が結婚している男でしかなく、彼自身はまるで個性を欠いた存在だった。
 だから当然、ミケイルスは、何が起こったのか知ろうとしたのだが、ウィルソンは一言も発しようとしなかった――代わりにウィルソンの方が、この来訪者を面白そうに、また疑わしそうにちらりちらりと見遣り、いついつの何時に一体何をしていたのかと尋ね始めた。来訪者が落ち着かなく感じ出したと同時に、労働者が何人か扉の前を過ぎ行き、彼のコーヒー屋に向かっていった。ミケイルスはこの機会を利用し、「後で戻る」と言って立ち去った。けれども彼は戻って来なかった。ウィルソンは、忘れたんだろうと思った。それだけのことだ。七時を少し過ぎた頃に表に出たとき、ミケイルスはあの会話を思い出した。ミセズ・ウィルソンの声を聞いたからだ。階下の工場(こうば)で、大声で、怒鳴りつけていた。
 「ぶってみろよ!」彼は、彼女が叫ぶのを聞いた。「投げ飛ばして、ぶってみろよ、この、汚らしい、けちな、腰抜け!」
 少しして、彼女は黄昏の中に飛び出した。両手を振って、何かを叫んでいた――ミケイルスが扉から一歩踏み出す前に、全ては終わっていた。
 その「死の車」――そう新聞は書き立てた――は停まらなかった。それは、凝縮しつつある闇から飛び出し、しばしよろめいた。惨劇だった。そうして、次の角を曲がって消えてしまった。ミケイルスは、車体の色すら確かでなかった――彼は、一人目の警察官には車は薄い緑だったと言った。後からもう一台、ニューヨーク方面に向かう車があった。それは現場から百ヤード行き過ぎたところで停まり、運転手がマートル・ウィルソンのところまで慌てて戻って来た。彼女は、力づくでその生命を奪われ、路上に両膝を付けて伏していた。どろりとした黒い血液が灰燼と混じっていた。
 ミケイルスとこの男が、初めに彼女の元に到った。けれども、まだ汗で湿ったブラウスを裂いてみると、左の乳房はもぎ取られ、ぶらぶらしていた。その下の心臓の音を求める間でもなかった。口は大きく開かれ、両方の角が裂けていた。長く温めていた巨大な活力を放ったときに、息ができなくなったかに見えた。
 私たちには、まだ現場から離れた所から、三台か四台の車と、人だかりが目に入っていた。
 「事故だ!」とトムは言った。「良かったじゃないか。とうとうウィルソンに、ちょっとした仕事が舞い込んできた」
 彼は車の速度を緩めようとしたが、依然、車を停めるつもりはなかった。けれども、近づいてみると、人々の、静まり返った、真剣な顔つきが修理店の扉のところにあった。それで彼は、思わずブレーキを踏み込んだ。
 「見てみよう」と彼は疑わしそうに言った。「見るだけだ」
 今では私は、虚ろな嘆き声に気がついていた。それは、ひっきりなしに工場(こうば)から発せられていた。私たちがクーペから降りて扉の方に歩いていると、その嘆き声は、「ああ、神様!」という言葉の形を取った。嗚咽の中で、その言葉は、何度も、何度も繰り返されていた。
 「ひどい事件みたいだな」とトムが興奮して言った。
 彼は爪先で歩いて近づいて行き、輪になった人々の頭越しに、工場(こうば)を覗き込んだ。そこを照らすのは、金網で囲われた黄色い裸電球だけだった。それからトムは、喉の奥で耳障りな音を立て、力強い両腕で乱暴に人だかりを掻き分け、前に進み出た。
 批難の声がぶつぶつと立ち上がったが、輪は再び閉じた。一分ほどは私には何も見えなかった。それから、また別に来た何人かが輪を乱し、ジョーダンと私は突然、輪の中に押し出された。
 マートル・ウィルソンの遺体は、熱帯夜の中で悪寒を感じているかのように、毛布で二重に包(くる)まれ、壁の傍に設置された作業台に横たえられていた。トムは私たちに背を向け、遺体の上に被さるように屈(かが)み込み、微動だにしなかった。彼の隣にはオートバイ警官が立っていて、小さな手帳にしきりに人の名前を書き付けていた。汗だくで、何度も書き直しをしていた。初め私は、がらんどうの工場(こうば)で大きく反響する、あの声高の呻きを発しているのが誰なのか、見つけられなかった――やがて、ウィルソンが、事務室の、周りよりも盛り上がった敷居の所に立ち、両手で扉の両側の柱に掴まって、前後に身体を揺らしているのが目に入ってきた。ある男が低い声でウィルソンに話しかけ、時折、肩に手を載せようとしていた。けれどもウィルソンには何も見えていなかったし、何も聞こえていなかった。彼は、揺れる裸電球から、壁の傍の、遺体を載せた作業台に視線を落としては、びくんと裸電球に視線を戻すというのを繰り返していた。口からは、ひっきりなしに、声高の、おぞましい叫びが洩れた。
