The Great Gatsby 翻訳

F. Scott Fitzgeraldの傑作 "The Great Gatsby"の翻訳です。

The Great Gatsby 第5章

Chapter V

 その夜ウェスト・エッグに戻って来たとき、私は束の間、自宅が火事になって燃えているのではないかと肝を冷やした。午前二時で、半島の一角全体が煌々と燃えていた。低木は光を湛え、現実感を欠いた光景が浮かび上がった。路肩の電線は煌めき、細く長い糸になって伸びていた。角を曲がってようやく、私はそれがギャツビーの邸からの光だと分かった。塔の先から地下室にいたるまで、灯が燈されていた。
 初め私は、別のパーティーだろうと思った。羽目を外した連中が「かくれんぼう」だか「隠れ鬼」を始めた、そして、邸は丸ごとその遊戯に解放されているのだろう、と。けれども物音ひとつしなかった。ただ木々の中を風が通る音だけが聞こえた。風は電線を揺らし、光を再びチカチカとさせた。まるで邸が闇に向けてウィンクをしたようだった。私を乗せたタクシーが轟音を立てて行き去ると、ギャツビーが芝を通って私の方に歩いてくるのが目に入った。
 「君の邸はまるで万国博覧会みたいだね」と私は言った。
 「そう?」彼はぼんやりと邸を見遣った。「部屋のいくつかを見回っていたんだ。コニー・アイランド(訳注:遊園地がある)に行かない、オールド・スポート?私の車で」
 「遅すぎるよ」
 「そうか。プールに飛び込んだりするのはどうだろう?この夏、まだ使っていないんだ」
 「もう寝なきゃ」
 「そうか」
 彼は待っていた。はやる気持ちを抑えて私を見ていた。
 「ミス・ベイカーと話したよ」ややあって私は言った。「明日デイジーに電話して、ここまでお茶においでよって誘うよ」
 「別に構わないんだよ」と彼は無関心を装った。「君には迷惑をかけたくない」
 「どの日が都合がいい?」
 「君はどの日が都合がいい?」と彼はとっさに私の質問を訂正した。「君には迷惑をかけたくないんだよ」
 「明後日はどうだろう」彼はしばし考え、それからためらいがちにこう言った。
 「芝を刈らせたいんだけど……」
 私たち二人は芝を見た。伸び放題の私の芝が終わり、濃い色の、手入れの行き届いた彼の芝の広がりが始まるところに、くっきりとした境が見てとれた。私の芝のことを言っているのだと察した。
 「あともうひとつだけ……」彼はお茶を濁すようにためらった。
 「じゃあ何日か先に延ばした方がいい?」と私は訊いた。
 「いや、そういうんじゃないんだ。少なくとも……」どう切り出そうかと迷っていた。「つまりね、ほら、オールド・スポート、君はそんなに金がないだろう?」
 「そうだね」
 私の応(いら)えで彼は少し安心したようで、自信を取り戻し、こう続けた。
 「そうだと思っていたよ。失礼を許して欲しいんだが……ほら、私は本業とは別でささやかな事業をやっている。まあ、副業というか。知っての通りね。それで、もし君があまり稼いでいないんだったら――君は債券を売っているよね、オールド・スポート?」
 「売ろうとしている」
 「じゃあ悪くない話だと思うんじゃないかな。時間は取らせないし、結構稼げるかもしれない。ただ、かなりの機密事項なんだよ、たまたま」
 今では分かるのだが、他の情況であったなら、この会話は私の人生における危機のひとつとなったかもしれない。しかし彼の申し出は、露骨で、剥き出しのまま、然るべき見返りとしてそこにあった。だから私には、その場で謝絶する以外の選択肢はなかった。
 「今の仕事で手一杯なんだ」と私は言った。「お気遣いありがとう。でも、これ以上は仕事を受けられそうにない」
