The Great Gatsby 翻訳

F. Scott Fitzgeraldの傑作 "The Great Gatsby"の翻訳です。

The Great Gatsby 第4章

Chapter IV

 

 日曜日の朝には、岸辺の村々で教会の鐘が鳴る間に、人々は、男も女も、ギャツビーの邸に戻った。庭園の芝で星屑のようにきらきら笑った。 

 「彼は密造酒を売ってるのよ」と若い女たちが、彼の供したカクテルと花々の間を行きつ戻りつしながら噂した。「彼がフォン・ヒンデンブルク(訳注:ドイツ国の軍人、政治家、大統領 1847-1934)の甥っ子だってことを暴き出した人を彼は抹殺したし、悪魔の又従弟だって暴露した人も殺したのよ、昔。薔薇を取ってよ、ハニー。それから、最後の一滴をあのクリスタルグラスに入れて」

 あるとき私は、時刻表の余白に、その夏ギャツビーの邸に来た人々の名前を書き留めた。今では古い時刻表で、折り目のところはちぎれかかっている。「この時刻表は1922年の7月5日から有効です」と冠されてある。しかし今でも、灰色に褪色してしまった名前を読むことはできるし、ギャツビーの歓待を享受していながら、彼については全く何も知らないという慎ましやかな謝意を示した人々について私が大体のところを書くよりは、この記録の方が正確な印象を伝えることができるだろう。

 さて、イースト・エッグから来たのは、チェスター・ベッカー夫妻とリーチ夫妻、それから私がイェール大学で知り合ったバンセンという名の男、それにウェブスター・シヴェット博士もいた。彼は昨夏、メイン州で溺死してしまった。さらに、ホーンビームズ夫妻、ウィリー・ヴォルティア夫妻がいて、ブラックバックという家の一族(彼らはいつも隅に陣取っており、傍を通りがかる者誰に対しても、山羊のように鼻先をツンと上げた)がいた。イズネイ夫妻と、クリスティー夫妻(否、ヒューバート・アウアバック氏と、クリスティー氏の妻、と言うべきか)、それにエドガー・ビーヴァー氏がいた。(人々の噂によると、ある冬の日の午後に特段の理由もなく、彼の髪は綿のように真っ白になってしまったのだそうだ)

 クラレンス・エンダイヴもまたイースト・エッグ出身だったと記憶している。彼は一度だけ来たのだが、白いニッカボッカーズ(訳注:ズボンの一種)を履いていて、エティという名の飲んだくれと庭園で喧嘩をした。島のさらに奥まったところから来ていたのは、チードル夫妻とO. P. R. シュレーダー夫妻であった。さらに、ジョージアのストーンウェル・ジャクソン・エイブラムズ、フッシュガード夫妻、リプリー・スネル夫妻もそうであった。スネル氏は三日後に刑務所に入ることになるのだが、酩酊して砂利敷の私道で寝てしまい、右手をミセズ・ユリシーズ・スウェットの車に轢かれた。ダンシー夫妻も来ていた。S. B. ワイトベイト氏は優に還暦を過ぎていた。さらに、モーリス・A. フリンク、ハマーヘッド夫妻、煙草輸入商のベルーガに、彼の連れの女たちがいた。

 ウェスト・エッグから来ていたのは以下の面々だ。ポール夫妻、マルレディ夫妻、セシル・ロウバック、セシル・ショウエン、ギューリック上院議員、パー・エクセレンス映画会社を牛耳っているニュートン・オーキッド、それに、エクハウスト、クライド・コーヘン、ドン・S. シュウォーツ(息子の方だ)、アーサー・マカーティ。ここまでの皆が、何らかの形で映画産業に携わっている。さらにキャトリプ夫妻、ベンバーグ夫妻に、G. アール・マルドゥーン(後日妻を絞殺したあのマルドゥーンの弟だ)がいた。興行主のダ・フォンタノも来ていた。それにエド・レグロズ、ジェームズ B. (“Rot-Gut”(安酒))・ フェレット、デ・ジョング夫妻にアーネスト・リリー――彼らは賭博をしに来ていた。フェレットが庭園の中へと歩いて行くのはいつも、賭けで大枚を使い果たしたときで、翌日、アソシエーティド運輸の株価は決まって上昇し、利益をもたらすと踏むことができた。

