The Great Gatsby 翻訳

F. Scott Fitzgeraldの傑作 "The Great Gatsby"の翻訳です。

The Great Gatsby 第8章

Chapter VIII

私は一晩中眠れなかった。『サウンド(海峡)』では絶えることなく霧笛が呻っていた。おぞましい現実と凄惨な恐ろしい夢の間で私は落ち着かなく寝返りをうっていた。夜明け近くに、タクシーがギャツビーの邸の車回しを進むのが聞こえ、私は飛び起きて着替えを始めた――ギャツビーに伝えるべきことがある、警告すべきことがあると思った。朝になってからでは遅すぎる。
 芝を横切ると、邸の正面玄関はまだ開いているのが見えた。彼は玄関ホールでテーブルに身をもたせかけていた。悲しみに打ちひしがれていたのか、あるいはひどく眠かったのか。
 「何も起こらなかったよ」と彼は弱々しく言った。「見張っていると、四時頃になってデイジーが窓際に姿を見せた。しばらくそこに立っていたんだけど、それから灯りを消した」
 その夜ほど彼の邸が巨大に感じられたことはない。私たちは煙草を求めて大きな部屋をいくつも探し回った。大天幕のようなカーテンを押し開け、電燈のスウィッチを探して、真っ暗な壁を手探りでどこまでも辿った――一度など、幽霊のように現れたピアノの鍵盤に出くわして、ばしゃんと派手な音を鳴らしてしまった。あらゆるところに説明できないほどの量の埃が積もっていたし、部屋は、何日も換気されていないような、むっとした匂いがした。私は、見慣れないテーブルに煙草ケースを見つけた。中には古くなって乾燥した煙草が二本入っていた。私たちは応接間のフランス窓を開け放ち、腰を下ろして、闇に向けて煙草を吸った。
 「出て行った方がいい」と私は言った。「警察は、ほぼ間違いなく君の車を見つける」
 「『今すぐ』出て行った方がいいということかな、オールド・スポート?」
 「一週間ほどアトランティック・シティに行くんだ。それか、モントリオールとか」
 彼は一顧だにしなかった。デイジーが次にどう出るか分かるまでは、彼女の元を離れることなどできなかった。彼は最後の望みにしがみついていたし、そこから彼を引き剥がすのには、私は耐えられそうになかった。
 彼が、ダン・コウディと過ごした若かりし日の奇妙な話を私に話してくれたのはこの夜だった――話してくれたのは、「ジェイ・ギャツビー」なる仮構がトムの激しい敵意に遭って、ガラスのように粉々に砕けてしまったからだ。こうして、長きに渡って秘密だった、微に入り細を穿った大芝居がその全貌を現した。蓋(けだ)し、このとき彼は何を訊いても臆せず認めていただろう。けれども彼が話したがったのは、デイジーのことだった。
 彼女は、彼が初めて知った「上流階級の」女の子だった。彼は詳らかに語ることはしなかったけれど、とにかく、いろいろな役割を演じることによって、彼はそうした階層の人間と接触するようになっていた。しかし、間には常に、目には見えない有刺鉄線のような障壁があって、両者を隔てていた。彼は、彼女にたまらなく魅了された。初めはキャンプ・テイラーから来た士官らとともに、次には一人で彼女の家に行った。驚くべき体験だった――彼はそれまで、そんなにも美しい家を見たことがなかった。けれども、息が詰まるほどに強烈な印象を与えたのは、そこに住まうのがデイジーであるという事実だった――それは、彼女にとっては、彼が基地で野営していたのと同じくらいに当たり前のことだったのだが。家には、熟れた果実(かじつ)のような秘密が潜んでいた。上階には、ここにあるのよりももっと美しく涼しい寝室があるという気がしたし、廊下では、陽気でキラキラした営みがなされている気がした。愛の予感もした。黴臭くなってラヴェンダーを施したような愛ではなく、瑞々しく呼吸する愛の予感だった。今年出たばかりのピカピカの自動車、あるいは、ほとんど萎れることがない花々が咲き乱れるパーティーを彷彿とさせる愛の予感だった。多くの男がすでにデイジーを愛していたということも、ギャツビーの心を掻き立てた――彼にとっては、その事実は彼女の価値を高めるものであった。家中に彼らの気配が感じられた。そのせいで、今でも打ち震える熱情がいたるところで濃淡の色をなし、反響しているような感じがした。