 「ウルフシャイムとは仕事をしなくていいんだよ」彼は明らかに、私があの昼食の席で触れられた「ゴネグション」に怖気づいているのだと考えたようだ。けれども私は、そうじゃないと彼に説明した。彼はさらに、私が会話を切り出すのを待った。けれども私は、物思いに沈んでしまって、とても彼の期待には応えられなかった。それで彼は、渋々邸に帰った。
 その夜の出来事があって、私はうきうきとし、上機嫌になった。玄関に入ると同時に深い眠りに落ちていったと思う。それで、ギャツビーがコニー・アイランドに行ったのか否か、あるいは、邸がけばけばしく燃え盛る間に何時間ほど「部屋を見回って」いたのかは知る由もなかった。翌朝、私は職場からデイジーに電話をし、お茶に誘った。
 「トムは連れてこないでね」と私は注意した。
 「何?」
 「トムは連れてこないで」
 「トムってだあれ?」とデイジーは屈託なく尋ねた。
 約束の日取りは土砂降りだった。午前十一時、レインコートを着、芝刈り機を引っ張って来た男が玄関の扉を叩いた。ミスタ・ギャツビーが、私のところの芝を刈るために自分を寄越したのだと述べた。ここで私は、自分のフィンランド人家政婦に戻って来るよう命じるのを忘れていたことに思い至った。それで、ウェスト・エッグ村まで、雨に濡れて白く洗われた路地間に彼女を捜しに、そしてカップとレモンと花を買いに車を走らせることになった。
 花は必要なかった。というのも、二時に温室が丸ごと、ギャツビーの邸から運ばれてきたからだ。山ほどの数の鉢もついてきた。その一時間後、覚束ない様子で玄関の扉が開いた。白のフランネルのスーツと銀色のシャツを着、金色のネクタイを結んだギャツビーがそそくさと入ってきた。顔色が優れない。眠れなかったのだろう、目の下には隈があった。
 すぐに彼は「万事大丈夫?」と訊いた。
 「芝は素晴らしいよ。ああいうのを意図していたというのならね」
 「何の芝?」と彼は呆然と尋ねた。「ああ、庭の芝か」彼は窓外に目を遣った。けれども表情から察するに、彼は何ひとつ見ていなかったと思う。
 「素晴らしいね」と彼は上の空で言った。「雨は四時頃止むって書いてあった新聞がひとつあったよ。『ザ・ジャーナル』だったかな。必要な物は全てある?その、お茶をするのにさ」
 私は彼をパントリー(訳注:食品や食器等を収めた部屋)に連れて行った。彼はそこで幾分冷ややかに、フィンランド人の家政婦を見た。二人して、食料品店から届けられた十二個のレモンケーキを点検した。
 「これで大丈夫かな?」と私は尋ねた。
 「もちろん、もちろんだよ、素晴らしい!」それから彼は放心したようにこう言い添えた。「……オールド・スポート」
 三時半頃に雨脚は弱まり、しっとりとした霧になった。時折、霧の間を細い雫が朝露のように伝って落ちてきた。ギャツビーは虚ろな目で、クレイの『経済学』に目を通していたが、台所の床を揺らすフィンランド流の足踏みにぎょっとし、ときどき曇った窓の方に目を凝らした。まるで、目にこそ見えないが剣呑な事態が外で起こりつつあるのだ、とでもいうように。とうとう彼は立ち上がり、上ずった声で「もう帰る」と私に告げた。
 「何でだよ?」
 「お茶には誰も来ないよ。遅すぎる!」彼は、まるでどこか他所(よそ)で時間に追われてでもいるかのように腕時計を見た。「一日中待っているわけにはいかない」
 「馬鹿言うんじゃない。まだ四時二分前だ。」
 彼は腰を下ろした。惨めだった。まるで私が押し倒したみたいだった。と同時に、車が私のところの道に入って来るのが聞こえた。二人とも跳び上がった。私自身少し自失しつつも、庭へと出た。