 クリプスプリンガーという名の男は、やたらと頻繁に訪(おとな)って来たし、また長居をしたものだから遂に「寄宿人」として知られるにいたった――彼には他に家があったのだろうか。演劇の関係者の中では、ガス・ウェイズ、ホレース・オドナヴァン、レスター・メイヤー、ジョージ・ダックウィードにフランシス・ブルがいた。ニューヨークからも来訪客があって、クローム夫妻、バックヒソン夫妻、デニカー夫妻、ラッセル・ベティ、コリガン夫妻、ケレハー夫妻、デュワー夫妻、スカリー夫妻、S. W. ベルチャー夫妻、スマーク夫妻、若きクウィン夫妻(今では別れてしまった)、それにヘンリー・L. パルメット(もう自殺してしまった。タイムズ・スクウェアで、地下鉄に飛び込んだのだ)がいた。

 ベニー・マクレナハンはいつも、女の子を四人連れてやって来た。いつも違う子を連れてきていたが、どの連れもほとんど同じような容姿をしていたから、どうしても以前にも来ていたのではないかと思われた。その子たちの名前は忘れてしまった――ジャクリン、だっただろうか。あるいは、コンスエラだったか、グロリアか。あるいはジュディだったか、ジューンだったか。いずれにせよ、花や月の名を思わせるメロディアスな名前であったか、あるいはアメリカの大資本家を思わせるもっと堅い名前で、その子たちは、問い質されると、自分は従妹なのよと打ち明けたものだった。

 これら面々に加え、フォースティナ・オブライエンが少なくとも一度そこに来ていたことを記憶している。それに、ベイデカーの女の子たち、若きブルーワー(大戦で鼻を吹き飛ばされていた)、アルブルックスバーガー氏と彼の婚約者のミス・ハーグ、そして、アーディタ・フィッツピーターとP. ジュウェット氏(かつてアメリカ退役軍人会の会長を務めていた)、ミス・クローディア・ヒップと彼女のお抱え運転手だという噂の男がいた。さらには、どこかの王子がいて、私たちは彼を「大公」と呼んでいた。けれども本当の名前は、当時は知っていたのかもしれないが、もう忘れてしまった。

 これらの人々がその夏、ギャツビーの邸に来ていたわけだ。

 七月下旬のある朝、九時のことだった。ギャツビーの豪華な車が砂利の車回しを疾駆し、私の家の扉の前で停まった。三つの音程が鳴るクラクションでメロディを出していた。彼が私のところに来るのは初めてのことだった。もっとも私の方は、パーティーには二回顔を出していたし、彼のモーターボートにも乗せてもらっていたし、彼の強い求めに応じて頻繁に砂浜を使わせてもらってもいた。

 「おはよう、オールド・スポート。今日は一緒にお昼を食べよう。一緒に乗っていけたらと思うんだ」

 彼は車のダッシュボードで立ち上がって釣り合いを保っていた。器用に動いているのがいかにもアメリカ的だ――蓋(けだ)し、これは若いときに足腰を使った労働に従事したことがなかったり、じっと座っていることがなかったことに由来するのだろう。さらに言えば、私たちアメリカ人の愛する、手に汗を握る、けれども「散発」で特徴づけられるスポーツの、形式を欠いた美にも由来するのだろう。この性質は、彼の、微に入り細を穿つ所作に頻繁に闖入しては、落ち着きのなさという形で現れた。彼はじっとしているということがなかった。いつも、片足をどこかでトントンとしていたり、苛々と片手を開いたり握ったりしていた。

 彼は、私が車を眩そうに見遣るのを見ていた。

 「すごいでしょう、オールド・スポート」彼は私がもっとちゃんと見えるように車から跳び降りた。「これを見たことはなかったよね?」

 実際私は以前に見たことがあった。皆が見たことがあった。車は濃いクリーム色で、ニッケルが輝いている。恐ろしく長い車内にはご立派な帽子入れや夜食入れ、道具入れがあり、ここかしこがデコボコしている。十二もの太陽を反映させる迷路のような風除けが段々になって備えられている。

 私はそれまでの一ヶ月、既に六回かそこら彼と話したことがあった。そして、がっかりしたことに、彼は話すべきことをほとんど持ち合わせていないことに気がついていた。だから、輪郭こそはっきりしないにせよ、彼はとにかく重要な人物であるという私の第一印象は次第に薄れ、今では彼は私にとって、隣にある手の込んだ酒場の主人に過ぎなかった。

 そうして、この落ち着かないドライブの話が降ってきたのだ。私たちはまだウェスト・エッグ村にも着いていなかったが、ギャツビーは優美な口ぶりで話し出しては止めにするというのをしだし、決めかねるように、キャラメル色のスーツの膝をピシャリと打ち始めた。