 けれども、彼がデイジーの家にいるなど、運命の悪戯でしかないのは彼も心得ていた。ジェイ・ギャツビーとしての将来がどれほど輝かしいものになるとしても、目下彼は、過去を持たない一文無しの青年に過ぎなかった。確かに軍服は、彼の境遇を魔法のマントのように隠してくれたが、そんなのはいつ纏(まと)えなくなってもおかしくなかった。だから彼は、自分の時間を最大限に活かした。手に入れられるものは貪欲に、たとえ汚い手段を使っても掌中に収めた――そして遂に、十月のある静謐な夜、デイジーと関係を持った。彼は実際、彼女の手に触れる権利すらなかったのだが、そうだったからこそ、彼は彼女と関係を持ったのである。
 彼は自分を軽蔑してもおかしくはなかった。というのは、確かに彼は、自分を偽って彼女と関係を持ったからだ。何も私は、彼がありもしない巨万の富の力をちらつかせたと言うのではない。しかし彼は、作意を持ってデイジーに安心感を与えていた。相手はおよそ自分と同じ階級の出身だろう――だから自分を悠々と養うことができるだろう、そう彼女は信じていたのに、彼はそれをそのままにしておいた。実際は、彼にはそんな力などなかった――支えとなる富裕な家族もなかった。それに、無情な政府が気まぐれを起こせば、世界中のどこにでも吹き飛ばされる身分であった。
 けれども彼は、自分を軽蔑することはなかった。そして、事態は思いもしなかった展開を見せた。おそらくということだが、当初は彼は、手に入れられるものを手にしたら、どこかに行ってしまう心づもりでいた――しかし今では、気がついてみると、聖杯の跡を辿ることに没入していた。デイジーが並外れた存在だということは知っていた。けれども、「上流階級の」女の子が一体どれほど並外れた存在になれるのか、彼は理解していなかった。彼女は富める家の中に、満ち足りた暮らしの中に消えてしまった。そしてギャツビーには――何も残らなかった。自分はすでに彼女と結婚していると感じていた。問題はそこだった。
 二日後に二人が再会したとき、胸が締め付けられる思いをしていたのは、そして、どういうわけか裏切られた気でいたのはギャツビーの方だった。彼女の家の玄関では、金のかかった品物が夜空の星屑のように煌めいていた。彼女が彼の方を見つめ、彼は、彼を魅了してやまない素敵な唇に口づけをした。それに合わせて、二人が腰掛けていた籐椅子がおしゃれな音を立てて軋んだ。彼女は風邪を引いていて、いつになく嗄れた声がいつにも増して愛おしかった。ギャツビーは、富が幽閉して手付かずにしてあるこの若さと神秘に、そして、あまたの衣服の真新しさに、さらには、貧しい者たちの血みどろの争いの遥か彼方で、安寧に、そして誇り高くあって、銀のような輝きを放っているデイジーに、痛々しいほどに感じ入っていた。

 
 「彼女のことを愛していると気がついてどれほど驚いたか、言葉では説明できないよ、オールド・スポート。しばらくは、いっそ振ってくれたらいいのにとも思った。でも、そんなことはなかった。デイジーも、私のことを愛してくれていたから。自分の知らないことを知っているからと言って、私が物を知った人間だと思いこんでいた……。要するに、私は、元々抱いていた野心など置き去りにして、刻々と愛に溺れていった。そして、突然、どうでもよくなった。これからの計画をデイジーに話しているときが何よりも楽しかった。それなのに、計画を実際に行動に移す意味などあるだろうか?」海外出征をする前日の午後、彼はデイジーと椅子に腰掛け、何も言わずに長いこと彼女を両腕で抱いていた。寒い秋の日で、部屋の暖炉には火がくべてあって、彼女の両頬は紅く火照っていた。彼女はときどき身じろぎをし、それに合わせて彼は腕の位置を少し変えた。そして彼は一度、彼女のすべらかな栗色の髪に口づけをした。特別な午後であったから、二人はしばし静謐な気持ちになっていた。その時間はまるで、翌日に予定された長いお別れに備えて、記憶を深く刻印するように過ぎていった。彼女は何も言わずに彼の上着の肩口に唇を這わせ、彼は彼女の指先に、まるで眠っているのを起こさないでおこうとするようにそっと触れた。愛し合ってまだ一月しか経っていなかったが、互いをこれほど近しく感じたことはなかったし、これほど深く通じ合えたこともなかった。