雫を滴らせた剥き出しのライラックの木々の下、大きなオープンカーが庭道を通ってこちらに近づいて来ていた。そうして、止まった。車の横でデイジーが首を傾(かし)げた。三角のラヴェンダー色の帽子を被っていた。眩(まばゆ)い、嬉しくて堪らないと言わんばかりの笑みを湛えて、外にいる私を見た。
 「ほんとにほんとに、ここに住んでいるの?」
 彼女の声は、狂おしいような漣(さざなみ)となって、雨の内で、聴く者を潤した。語が意味を帯びるまで、しばし私は耳だけで、上に、下に、音色を辿らねばならなかった。濡れた髪が、青い絵の具で描いた線のように頬に掛かっていた。車から降ろしてやろうと彼女の手を取ると、きらきら光る雨粒で濡れていた。
 「私に恋してるんじゃない?」と彼女は耳許で声を潜めた。「そうじゃないなら、どうして私は一人で来なくちゃいけなかったんだろう?」
 「それは『ラックレント城』(訳注:1800年に出版されたマリア・エッジワースの短編。語り手が観察者である小説の嚆矢とされる)の秘密だよ。運転手さんに、一時間ほどどこか遠くへ行っておいてと言っておいてね」
 「一時間後に戻ってきて、ファーディ」それから重々しくくぐもった声で「あの人はファーディっていうの」
 「ガソリンで鼻を悪くしたんだっけ?」
 「そんなことないよ」と彼女は屈託なく言った。「何それ?」
 私たちは中に入った。居間には誰もいなかった。私は仰天した。
 「おかしいな」と私は声を上げた。
 「何がおかしいの?」
 コン、と上品なノックが玄関であって、彼女は振り向いた。私は出て行って扉を開けた。果たしてそこにはギャツビーがいた。両手を錘(おもり)のようにコートのポケットに突っ込んでいた。水溜まりの中、悲愴な眼差しで私の両眼を見据えていた。
 コートのポケットの中で手を動かさず、私の横をドカドカと歩き、廊下へと入って行った。そして針金で操られているかのようにさっと向きを変え、居間へと消えた。少しも「おかしく」なかった。自分の心臓が大きな音を立てて鳴っているのに気付き、私は玄関の扉を閉めた。外では雨脚が強まってきていた。
 三十秒ほどは物音ひとつしなかった。それから、居間から声を殺しているようなひそひそ声が、それから笑い声が少し聞こえた。さらに、明瞭な、繕ったような調子のデイジーの声が聞こえてきた。
 「またお会いできるなんて、本当に嬉しい」
 間。恐ろしく長い間だった。私は廊下にいて、どうすることもできなかった。それで私は居間に入った。
 ギャツビーは両手をポケットに入れたまま動かさず、暖炉の上の囲いにもたれた。完璧に落ち着いている、無聊(ぶりょう)ですらあるという振りをしていた。けれども緊張していた。頭を後ろに傾げ、今では壊れた時計の前面にもたれる形になった。この位置から、ギャツビーの狼狽した眼差しがデイジーに注がれた。デイジーは恐れをなしつつも淑(しと)やかに、硬い椅子の端に座っていた。
 「以前にお会いしましたね」とギャツビーは呟いた。彼の両眼はチラリ、チラリと私へと遣られた。唇が開き、笑い声を出そうとしていたがうまくいかなかった。幸運にもこのとき時計が、機を捉えたかのように彼の頭に押されて傾き、落ちそうになった。直ちに彼は後ろを向き、震える指で時計を抱え、元通りの位置に据えた。そうして彼は座った。強張っていた。片方の肘をソファーの傍らに載せ、顎を掌に置いていた。
 「時計のこと、ごめんな」と彼は言った。
 今では私の顔が、南国の太陽に焼かれたみたいに紅潮してしまった。頭には言いたいことがごまんとあったのに、当たり障りのないことはひとつも思いつけなかった。
 「古時計だよ」と私は二人に言った。阿呆みたいだった。
 床に落ちて粉々になった、と皆が一瞬思ったと思う。
 「何年も会っていなかったね」とデイジーが言った。彼女の声はいつになく熱意を欠いていた。