 「あのね、オールド・スポート」と彼は唐突に切り出した。「君は私のことをどう思うかな」

 私はちょっと驚いたが、一般的なことを言ってはぐらかし始めた。そうした質問は、まともに答えるには値しない。

 「あのね、私は自分の人生について君に話しておこうと思うんだよ」と彼は遮った。「君の耳に入ってくるあれやこれやの噂話で、私のことを誤解しないで欲しいんだ」

 彼は、自邸のあちこちの部屋で繰り広げられる会話に興を添える、妙な悪口のことを知っていたのだ。

 「神様に誓って言うよ」彼は唐突に右手を上げた。真実を語らずんば、神よ、我を罰したまえ、というように。「私は、中西部のある裕福な家族の下に産まれた一人息子なんだ。家族は皆死んでしまったけれどね。アメリカで育てられたけれど、オックスフォードで教育を受けた。私の祖先が何代にも渡ってそこで教育を受けたからだ。家の伝統、というやつだね」

 彼は横目で私を見た。ここで私は、ジョーダン・ベイカーが彼を嘘つきだと信じて疑わないでいた訳が分かった。「オックスフォードで教育を受けた」という部分を言い急いでというか、飲み込むようにというか、それが喉に引っかかるかのように話すのだ。このように疑ってみると、彼の説明全部は粉々になった。この男には少し不吉なところがあるのではないか、と私は訝った。

 「中西部のどこ?」と私は努めてくだけた調子で訊いた。

 「サンフランシスコだよ」(訳注: サンフランシスコは西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市。中西部ではない)

 「そう」

 「私の家族は皆死んでしまってね、多額の遺産を相続した」

 彼の声は厳粛であった。家族が突然死に絶えてしまったことが今でも彼の囚われであるようだった。しばし私は、彼はからかっているのではないかと思った。けれども彼に目を遣るとそうではないと思い直した。

 「その後ではね、ヨーロッパのあらゆる都で若いラージャ(訳注:インドで王の称号)のように暮らしたよ。パリ、ヴェニス、ローマ。宝石を集めたよ。ほとんどはルビーだったな。狩りに出て大型獲物を捕まえもしたし、少しは絵もかじった。自分のためにだけしたんだよ。ずっと前に私の身に起こった、ひどく悲しいことを忘れようとしていたんだ」

 信じられないなと一笑に付すのを抑えるのに骨を折った。肝心の部分が手垢のついた言い草で、ほとんど何の情景も喚起しなかった。ただ、ターバンを巻いた「キャラクター」がブローニュの森(訳注:現在ではパリに編入されたフランスの森林公園)を虎を追って駆け巡り、ありとあらゆる毛穴からおが屑がこぼれているイメージが浮かんだに過ぎなかった。

 「それから戦争が起こったんだ、オールド・スポート。それは大きな慰みであってね、私は懸命に死のうとした。けれども私の命は、魔法にかかっていたみたいに失われることはなかった。戦争が起こったときには私は中尉に任ぜられた。アルゴンヌの森の戦闘では、機関銃支隊を二つ率いていたのだが、前方に進み過ぎてしまって、両翼に半マイルの開きができてしまった。歩兵隊はもう進めない。そこで二日二晩凌いだよ。百三十人の兵と十六丁のルイス式機関銃でね。そしてようやく歩兵隊が到着したとき、死体の山の中に、三つのドイツ部隊の徽章が見つかった。私は少佐に昇進した。あらゆる同盟国政府が勲章を授けてくれた。――モンテネグロさえもだ。アドリア海に面した、あの小さなモンテネグロさえも!」

 小さなモンテネグロ!彼はこの言葉を宙に浮かべ、それに向かって頷いた。――持ち前の微笑みを湛えて。彼の微笑みは、モンテネグロの苦渋の歴史を理解し、モンテネグロ人の勇敢な奮闘に情を寄せていた。さらには、モンテネグロの温かく小さな心根からこの感謝を引き出した、当該国の置かれた一連の情況をよく分かっていた。私の疑いは今では身を潜め、感嘆に取って代わられた。六冊もの雑誌に目を走らせているみたいだった。