 彼は戦争では目覚ましい武勲を上げた。前線に赴く前は大尉であったのが、アルゴンヌの戦いに続いて少佐に昇進、機関銃師団の指揮権を与えられた。終戦後、彼は、必死になって帰国しようとしたのだが、入り組んだ事情があったのか、はたまた誤解があったのか、代わりにオックスフォードへと遣られた。彼は不安になってきた――デイジーからの手紙は、彼女が絶望し、気が立っていることを示唆していた。彼女には、なぜ彼が帰国できないのか理解できなかった。世間からは圧力を感じていた。だから、彼に会って、彼の存在を傍で感じていたかった。そして何と言っても、自分は正しいことをしているから大丈夫だと言って安心させてもらいたかった。
 それというのも、デイジーはまだうら若かったし、彼女の虚飾の世界は、蘭の花や、軽やかで楽しげな社交、さらには、今年のリズムを奏で、生の悲しみと期待を新しい曲に纏(まと)め上げるオーケストラを思わせたからだ。毎夜、サクソフォンが『ビール・ストリート・ブルーズ』の救いのない世界観を、呻吟するように奏でた。その間に、百人もの人の金銀の舞踏靴が、キラキラした粉をあちこちに運んだ。お茶の時間は灰色だった。そのときには、この低く甘い微熱で絶えず脈打っている部屋が常にいくつもあった。その間、悲しいホルンの音色が床中に吹き飛ばした薔薇の花弁のように、若々しい顔ぶれがここかしこに漂っていた。
 社交の季節が巡ってきたとき、デイジーは再びこの黄昏時の世界を動き回るようになった。突如、彼女はまたもや、一日に六人もの男と六つのデートを約束していた。そして明け方には、ベッドの傍の床で蘭が萎(しお)れてゆく中、イヴニングドレスのビーズとシフォンがもつれ合ったままにまどろんでいた。そして常に、彼女の内なる何かが決断を求めて叫び声を上げていた。今では彼女は、人生にはっきりとした形が直ちに与えられることを望んでいた。そしてその決断は手近にある何らかの力――愛の力、金の力、疑いようのない実際性の力――によって下されなければならなかった。
 その力は、春の盛りにトム・ビュキャナンが現れることで形をとった。彼の容姿と地位には、どっしりとした健全な構えが具わっていて、デイジーは誇らしかった。ある種の葛藤と安堵があったのは間違いない。婚約を知らせる手紙がギャツビーのもとに届いたのは、まだ彼がオックスフォードにいるときだった。


 ロング・アイランドに夜明けが訪れた。私たちは一階の窓を残らず開けてまわった。灰色に、そして金色になってゆく光が邸を満たした。樹の陰が突然に芝の露の上に落ち、幽霊を思わせる鳥たちが青い葉叢の中で歌い始めた。空気がゆっくりと爽やかに動いていた。風はほとんどなかった。涼しい、素敵な一日を約束していた。
 「デイジーがあの人を愛したことはないと思う」と言って、ギャツビーは窓から振り返り、食って掛かるように私を見た。「ねえ、オールド・スポート、あの午後、デイジーは取り乱していた。あの人はデイジーを怖がらせる仕方であれやこれやの話をした――おかげで、私が安っぽいいかさま野郎であるような印象を与える羽目になった。結果、デイジーは自分が何を言っているか分かっていなかったんだ」
 彼は憂鬱そうに腰を下ろした。
 「もちろん、ほんの束の間だったら、デイジーはあの人を愛したことはあったかもしれない。新婚のときはね――それでも、そのときだって、私の方をもっと愛していた。分かるよね」
 突然、彼の口から妙な言葉が飛び出した。