 「この十一月で五年になる」
 ギャツビーが反射的に答えたせいで、私たちは少なくともさらにもう一分ほどはぐずぐずときまり悪く過ごした。台所でお茶を作るのを手伝ってよと捨て鉢の提案をして二人を立ち上がらせたところで、意地悪なフィン人婆さんがお茶を盆に載せて持って来た。
 お茶とケーキのもたらしたゴタゴタは願ったり叶ったりで、その合間を縫って自ずとある種の作法が立ち現れた。ギャツビーは引っ込んでおく。デイジーと私が話している間、ギャツビーはおとなしくして、緊張した悲しげな目で、片方からもう片方を見る。けれども居住まいの良さ自体はここでの目的ではないから、私は見計らって言い訳をし、立ち上がる。
 「どこに行く?」と突如不安になったギャツビーは質した。
 「すぐ戻るよ」
 「君が行く前に話がある」
 彼は私の後を追って台所まで入ってきた。扉を閉め、囁いた。
 「ああ!くそっ!」彼は痛々しかった。
 「どうしたんだよ?」
 「最悪だ」と彼は言って首を横に降った。「ほんっとうに、全然、だめだ」
 「恥ずかしがっているだけだよ」それから私は運良くこう言い添えた。「デイジーも恥ずかしがっている」
 「デイジーも恥ずかしがっている?」と彼は疑い深く繰り返した。
 「君と同じくらいにはね」
 「そんなに大きい声で話すなよ」
 「ガキかよ」と私はかっとなって切り出した。「それだけじゃない、失礼なんだよ。デイジーは独りぼっちであそこに座っているんだぞ」
 彼は片手を上げて私の言葉を制し、私を見た。そのときの彼の恨みがましい顔を忘れることはあるまい。それから彼は、注意深く扉を開け、居間に戻って行った。
私は裏口から表に出た――三十分前にギャツビーが家の周りを落ち着きなく徘徊したときと同じように。それから黒く、節くれ立った巨木目がけて駆けた。鬱蒼と茂った葉叢(はむら)の下、雨宿りができたからだ。再び雨脚が強まった。でこぼこの我が芝――ギャツビーの抱える庭師によってきちんと刈り込まれていた――には今や、水溜まりや泥沼、先史時代を彷彿とさせる沼地が現れていた。巨木の下からは、ギャツビーの巨大な邸を除いて、見るべき物は何もなかった。それで私は、教会の尖塔を見つめるカント(訳注:ドイツの哲学者 1724-1804)よろしく、半時間ほど邸をじっと見ていた。十年前に、封建貴族風の建築が大いに流行り出した頃、あるビール醸造家がこの邸を建造した。周りのありとあらゆる田舎家の主人に、屋根を藁葺(わらぶき)にしてくれれば税を五年分肩代わりしてもよいと諾(うべな)ったという。彼らは拒否した。このことが件の醸造家の「家を興す」計画を骨抜きにしてしまったのかもしれない。――彼はやにわに結核に倒れてしまった。そして、扉にまだ喪の黒い花輪が飾ってあるのに、彼の子供達は邸を売ってしまった。アメリカ人は、ときには進んで、農奴のようにひとつの場所で際限なく働き、功を成さんとしてきた。けれども、たとえ移動の自由があっても、いつまでも社会の下層である小作農の身分に甘んじることは、常に頑迷に拒絶してきた。
 半時間ほどすると、陽が再び照りだした。食料雑貨店主の車がギャツビーの邸の私道を廻って来た。召使いらの食事の材料を積んでいた――ギャツビーは一口も口にしまいと思った。メイドが邸の二階の窓を開け始め、それぞれの窓から束の間姿を見せた。そうして、中央の大きな張出し窓から身を乗り出すと、何か思いに浸って庭に唾を吐いた。そろそろ家に戻るべき頃合いだった。雨が降っている間、雨音は二人の声のくぐもりのようであった。それは感情の迸(ほとばし)りとともに、僅かに昂(たかま)り、膨らんだ。けれども雨が止んで新たな沈黙の中にあって私は、家の中にも沈黙が降りたと感じた。