 「ああ、かみ、さま!ああ、かみ、さま!ああ、かみ、さま!ああ、かみ、さま!」
 今ではトムもびくんと頭を上げ、虚ろな目で工場(こうば)を見渡すと、もごもごと意味の通らないことを警官に向かって述べた。
 「M-a-y-」と警官は言っていた。「-o――」
 「違う。r-」と男は訂正した。「M-a-v-r-o――」
 「聞いてくれ!」とトムはもごもごした口調で厳しく言った。
 「r」と警官は言った。「o――」
 「g――」
 「g――」肩にトムの大きな手がどすんと載ったので、警官は顔を上げた。「何だね?」
 「何が起こったんですか?――それが知りたくて」
 「車に轢かれたんだ。即死だった」
 「即死だった」とトムは繰り返した。目を見据えていた。
 「道路に飛び出してきたんだよ。あの糞野郎、車を停めもしなかった」
 「二つくるまいた」とミケイルスは言った。「ひとつきて、ひとつ行った、わかる?」
 「どこに行った?」と警察官が鋭く問い質した。
 「どっちにも行った。えっと、おんなのひと」――彼の手が毛布で二重に包まれた遺体の方に向けて上がったが、途中で止まり、身体の横にだらんと落ちた。「おんなのひとが飛び出してきて、もうひとつ、ヌヨークから来たのがおんなのひとに突っ込んだ。時速三十マイルか四十マイル」
 「ここの地名は?」と警官が質した。
 「名前はないです」
 顔色の優れない、きちんとした身なりをした黒人が近くに歩み出た。
 「黄色い車でした」と彼は言った。「大きくて、黄色い車です。新車でした」
 「事故を見たのか?」と警官は訊いた。
 「いいえ、でも、その車は、私の傍を通過して道路を走って行ったのです。時速四十マイルよりは速かったと思います。時速五十マイルか、六十マイル」
 「こっちに来て、名前を教えてくれ。ほらほら、この方の名前を訊かなきゃならないんだよ」
 この会話の一部がウィルソンの耳に届いたに違いない。彼は事務室の扉の所で身体を揺らせていたが、突然、これまで発しなかった内容が、嗚咽の中に現れたからだ。
 「車の種類は言わなくていい。知ってるんだ」
 トムを見た。肩の後ろの筋肉の盛り上がった部分が、上着の下できゅっと締まった。彼は足早にウィルソンの元に歩いて行くと、真向かいに立って、両方の二の腕をぎゅっと握った。
 「しっかりしろ」と彼はなだめるように言ったが、荒々しさは隠せなかった。
 ウィルソンの両眼がトムを認めた。彼は驚いて、ぴょんと爪先立ちになった。トムが身体を真っ直ぐに支えてやっていなければ、膝から崩れ落ちていただろう。
 「聴くんだ」とトムは、ウィルソンの身体を軽く揺すりながら言った。「俺は一分前にここに着いたばかりだ。ニューヨークからな。話していたクーペを持って来てやったぞ。今日の昼間に俺が運転していた黄色い車は、俺のじゃない――聞こえてるか?黄色いのは、この午後ずっと目にしていない」
 あの黒人と私だけが、彼の言っていることが聞こえる距離にいた。けれども警官は、トムの声の調子に何かを感じ、警戒の目を向けた。
 「何だ?」と彼は質した。
 「この人の友達なんです」と言って、トムが振り返った。けれども、彼の両手はしっかりとウィルソンの身体を掴んでいた。「轢き逃げした車を知ってると言っています……黄色の車です」
 杳(よう)とした衝動に駆られ、警官は疑わしそうにトムを見た。
 「あんたの車は何色だ」
 「青です。クーペです」
 「僕たちは、ニューヨークから真っ直ぐ来たんです」と私は言った。
 私たちの少し後ろを運転していた人が、確かにそうだと言ってくれた。それで警官は、元の作業に戻った。
 「さあ、もう一回名前を正しく教えてくれ――」
 トムは、人形のようにウィルソンを持ち上げ、事務室に連れて行った。椅子に座らせ、こちらに戻ってきた。