 「とにかく」と彼は言った。「そんなのは、私事(わたくしごと)だね」
 この言葉をどう理解すればいいだろうか。彼が抱いていた、デイジーとの関係の観念には、計り知れない強烈なものが含まれていたと考える他ない。
 彼がフランスから戻ったときには、トムとデイジーはまだ新婚旅行の最中だった。ギャツビーは軍からの最後の俸給をはたき、ルイヴィルへ、寂しい、けれども抗いがたい旅をした。そこには一週間滞在し、十一月の夜に二人の足音がコツコツと鳴った通りを歩き、二人がデイジーの車で訪れた辺鄙な場所を再訪した。デイジーの家が、彼にとってはいつもどの家よりも神々(こうごう)しく楽しげに思われたのと同じく、彼のルイヴィルへの思いは、たとえもう彼女がそこにいなくても、憂鬱な美で満ち満ちていた。
 彼女をもっと探していたら見つけられたかもしれない――だから、彼女を置き去りにしてきたも同然だ――と感じながら、彼はルイヴィルを後にした。二等車輛は――彼は今では一文無しだった――暑かった。彼は、屋根のないデッキに出て、折り畳み椅子に腰掛けた。駅舎が後方に滑ってゆき、見たことのない建物の背面が行き過ぎた。そうして列車は、春の野へと突き進んでいった。黄色い路面電車が束の間、列車と競り合うように併走した。乗客の中には、ルイヴィルの気取らぬ通り沿いで、彼女の顔が蒼白い魔法を掛けるのを一度は目撃した者もいたかもしれない。
 線路はカーブを描き、今では太陽から離れていった。夕陽は、低く沈みゆくにつれ、祝福を込めながら、陽光を、今や消えつつある街――かつて彼女が息を吸い込んだ街――の上に、万遍なく降り注いでいるようであった。彼は、一縷の空気でも掴み取ろうとするかのように、そして、彼女が彼のために素敵なものにしてくれた場所の一片を守ろうとするかのように、必死に手を伸ばした。けれどもそれはみな、あまりに速く遠ざかって行き、彼には霞んで見えるだけだった。彼には、その街の要(かなめ)の部分が――最も清新な、最上の部分が――永遠に失われてしまったことが分かっていた。
 私たちが朝食を終え、玄関に出たのは九時だった。一夜過ぎて天候にははっきりとした変化があって、空気には秋の気配がした。庭師(ギャツビーがずっと雇っていた召使いの最後の一人だった)が段の下まで来た。
 「今日、プールの水を抜こうかと思います、ミスタ・ギャツビー。じきに葉が落ちて参ります。そうなるといつも、排水口に問題が生じます」
 「今日はやめてくれ」とギャツビーは応えた。彼は申し訳なさそうに私の方を向いた。「ねえ、オールド・スポート、私はこの夏一度もあのプールを使ってないんだ」
 私は腕時計を見、立ち上がった。
 「あと十二分で電車が出る」
 私は街になど行きたくなかった。まともに仕事ができる状態ではなかった。けれども、本当はそれ以上の理由があった――ギャツビーの元を離れたくなかったのだ。私はその列車を逃し、それから次のも逃し、そうしてやっと重い腰を上げた。
 「電話するよ」と私は最後に言った。
 「ぜひとも、オールド・スポート」
 「正午ごろに電話する」
 私たちはゆっくりと段を下りた。
 「デイジーも電話してくると思う」彼は不安げに私を見た。私に請け合って欲しいかのようだった。
 「僕もそう思うよ」
 「じゃあね、バイバイ」
 私たちは握手をし、私は歩き出した。生け垣に到って思い出すことがあり、振り返った。
 「あいつらみんな、腐ってる」私は芝越しに叫んだ。「あのクズ連中を皆全部足し合わせて、やっと君の値打ちってとこだ」
 そう言っておけたことを、爾来(じらい)私はずっと嬉しく思っている。私は彼のことを、初めから終わりまで認めていなかったから、それは私が彼に与えた唯一の賛辞となった。初め彼は儀礼的に頷いたが、それから彼の顔はほころび、あの、眩いばかりの、包み込むような笑みを湛えた。まるで、この事実をここで明かすために、これまでずっと二人だけで心躍る共謀をしてきたようだった。彼の華麗なピンクのスーツは、白い階段に映え、鮮やかな点であった。私は、彼の祖先に由来するという邸に初めて訪(おとな)った、三ヶ月前の夜のことを考えていた。芝と車回しは、彼の頽廃について憶測する人たちの顔でいっぱいだった――そして彼は、あの階段に立ち、廃れようのない夢をひた隠しにしながら、彼らに向けて手を振り、別れの挨拶を述べていたのだ。