 私は家に入った。台所では、ありとあらゆる物音を立ててやった。もっともガスコンロをひっくり返しこそしなかったが。けれども二人には何も聞こえていなかったに違いない。二人はカウチの両端に座っていて、互いを見つめていた。まるで何か質問がされたのか、あるいはされようとしているかのようだった。気恥ずかしさの名残はもはや消えていた。デイジーの顔は涙でぐちょぐちょだった。私が部屋に入ると彼女は跳び上がって、鏡の前まで行って、ハンカチで顔を拭い始めた。しかしギャツビーの内には変化があった。まったく驚きだった。彼は文字通り輝いていた。歓喜の言葉や仕草こそなかったが、これまでにはない種の幸福感を放射させ、小さな部屋を充溢させていた。
 「やあ、こんにちは、オールド・スポート」と彼は言った。何年も会っていなかったみたいだった。しばし私は、彼は握手をするつもりなのかと訝った。
 「雨が止んだよ」
 「そう?」彼は私が何の話をしているのか理解すると、つまり、部屋には陽がきらきらと溢れているのに気付くと、彼は天気予報士のように、再来する光に恍惚とする後援者のように、笑んだ。そうしてデイジーにもそのことを知らせた。「どう思う?雨が止んだよ」
 「嬉しい、ジェイ」彼女の喉から発せられる声は、痛ましく身を焦がしている美しさで満ちていたが、それはただ、自分自身の思いがけない喜びへの言及でしかなかった。
 「君とデイジーに私の家まで来て欲しいんだ」と彼は言った。「デイジーを案内したい」
 「僕も一緒に?」
 「もちろんだよ、オールド・スポート」
 デイジーは顔を洗いに二階に上がった――使い古したタオルを思うと私は恥ずかしかったが、今さらどうしようもないと思った。ギャツビーと私は芝で待った。
 「私の邸はなかなかのものでしょう」と彼は私の同意を求めた。「玄関全体が光を捉えているのをご覧よ」
 私は賛辞を述べた。
 「そうでしょう」彼の両眼が邸全体を、あらゆる弓なりの扉を、あらゆる方形の塔をなぞった。「この邸を買う金はたった三年で稼いだんだよ」
 「お金は相続したのかと思っていた」
 「もちろんそうだよ、オールド・スポート」と彼は反射的に答えた。「けれども恐慌の渦中でほとんど全てを失ってしまった――あの戦争の恐慌でね」
 彼は自分が何を言っているのかほとんど分かっていなかったのだろうと思う。というのも、彼に何の仕事に携わっているのかと訊くと「君には関係ない」と口を滑らせたからだ。場違いな応(いら)えをしたことに思い到っても後の祭りだった。
 「いや、いくつかやってきたんだよ」と彼は言い直した。「薬品事業に携わっていたこともあるし、その後には石油事業にも携わった。今はどちらもやっていないけどね」そして今度はしげしげと私を見た。「それはつまり、君は先日の夜に私が提案したことを検討しているってこと?」
 私が応えぬうちにデイジーが邸から出てきた。ドレスを縦に二列に走っている真鍮のボタンが、陽に照らされて輝いた。
 「あの大きなお邸の話?」と彼女は指差して大声で言った。
 「気に入った?」
 「とっても。でも、独りぼっちであそこに住んでいるなんて」
 「邸はいつも、面白い人達で一杯にしてあるよ。夜も昼もずっとね。面白いことをする人達。著名な人達」
 『サウンド(海峡)』沿いに近道をする代わりに、私たちは道路を歩き、大きな裏門から邸に入った。デイジーは艶めかしい呟き声で、中世さながらの建物のシルエットをここから見るのが、あるいはあそこから見るのが空に映えて素敵だと讃えた。それから、庭園を、黄水仙の華やかな香りを、サンザシとプラムの花の柔らかな香りを、スイカズラの優しく黄金色の香りを讃えた。大理石の階段に到っても、眩い色をしたドレスの衣擦れが邸に出入りするのが聞こえない。木々の中で歌う鳥の声が聞こえるばかりで、不思議な気がした。