 彼はポケットに手を突っ込んだ。リボンに掛かった小さな金属片が彼の掌の中にあった。

 「これがモンテネグロから頂いたものだよ」

 驚いたことに、どう見ても本物だという感じがした。

 「ダニーロ勲章(Orderi di Danilo)」と円形に銘されていた。「モンテネグロ国王 ニコラス・レックス」

 「裏返してごらん」

 「ジェイ・ギャツビー少佐」と私は読み上げた。「貴君の卓越したる武勇を讃えて」

 「これは、また別の、いつも携帯している物だよ。オックスフォードでの日々の土産物だ。トリニティ・カレッジの中庭で撮影されたものだ。私の左にいる人物は、今ではドンカスター伯爵だ」

 その一葉の写真の中には、ブレザーを着、アーチ道に佇む六人の若者が写っていた。アーチの内側からはいくつもの尖塔が見て取れる。ギャツビーもいた。今よりずっと、とは言わないが少し若く見えた。手にはクリケットのバットを持っている。

 全ては本当だったのだ。私は、ヴェニスの大運河沿いにある彼の宮廷で、何頭もの虎の毛皮が炎のように照り映えるのを思った。彼が、深紅の光を湛えるルビーの入った箱を開け、打ち破れた心の呻吟を慰めるのを思った。

 「今日は君に大切なお願いをするつもりなんだ」と彼は言って、満足そうにメダルと写真をポケットにしまった。「それで私は、君に私のことを知っておいてもらおうと思ったんだよ。どこの馬の骨とも知れん奴だとは思って欲しくなかった。ほら、私はいつも、知らない人に囲まれる羽目になる。我が身に起こった悲しいことを忘れようとあちらこちらを動き回っているからね」それから彼は躊躇した。

 「ちゃんとしたことは今日の午後分かるよ」

 「昼食で?」

 「いや、その後でだよ。偶然知ったんだけどね、君はミス・ベイカーとお茶をともにするでしょう」

 「君はミス・ベイカーのことが好きなの?」

 「違うよ、オールド・スポート。でも、ミス・ベイカーは親切にも、このことについて君と話をするのを諾(うべな)ってくれたよ」

 私には「このこと」というのが何なのか見当もつかなかった。けれども私は、興を惹かれていたというよりはむしろ、苛立っていた。私は何も、ジェイ・ギャツビー氏について論じるためにミス・ベイカーをお茶に誘ったわけではないのだ。この頼みは、全く途方もないことだと私は確信していた。それでしばし私は、あまりに人が多く集まる彼の庭園に足を踏み入れたことを悔いた。

 彼はもう、一言も発しようとしなかった。私たちがニューヨーク市に近づくにつれ、彼は徐(おもむろ)に堅苦しさを取り戻していった。ローズヴェルト港を行き過ぎた。赤い縞の入った海洋船がいくつも見えた。それから、丸石が敷かれたスラム街を疾駆した。暗く、絶えず人の訪(おとな)う、今では褪色してしまった金ぴかの1900年代のサルーン(訳注:金を持たない者に酒を施した酒場)が軒を連ねていた。すると、私たちの両側に灰の谷が開けた。ミセズ・ウィルソンが見えた。通過したときには彼女は、息を切らせながらも活力一杯に、自動車修理場のポンプを押していた。

 フェンダー(訳注:車輪の周りの部分)を翼のように広げ、ロング・アイランド・シティ(訳注:ニューヨーク市のクウィーンズ区に位置する)の半分を、光を撒き散らしながら駆け抜けた。――半分だけだ。というのも、私たちが高架鉄道の支柱を縫うように走っていたら、あの、オートバイの「ジャグ、ジャグ、スパッ!」という馴染みの音が聞こえてきたからだ。怒り狂った警察官が並走していた。

 「分かったよ、オールド・スポート」とギャツビーは声を上げた。私たちは速度を緩めた。財布から白いカードを取り出すと、彼は警察官の眼前でヒラヒラとそれをかざした。

 「結構です」と警察官は言い、制帽に手を当てた。「以後覚えておきます、ミスタ・ギャツビー。申し訳ございません!」

 「何を見せたんだ?」と私は質した。

 「オックスフォードのあの写真か?」

 「昔、警察庁長官に便宜を図る機会があってね、それからは毎年クリスマスカードを送ってきてくれるんだよ」

 大橋の上では、大梁の間から差す陽の光が、行き交う車をずっときらきらと輝かせていた。河の向こう側では街が、白亜の山々、そしてあまたの砂糖片となって立ち現れた。全ては嗅覚を持たない金(マネー)が生む願いとともに築かれたのだ。クウィーンズボロ橋から見る街は、いつも初めて見る街だ。世界のあらゆる神秘と美がそこにある、そんな無邪気な約束を初めにしてくれるのだ。