 私は、彼が手厚く遇してくれたことについて礼を述べた。私たちは――私も、他の皆も――そのことについてはいつも彼に礼を述べていた。
 「さよなら」と私は叫んだ。「朝食、楽しかったよ、ギャツビー」


 街では、途方もない量の株式の時価見積もり表を作成しようとしばらくは努力したが、その後、回転椅子に座ったままで眠ってしまった。正午の少し前に私に電話があって目が醒めた。私は立ち上がった。汗が額に吹き出ていた。電話をかけてきたのはジョーダン・ベイカーだった。彼女はよくこの時間に電話をかけてきた。ホテルとクラブと誰かの家の間で不定期に動き回るせいで、それ以外では連絡をとりにくかったからだ。いつもであれば彼女の声は、緑のゴルフコースでクラブヘッドに削り取られた芝の一片がオフィスの窓に航行してくるみたいに、瑞々しく涼し気なものとして電話線を伝ってきた。けれども、この日の午前、彼女の声はきつく、潤いがなかった。
 「デイジーの家を出たよ」と彼女は言った。「今はヘムステッドにいる。午後になったらサウサンプトンに行くつもり」
 デイジーの家を出たのは、おそらく如才ない行動であっただろう。けれどもどこか癪に障った。そして、彼女の次の一言で私は強張(こわば)った。
 「きのうはあまり優しくなかったね」
 「あの状況で、どうしてそんなことが問題なんだ?」
 沈黙。そして――
 「でも――会いたいよ」
 「僕もだ」
 「もし私がサウサンプトンに行かないとして、今日の午後街に行ったら会えるかな?」
 「いや、今日の午後は都合が悪い」
 「ならいいよ」
 「今日の午後は無理だ。いろんな――」
 しばらく私たちはそんなふうに話をした。それから突然、気がついてみると私たちはもう何も話していなかった。どちらがガシャンと受話器を置いたのかは覚えていない。けれども、それはどうでもよかった。たとえ、これからもう二度とこの世で話すことがないとして、ティーテーブルに向かい合わせで座っていたとしても、私は何も話せなかっただろう。
 数分経って、私はギャツビーの家に電話をかけた。けれども、回線が込み合っていた。私は四度電話をし、四度目にようやく、ひどく苛立った電話交換手が、デトロイトからの長距離電話があるから回線を空けているのだと言った。私は時刻表を取り出して、三時五十分の列車のところに小さく丸を描いた。そうして椅子に深く持たれかかり、思考を集中しようとした。ちょうど正午だった。


 その日の朝、列車に乗って灰の山々を通過したとき、私は敢えて車輛の反対側まで歩いて行った。あそこでは、好奇に駆られた群衆が一日中集(つど)い、小さな男の子らは灰燼の中に血痕を探していただろう。そして、どこかのお喋りな男が何度も何度も、何が起こったのか話して聞かせていただろう。そうするうちに出来事は、当の語り手にとってもますます現実性を失い、彼はもう話すことができなくなってしまっただろう。そして、マートル・ウィルソンの悲痛なる達成は忘れられてしまっただろう。私は今ここで一歩退いて、私たちが前日の晩に修理店を出た後、そこで何があったのか語ろうと思う。
 警察は妹のキャサリンの居所を掴むのに手こずっていた。彼女は、その夜は飲まないという禁を破っていたに違いない。現場に到着したとき彼女はへべれけで、救急車はフラッシング(訳注:ロング・アイランドにあった村。フラッシング病院はクウィーンズ自治区に現存)に行ってしまったのだということを理解できなかったからだ。警察が言っていることが分かると、彼女はその場で卒倒してしまった。まるで、それが事件の最も耐え難い部分であるかのようだった。ある男が、親切心からか好奇心からか、彼女を車に乗せ、彼女の姉の遺体が安置されているところまで連れて行った。