 そして屋内に入った。私たちがマリー・アントワネット調の金ぴかの音楽室や、王政復古調の意匠を凝らした客間を抜けていると、私には、あらゆるカウチやテーブルの後ろに客人が隠れていて、私たちが過ぎ去るまで息を殺して黙っていろと命じられているような気がした。ギャツビーが「マートン・カレッジ図書館」(訳注:マートン・カレッジはオックスフォード大学のカレッジのひとつ)の扉を閉めたとき、あの梟眼鏡の男が幽霊みたいに笑うのが聞こえたのは、誓ってもいい。
 私たちは上の階に上がった。薔薇色とラヴェンダー色の絹で包まれ、生花で鮮やかに飾られた昔風の寝室をいくつか抜け、それらの隣の化粧室を抜け、ビリヤード台のある部屋をいくつか抜け、埋込式の浴槽がある浴室もいくつか抜けた。気がつくと広間のひとつに闖入していた。そこでは、パジャマ姿の締まりがない男が、床で肝臓を鍛えるための体操をしていた。クリプスプリンガー、あの「寄宿人」であった。そう言えば、その日の午前中、浜辺を腹を空かせた様子で彷徨しているのを見かけていた。ついに私たちは、ギャツビーの部屋へと到った。寝室と浴槽、アダム式書斎(訳注:アダムは18世紀の英国の建築一家。精緻な様式と色彩を特徴とする)を備えていた。私たちは書斎に腰を下ろし、ギャツビーが壁に埋め込まれた食器棚から取り出したシャルトルーズ(訳注:フランスの酒の一種)をグラスに入れて飲んだ。
 それまで彼は、デイジーを見遣るのを片時も止めなかった。思うに彼は、邸内のあらゆる物を、それらがデイジーの蠱惑的な眼差しにどう映るかという視点から査定し直していたのではないか。彼の目は時に、呆然と自らの所有物に注がれた。まるで、デイジーが実際この場にいて、彼女の存在が聳(そばだ)っていると、もう何も本物ではないみたいだった。一度など彼は、階段に蹴躓いて転びそうになったくらいだ。
 彼の寝室は簡素の極みだった。ただ、鏡台だけは、鈍い純金の洗面道具で飾り立てられていた。デイジーは大喜びで櫛を取り上げ、髪をといた。するとギャツビーは腰を下ろし、目に入って来る光を遮るように額に手を翳(かざ)し、笑い出した。
 「こんなに可笑しいことはない、オールド・スポート」彼は、堪らないといった様子だった。「できないよ、やってみようとしてもさ――」
 彼は見たところ、二つの状態を通過し、三つ目の状態に入りつつあった。当惑と、抑えの効かない歓びの後、彼女の存在を前にして忘我していた。あまりにも長く、このことばかりを想ってきた。このことを夢に見、見尽くしてきた。いわば歯を食いしばり、途方もなく熱い想いを抱いて待ってきた。それなのに今では彼は、ねじを巻き過ぎた時計のように停止しつつあった。
 少しして彼は恢復(かいふく)した。商標のついた、でかい戸棚を二つ開けて見せた。大量の彼のスーツがあり、部屋着があり、ネクタイがあり、シャツがあって、十二段もの煉瓦のように積み上げられていた。
 「服を買って寄こしてくれる男がイングランドにいてね。各シーズンの初め、春と秋には選りすぐりの物を届けてくれる」
 彼はシャツを一山取り上げて、一枚一枚、私たちの眼前に放り始めた。透けるほど薄い亜麻のシャツも、厚手の絹のシャツも、美しいフランネルのシャツも、畳まれていたのがほどけてテーブルに落ちた。いくつもの色が重なった混沌が現れた。