 「誰かここに来て、こいつと一緒にいてやってくれないか?」とトムは早口で指図がましく言った。トムが見ていると、一番近くにいた男二人が顔を見合わせ、渋々部屋に入って来た。それでトムは扉を閉め、段を一段降りた。作業台には目を遣ろうとしなかった。私の傍を過ぎ行くとき、彼は、「さあ、引き上げよう」と囁いた。
 私たちは人目を気にしていたが、トムが「どけどけ」とでも言わんばかりに両腕で、依然どんどん大きくなっていく人だかりを掻き分け、ジョーダンと私が後に続いた。息せき切った、診療鞄を持った医者と途中ですれ違った。誰かが一縷の望みを託して、半時間前に呼んだのだった。
 トムはカーブを越えるまではゆっくりと運転した――それから彼はぐっとアクセルを踏み込んだ。クーペは夜の闇を疾駆した。少しして、低く嗄(しゃが)れたすすり泣きが聞こえた。涙が溢れ、彼の頬を伝った。
 「くそっ!あの腰抜け!」と彼は小さな声で言った。「あいつ、停まることすらしなかった」


 ビュキャナン邸が突然、私たちの眼前に浮かび上がった。行く手では真っ暗な樹々がかさかさと音を立てていた。
 トムが玄関の脇に車を停め、二階を見上げた。蔓の中で煌々と光を湛える窓が二つあった。
 「デイジーは家にいる」と彼は言った。私たちが車を降りると、彼は私を見て、少し顔をしかめた。
 「ウェスト・エッグでお前を降ろしてやってればよかったな。今日はしてやれることはないよ」
 彼には心境の変化があったようだった。物々しく、きっぱりとした口調で話をした。私たちが、月光に洗われている砂利道を越えて玄関まで歩いているとき、彼は幾分ぶっきらぼうな言い方で事態を収拾した。
 「タクシー会社に電話して、家まで送らせるよ。待ってる間、お前とジョーダンは厨房に行って、夕食を作らせたらいい――よければ、だけどな」彼は扉を開けた。「入ってくれ」
 「遠慮するよ。だけど、タクシーは呼んでもらえるとありがたい。僕は外で待つ」
 ジョーダンが私の腕に手を載せた。
 「おいでよ、ニック」
 「いや、いい」
 私は少し吐き気がしていた。一人になりたかった。けれどもジョーダンはしばらくぐずぐずとそこに留(とど)まった。
 「まだ九時半だよ」と彼女は言った。
 死んでも中に入りたくなかった。この一日、何もかもにうんざりしていた。そこで突然、この幻滅はジョーダンにも及んだ。彼女は私の表情に、少しはそれを見て取ったのだろう。というのは、彼女は突然そっぽを向き、玄関の階段を駆け上がって邸の中に入ってしまったからだ。私は両手で頭を抱え、数分間は座り込んでいた。すると、邸内から、電話の受話器が取り上げられ、執事の声がタクシーを呼んでいるのが聞こえた。そこで私は、車回しをゆっくりと歩いて邸から離れていった。門の所で待つつもりだった。
 二十ヤードも行かないうちに、私の名前が呼ばれるのが聞こえた。ギャツビーが、二つの低木の間から小径に一歩踏み出してきた。そのときまでに、私はかなり変な心地になっていたに違いない。月光の下でピンクのスーツが光っていることしか考えられなかったからだ。
 「何してるんだ?」と私は質した。
 「ただここに立ってるだけだよ、オールド・スポート」
 どういうわけか、それは唾棄すべき行いに思われた。私の知ったことではないが、少ししたら邸で強盗を働くつもりなのだろう。たとえ彼の後ろの暗い茂みの中に、不吉な面々が――ウルフシャイム一味の面々が――あっても、私は驚かなかっただろう。
 「道路で何か面倒なことが起こってなかった?」と彼はしばらくして尋ねた。
 「そうだね」
 彼は躊躇した。 
 「女は、死んだか?」
 「死んだよ」
 「そうだと思った。デイジーにも、『死んだと思う』って言ったんだ。これもきついことだけど、そういうのが全部まとめて来たのは、むしろ良かった。デイジーはしっかり持ちこたえてくれた」
 彼はまるで、デイジーの反応だけが問題であるかのように話した。
 「脇道を通ってウェスト・エッグまで辿り着けたよ」と彼は続けた。「それで車は車庫に置いてきた。誰も見ていないと思う。でも、もちろん、確信はできないけどね」