 日付が変わってもなお、群衆が入り替り立ち替り、修理店の前面に波のごとくに押し寄せていた。その間、ジョージ・ウィルソンは屋内のカウチに座って身体を前後に揺らせていた。しばらくは事務室の扉は開いていて、修理店に入って来た誰もが、扉の向こう側を見遣らずにはいられなかった。とうとう誰かが、「まったくひどいことだ」と言って扉を閉めた。ミケイルスに加え、他に男が何人かウィルソンの傍についていた。それからしばらくすると、ミケイルスはやって来たばかりの見知らぬ人に、ここで十五分ばかり待っていてくれないかと頼まねばならなかった。その間(かん)、彼は自分の店に戻ってコーヒーを作り、ポットに入れて持って来た。そうして、彼はウィルソンと夜明けまで二人でそこにいた。
 三時頃になって、ウィルソンの一貫しない呟きに変化が見られた――口数が少なくなり、黄色い車に言い及び始めたのだ。黄色い車が誰の物か見つける手だてがあると彼は宣言した。そして、二ヶ月前に妻が街から帰って来たとき、顔には痣ができ、鼻が腫れていたとこぼした。
 けれども自分の口から洩れた言葉を聞き、彼はたじろいだ。再び「ああ、神様!」と呻き声を上げだした。ミケイルスは、彼の気を紛らわそうと下手な試みを始めた。
 「結婚して何年になる、ジョージ?なあ、少しばかり、頑張って静かに座って、俺の質問に答えてくれよ。結婚して何年になる?」
 「十二年だ」
 「子供を持ったことは?なあ、ジョージ、静かに座ってな――俺は、あんたに質問した。子供を持ったことは?」
 硬い褐色の甲虫たちが、仄暗い灯りにひっきりなしに当たって鈍い音を立てていた。表で車が道路を突っ切り、闇をつんざくのを耳にするたび、ミケイルスにはそれが、数時間前に停まることのなかった車のように聞こえた。工場(こうば)には足を踏み入れたくなかった。遺体が載っていた作業台が血で染まっていたからだ。それで、彼は落ち着きなく事務室を歩き回った――日が昇る前には、どこに何があるのか記憶してしまったほどだ――そして時折、ウィルソンの脇に腰掛け、静かにしてもらおうとした。
 「ときどき行く教会はあるか、ジョージ?長いこと行ってないとしても、さ。教会に電話して、司祭さまにいらしてもらってさ、話をしてもらって――どうだろ?」
 「教会には行かんよ」
 「行く教会はあったほうがいい、ジョージ。こんなときには。一回くらいは行ったこと、あるだろ?結婚は、教会でしなかった?なあ、ジョージ、聞けよ。教会で結婚、しなかった?」
 「昔のことだよ」
 応(いら)えようとすることで、彼が身体を揺らすリズムが崩れた――しばし彼は黙した。そうして再び、褪せた両眼に、例の、半ば心得(こころえ)、半ば当惑した色が宿った。
 「あっちの引出しの中を見てくれないか」と彼は言って、机を指した。
 「どの引出し?」
 「あれだよ、あれ」
 ミケイルスは、一番手近の引出しを開けた。そこには、小振りで、見るからに高価な、犬用の散歩紐が入っていた。革製で銀が編み込まれていた。どうも新品のようだった。
 「これ?」と彼は訊き、持ち上げた。
 ウィルソンはそれを見据え、頷いた。
 「昨日の午後見つけた。あいつは説明しようとしたけど、何かおかしいと思った」
 「奥さんが買ったってこと?」
 「ティッシュペーパーに包んで箪笥に入れてたんだよ」
 ミケイルスには、変わったところは何も見受けられなかった。だから彼は、彼女がそれを買ったとしてもおかしくない理由を十二ほど挙げた。けれども、どうもウィルソンはその説明のうちのいくつかは、既にマートルの口から耳にしていたようだった。というのも、彼は再び「ああ、神様!」と囁き始めたからだ――それで、慰め役のミケイルスが与えようとした説明のいくつかは、口にされないままに立ち消えてしまった。
 「それでな、あいつが殺したんだよ」とウィルソンは言った。口が突然に、あんぐりと開いた。