 私たちが感心して見ていると、彼はさらにシャツを持って来た。柔らかく見事な山が、さらにうず高くなった。ストライプのシャツがあり、渦巻き模様のシャツがあり、格子柄のシャツがあった。桃色の、黄緑色の、藤色の、淡いオレンジ色のシャツがあった。どれにも鮮やかな青色でイニシャルが刺繍してあった。突如デイジーが、聞こえよがしの音を立ててシャツに突っ伏し、嵐のように泣き始めた。
 「すごく綺麗なシャツ」と言って彼女はしゃくりあげた。彼女の声はシャツの山の中でくぐもった。「こんなに綺麗なシャツを見たことがない。だから、悲しくなるの」
 邸の後、私たちは、庭園を、スイミング・プールを、モーターボートを、盛夏に咲き誇る花々を見ることになっていた。けれども窓外では雨が降り始めていた。それで私たちは、『サウンド(海峡)』の漣(さざなみ)を見て立っていた。
 「霧がなければ、湾の向こうに君のお家が見られるのだけどね」とギャツビーが言った。「桟橋の端でいつも、緑の灯が一晩中燃えているでしょう」
 デイジーが突然、腕をギャツビーの腕に絡めた。しかしギャツビーは、自分が今言ったことに囚われているようだった。ひょっとしたら、あの灯の巨大な意義はもう永遠に消えてしまったのだという思いに打たれていたのかもしれない。デイジーがあんなにも遠くにいたことを思うと、あの灯は彼女の間近に、そう、今にも彼女に触れそうなほどすぐ傍(そば)にあった。月の間近に星があるように、あの灯は彼女のすぐ傍にあるように思われた。それなのに、今やあの灯は再び、桟橋にあるただの緑の灯でしかなくなってしまった。彼にとっては、魔法のかかったものがひとつ、数を減らしてしまったのだ。
 私は部屋の中を歩き始め、薄暗がりの中、はっきりとは見えない事物を点検していった。
 船用の服を纏(まと)った老人の大きな写真が私を捉えた。それは、書き物机の上方の壁に掛かってあった。
 「これは誰?」
 「それ?ミスタ・ダン・コウディだよ、オールド・スポート」
 その名前は、何となく聞き覚えがあった。
 「もう亡くなったよ。昔は一番の友達だった」
  書き物机にはギャツビーの小さな写真もあった。彼もまた船用の服を纏(まと)っていた。頭を後ろに反らし、挑発的に構えている。十八の頃に撮られたものだろう。
 「素敵!」とデイジーが声を上げた。「髪を撫で上げてるじゃない!そんな髪型してたなんて教えてくれなかったでしょう。それに船のことも」
 「これをご覧」とギャツビーは慌てて言った。「たくさん切り抜きがあるでしょう。全部君についてのものだよ」
 二人は身を寄せ合ってそれを見ながら立っていた。私がルビーを見せてよと頼もうとすると電話が鳴り、ギャツビーが受話器を取った。
 「そうだ……いや、今は話せない……今は話せないんだよ、オールド・スポート……『小さな』町だと言っただろう……小さな町と言えば先方は分かるよ……うむ、小さな町と言ってデトロイトのことを考えているようじゃそいつは話にならない」
 彼は電話を切った。
 「早く来てよ!」とデイジーが窓のところで大声を出した。
 まだ雨は滴っていたが、西の彼方では暗雲は散り散りになっていた。海の上には、ピンクに染まった黄金色の、泡のような雲の塊があった。
 「あれを見て」とデイジーは囁いた。そしてしばし間があった。「あのピンクの雲がひとつ欲しいな。あなたをその中に入れて、あちこちに連れて行ってあげたい」
 そこで私は帰ろうとした。けれども二人は聞き入れようとしなかった。ひょっとしたら私がいたからこそ、二人は思う存分二人きりでいられたのかもしれない。
 「そうだ、こうしよう」とギャツビーが言った。「クリプスプリンガーにピアノを弾いてもらおう」