 このときまでに私は、彼のことがほとほと嫌になっていたから、誤りを指摘してやる必要もないと思った。
 「死んだ女は誰なんだ?」と彼は訊いた。
 「ウィルソンという名前だよ。旦那が車の修理店をやってる。なあ、一体どうしてあんなことが起こったんだ?」
 「私はハンドルを奪って回そうとしたんだ――」そこで彼は話を止めた。突然、私は真実に思い当たった。
 「デイジーが運転していたのか?」
 「そうだよ」と彼は少しして言った。「でも、もちろん私が運転したと言うよ。ほら、ニューヨークから出発したとき、デイジーはすごく気が立っていてさ、『運転したら落ち着くと思う』と言ったんだ――それにあの女は、別の車とすれ違ったところに飛び込んできたんだよ。一瞬のことだった。でも、何か言いたいことがありそうだったな。知り合いだと思ったんじゃないか。そう、まずデイジーがその女を避(よ)けて、対向車の方にハンドルを切ったんだ。そこで怖気づいて、ハンドルを切り返した。それから私がハンドルに手を伸ばしたんだが、衝撃を感じた――即死だったはずだ」
 「身体が裂けて――」
 「言わなくていい、オールド・スポート」彼は顔を歪めた。「とにかく――デイジーはアクセルを踏み込んだ。何とか車を停めさせようとしたよ。でも、彼女は停められなかった。それで私はサイドブレーキを引いた。彼女は私の膝に倒れ込んで、その後は私が運転を続けた」
 「デイジーは、明日にはもう大丈夫だろう」と少しして彼は言った。「私はここに待機する。あいつが、昼間の不愉快なことで、デイジーを困らせようとしたりしないか見張っておく。デイジーは鍵をかけて部屋に閉じこもっているよ。もしあいつが手を出そうとしたら、部屋の灯りを点滅させることになってるんだ」
 「トムは手を出さないよ」と私は言った。「今はそれどころじゃないから」
 「あいつは信用できないからね、オールド・スポート」
 「どれ位ここにいるつもりだ?」
 「必要とあれば、一晩いるよ。とにかく、皆が寝静まるまでだね」
 私は、これまでになかった見方を思いついた。もしトムが、デイジーが運転していたと知ったら。彼は、そこに一種の繋がりがあると思うかもしれない――どんなことだって思いつくだろう。私は邸を見た。一階では二つか三つ、明るい窓があった。二階では、デイジーの部屋から煌々としたピンクの光が洩れていた。
 「ここで待ってて」と私は言った。「騒ぎになる兆しがないか見てくる」
 私は芝の境界に沿って踵(きびす)を返した。そっと砂利道を横切った。そして、爪先歩きでヴェランダの段を昇った。応接間のカーテンは開けられていて、中には誰もいないことが確認できた。三ヶ月前の六月に夕餐をともにしたヴェランダを越え、パントリー(訳注:食品や食器等を収めた部屋)の窓と思しき、小さな長方形の光に到った。ブラインドは引かれていたが、窓の下側に隙間があった。
 デイジーとトムは、テーブルに向かい合わせで座っていた。冷めたフライドチキンの皿とエイルビールのボトルが二本、二人の間にはあった。トムは熱心にテーブル越しのデイジーに話をしていた。昂奮して彼の片手は彼女の手の上に落ち、それを包んでいた。時折彼女は彼を見上げ、同意したように頷いた。
 どちらも幸せではなかった。二人とも、チキンにもエイルビールにも手を付けなかった――けれども二人は、不幸せというのでもなかった。その光景には、紛う方なく、ごく自然な親密の感があった。誰が見ても、何かを共謀していると思っただろう。
 ヴェランダから爪先立ちでこっそり戻っていると、タクシーが邸の方へ、暗い道を探りながら進んで来るのが聞こえた。ギャツビーは、車回しの同じ所で待っていた。
 「上は静かだったか?」と彼は不安そうに訊いた。
 「ああ、全く静かだったよ」と私は躊躇(ためら)いつつも言った。「家に帰って寝た方がいい」
 彼は首を振った。
 「デイジーが寝るまではここにいたいんだ。おやすみ、オールド・スポート」
 彼は両手を上着のポケットに突っ込んで、再び邸の見張りに集中し始めた。まるで、寝ずの番という神聖な仕事を、私の存在が穢(けが)してしまうかのようだった。それで私は歩き去った。彼は月明かりに洗われ、そこに立っていた――何も見張っていなかったのに。