 「誰が?」
 「見つける手だてがある」
 「怖いこと言うなよ、ジョージ」と彼の友人は言った。
 「きつかったと思うよ。だから、自分が何言ってるのか分からないかもしれない。頑張って、朝まで静かに座ってなよ」
 「あいつが、妻を殺した」
 「事故だってば、ジョージ」
 ウィルソンは首を振った。目を細め、口が少しだけ開いた。見下したような「ふんっ!」という声が洩れた。幽霊の囁きのようだった。
 「間違いない」と彼は断言した。「俺は、よくいる、騙されやすい男だよ。誰も傷つけようなんて思ってない。でもな、知ってしまったら知らない振りはできないよ。あの車に乗っていた男が殺(や)ったんだ。マートルは飛び出して、そいつと話そうとしたけど、奴は車を停めようともしなかった」
 ミケイルスも、何があったのかを目撃していた。けれども、そこに特別な意味があるとは思えなかった。彼は、ミセズ・ウィルソンは、特定の車を停めようとしたというよりはむしろ、夫から逃げようとしていたと思っていた。
 「奥さんは何でそんなことになった?」
 「いろいろ深く考える性質(たち)だった」と、まるでそれが質問への答えになっているかのようにウィルソンは言った。「ああ、あああ――」
 彼は再び身体を揺すり始めた。ミケイルスは手の中で紐を捻らせながら立っていた。
 「俺が電話してあげられる友達はいるんじゃない、ジョージ?」
 これは、見込みのない希望に過ぎなかった――ウィルソンには友達がいないことを、彼はほとんど確信していた。こんな男に妻が満足できるはずがないのだ。少し経って部屋の変化に気づき――窓では空がどんどん青みを増し、夜明けが近づいていることを告げていた――彼は安堵した。五時頃には外の空はすっかり青くなり、彼は灯りを消した。
 ウィルソンはぼうっとした目で灰の山々を見遣った。そこではいくつもの小さな灰色の雲が奇妙な形をとり、明け方の微かな風に乗って、ここかしこをすばしこく動いていた。
 「あいつには話をしたんだよ」と彼は呟いた。長い沈黙の後でのことだった。「俺のことは騙せるかもしれない、でもな、神様を騙すことはできんぞ、ってさ。それで、あいつを窓のところまで連れて行った」――彼は重い腰を上げ、後ろの窓まで歩いて行き、身を屈めて窓に顔を押し付けた――「それでな、俺はこう言ったんだ。『神様はお前のしてきたことをご存知だぞ、お前のしてきたこと全部だ。俺のことは騙せるかもしれん。けどな、神様を騙すことはできんぞ』」
 彼の後ろに立っていたミケイルスは、彼がT. J. エクルバーグ博士の両眼を見入っているのを見て、愕然とした。色褪せた巨大な両眼は、溶けゆく闇から浮かび上がったばかりであった。
 「神様は全てお見通しだ」とウィルソンは繰り返した。
 「あれは広告だよ」とミケイルスは彼を説得した。ミケイルスは窓から振り返り、部屋を見つめずにはいられなかった。けれどもウィルソンはそこに長い時間立ち尽くしていた。顔を窓枠に寄せ、朝ぼらけの光に向かって頷いていた。


 朝の六時になるまでには、ミケイルスはくたくたになっていた。だから、表で車が停まるのが聞こえたときには胸を撫で下ろした。前の晩に戻って来ると約束していた、付添人の一人だった。ミケイルスは三人分の朝食を拵(こしら)えたが、ウィルソンは食べようとせず、結局二人でそれを平らげた。今では彼はほとんど喋らなくなっていた。ミケイルスは眠りにつこうと家に帰った。四時間後に目を覚まして慌てて工場(こうば)に戻ってみると、ウィルソンの姿はなかった。