 「ユーイング!」と呼びながら彼は部屋を出ていった。数分後、彼は、当惑し少し疲弊した若い男を連れてきた。鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を掛けており、金色の頭髪は少なかった。今では彼はまともな服を着ていた。いわゆる「スポーツシャツ」の頸元(くびもと)を開け、スニーカーを履き、帆布地の、取り留めのない色合いをしたズボンを履いていた。
 「体操のお邪魔をしてしまったのでは?」とデイジーが丁寧に尋ねた。
 「眠ってましたよ」とミスタ・クリプスプリンガーは、当惑に耐えかねたように声を上げた。「その、つまり、それまでは眠っていて、それから起き上がって……」
 「クリプスプリンガーはピアノが弾けるんだよ」とギャツビーは言って、話を止めさせた。「そうだな、ユーイング、オールド・スポート?」
 「下手なもんです。というか――全然弾けませんよ。全く練習していなくて――」
 「下に行こう」とギャツビーは割って入った。彼がスウィッチを入れると、鈍色(にびいろ)の窓が一斉に姿を消し、邸は光に包まれた。
 音楽室でギャツビーは、ピアノの傍にひとつだけあるランプを灯した。マッチを擦り、震える手でデイジーの煙草に火をつけた。そして二人は、部屋のずっと奥の方、反対側のカウチに腰を下ろした。玄関ホールの照り輝いた床に反射して溢(こぼ)れて来る光を除けば、二人の座っていたところは真っ暗だった。
 クリプスプリンガーは『愛の巣』を弾き終えると、椅子に座ったまま向き直り、薄闇の中、不服そうにギャツビーの姿を探し求めた。
 「全然練習していませんでした。弾けないと言ったじゃありませんか。全然練習――」
 「ベラベラ喋るんじゃない、オールド・スポート」とギャツビーは命じた。「弾けよ」


朝も

夜も

楽しいな――


 外では風が音を立てていた。『サウンド(海峡)』からは、微かに雷鳴が聞こえた。今やウェスト・エッグではあらゆる電燈が灯りつつあった。人々を運ぶ電車は、ニューヨークから雨の中、彼らの住処へと驀進(ばくしん)していた。人間が変貌する時間であった。昂奮が醸し出されつつある気配があった。


間違いないことがひとつあって、こんなに確かなことはない

金持ちはもっと金持ちになって、貧乏人には――子供ができる

そのあいだ

そんなこんなしているあいだに――

 別れの挨拶を述べようとしたが、ギャツビーの顔には再度、当惑の表情が浮かんでいた。目下の幸せの純度について、微かに疑念が生じたかのようだった。何しろ、ほぼ五年も待っていたのだ!その日の午後でさえ、彼の抱いてきた夢に、デイジーが及ばぬ瞬間がいくつもあったに違いない。――デイジーを責めることはできない。ギャツビーの夢想が走り過ぎていたのだ。それはデイジーを超越し、あらゆるものを超越していた。彼は、創意を凝らしてそれに没入していた。常にそれを増幅させ、自分の方にたゆたって来るあらゆる華やかな羽根で、それを飾り立てていた。どれほどの熱情であっても、どれほどの瑞々しさであっても、人が、己(おの)が亡霊の心に溜め込む思いには及ばない。
 私が彼を見ていると、彼は少し気を取り直したようだった。彼の手が彼女の手を取った。彼女は彼の耳元で何かを囁いた。彼は昂奮して彼女の方を向いた。蓋(けだ)し彼を何よりも虜(とりこ)にしたのはこの声――高低を変える、熱っぽい温もりであったろう。どれほど夢見ようと、度を越すことはないからだ。この声は、不滅の歌であった。
 二人は私がいることを忘れてしまっていた。けれどもデイジーが目を上に遣り、手を差し伸べた。ギャツビーは、私のことには少しも思い至らない。私は再び二人を見、二人は私を見返した。離れたところで、二人には、激しい命が憑依(ひょうい)していた。それで私は部屋を出、大理石の段を降り、雨の中へと歩いて行った。二人をともに、そこに残して。