 彼の足取りは――彼は徒歩でしか移動することがなかった――後になって、ローズヴェルト港、さらに、ギャズ・ヒル(訳注:ディケンズ(イギリスの文豪)が育った邸であるギャズ・ヒル・プレイスを思わせる)までは辿ることができた。そこで彼はサンドウィッチ(口をつけなかった)を購入、また、コーヒーも買っていた。余程疲れていてゆっくり歩いていたのだろう、ギャズ・ヒルに着いたのはようやく正午になってからのことだった。そこまでの足取りを辿るのは難しくなかった――「『ちょっとおかしな』おじさん」を見たという男の子らの証言があったし、車を運転していると、道路の向かい側から、気色悪いほどにじっと見つめられたと言う人も何人かいたからだ。それから三時間、彼の動向は不明である。警察は、ウィルソンがミケイルスにこぼした、「誰が殺(や)ったのか見つける手だてがある」という言を手掛かりに、彼はひょっとしたら、辺りの修理店という修理店を洗い、黄色い車を捜したのではないかと踏んだ。けれども、彼を見たと名乗り出た修理工は誰もいなかった。彼には、目的の車を見出す、もっと簡単で、もっと確かな術があったのかもしれない。午後二時半までには、彼はウェスト・エッグにいた。ギャツビーの邸への道を訊かれた人物がいたのだ。したがって、そのときまでには彼は、ギャツビーの名を知っていたことになる。
 二時にギャツビーは水着に着替え、執事に、もし誰かから電話があればプールにいる自分に知らせるよう命じた。途中、彼は車庫で立ち止まった。その夏に来訪客を楽しませた浮きマットがあったからだ。運転手は、それを膨らませるのを手伝った。そしてギャツビーは、いかなることがあってもオープン・カーは表に出さぬよう指示した――奇妙な指示だった。右前面のフェンダーは、修理が必要だったからだ。
 ギャツビーは浮きマットを抱えプールへと歩んだ。一度彼は立ち止まり、それを持ち替えた。運転手が、お手伝いいたしましょうかと言った。けれどもギャツビーは首を振り、あっという間に黄色く色づきつつある樹立(こだち)の中に姿を消してしまった。
 結局、電話の言伝(ことづて)は何も届かなかったが、執事は眠ることなく、午後四時まで待ち続けた――つまり、仮に言伝が届いていたとしても、受取り手が誰もいなくなって相当な時間が経っていたことになる。私は、当のギャツビーも、言伝があろうとは思っていなかったし、ひょっとしたらもう気に掛けていなかったのではないかとも思う。そうだとしたら、彼は、きっとこう感じていただろう。古き温かな世界を失ってしまった、そして、たったひとつの夢だけを携えてあまりに長く生きてきたせいで、大きな代償を払ってしまった、と。彼は、おどろおどろしい葉々の隙間から、見慣れぬ空を見上げたに違いない。薔薇がどれほどおぞましいものか、そして、芽吹いて間もない芝に降り注ぐ陽光が、どれほど生々しいものかを見出し、身を震わせたに違いない。新しい世界には、実(じつ)が欠け、物だけがあった。哀れな亡霊たちは、息吹(いぶ)くように夢を呼吸しながら、偶然、辺りにたゆたっていた……。形の定まらない樹々の間から彼に滑降して来る、あの幻、灰の人影のように……。
 運転手――彼は、ウルフシャイムの子分であった――が銃声を何発か聞いた――後に彼は、大したことではないと思ったのですとしか言えなかった。私は、駅から直接ギャツビーの邸まで運転した。そして、私が不安にかられて玄関の階段を駆け上がったのが、皆を不安に陥れるきっかけとなった。しかし、そのときには間違いなく、皆が知っていただろうと思う。ほとんど言葉が発せられることがないまま、運転手と執事、庭師と私はプールに駆け下りた。
 プールの端から供給される新しい水流が、反対側の排水溝の方へ急(せ)くように進むのに合わせ、微かな、辛うじて認識できる水の動きがあった。波の名残ほどもない微かな揺らぎにたゆたいながら、重しを載せた浮きマットは、不規則に動きながらプールの奥の方へと流れて行った。水面(みなも)を揺らせることすらままならない微風があるだけだったが、偶然の重みを載せた浮きマットが、偶然に辿る道筋を動かすには事足りた。水面(みなも)に浮く落葉の溜りに触れると、それは緩やかに回転し、コンパスの脚のように水中に細く赤い円を描いた。
 現場から少し離れた叢(くさむら)で庭師がウィルソンの遺体を発見したのは、私たちがギャツビーの遺体を運び出した後のことだった。このようにして殺戮(ホロコースト)の幕は閉じた。