 死者が行き過ぎた。花をいっぱいに手向けられた霊柩車に、ブラインドを引いた二台の馬車が続いた。その後には友人らの乗る、それらよりは陽気な馬車が何台か続いた。友人らは車内から私たちを見遣った。皆、悲しい目をしていた。鼻と口との間が短いのはヨーロッパの南東部に由来するものらしかった。私は、彼らの陰鬱なる祭日に、ギャツビーの素晴らしい車の光景が含まれていることが嬉しかった。私たちがブラックウェルズ・アイランドを通過するときには、一台のリムジンと擦れ違った。白人の運転手が運転していたが、中には洒落た黒人が三人乗っていた。男が二人、女が一人だ。そいつらの目玉の黒い部分が、私たちに敵意を剥き出しにしてコロコロと転がるものだから、私は声を上げて笑ってしまった。

 「もう橋を渡ったぞ、これから何だって起こる」と私は思った。「何だって……」

 ギャツビーの存在でさえ、そこでは特段の不思議もなくなってしまう。

 喧騒の声が充ちる真昼時。扇風機のよく効いた、四十二丁目の地下酒場で、私はギャツビーと昼食をともにするために落ち合った。外の通りの明るさから目が慣れず、目を瞬(しばた)いていると、奥の部屋に彼の姿がおぼろげに浮かんだ。別の男と話をしていた。

 「ミスタ・キャラウェイ、こちらは私の友人のミスタ・ウルフシャイムですよ」

 小柄の、鼻の低いユダヤ人が大きな頭を持ち上げ、私を見た。両方の鼻孔には毛がたっぷりと茂っていた。少しして、薄暗がりの中に彼の小さな両眼があるのが分かった。

 「それでな、俺は奴を見たんだよ」とウルフシャイム氏は言った。力強く私の手を握っていた。「それで俺はどうしたと思う?」

 「どうなさったのですか?」と私は礼を失しないように訊ねた。

 けれども、彼が私に向けて話をしていないのは明らかだった。というのも、彼は私の手を離し、饒舌なる鼻先の射程をギャツビーに合わせたからだ。

 「俺は金をキャツポーに渡したんだよ。それで言ってやった。『いいか、キャツポー。奴が黙るまでびた一文払うんじゃねえぞ』とね。奴はその場で黙りおった」

 ギャツビーは私たち銘々の腕を取って、前方の食堂へと案内した。するとすぐに、ウルフシャイム氏は言いかけた文を呑み込み、夢遊病者のように放心して中に入った。

 「カクテルですか?」とウェイター長が訊ねた。

 「ここは良いレストランだな」とウルフシャイム氏が天井の長老教会派のニンフ(訳注:山河、森に住む、若い女の姿の精霊)の絵を見ながら言った。「とは言え、俺は向かいの店の方が好きだがな」

 「ええ、カクテルをいただきます」とギャツビーが応じた。それからウルフシャイム氏に向かって言った。「あちらは暑すぎます」

 「暑くて狭い――そうだな」とウルフシャイム氏は言った。「けれども思い出が詰まっている」

 「どんな場所なんですか?」と私は訊ねた。

 「懐かしのメトロポール」

 「懐かしのメトロポール」とウルフシャイム氏は陰鬱な物思いに沈んだ。「死んでもう二度と会えない人たちの顔が浮かぶよ。今では永久に逝きし友で溢れていた。俺は、生きている限り、あそこでロージー・ローゼンサルが撃たれた夜のことを忘れんよ。我々六人がテーブルにおった。ロージーはその夜、たらふく食ってたらふく飲んでおった。もう夜明けだという頃、ウェイターが変な様子でロージーのところまで来て、『外でお会いしたいという方がいらしております』と言うんだ。『よしっ』とロージーは言って腰を浮かせた。俺は彼を椅子に引きずり下ろしたよ」

 「会いたいと言うなら、そのクソ野郎をここに来させたらいいじゃないか、ロージー。後生だからこの部屋の外には出ないでくれ」

 「午前四時だったよ。もしブラインドを上げていたら、もう明るくなっているのが分かったろうな」

 「その方は表に出たのですか?」と私は無邪気に訊ねた。

 「出たんだよ」憤って紅潮したウルフシャイム氏の鼻が私に向いた。「ロージーの奴、ドアのところで振り向いてな、こう言ったんだよ。『俺のコーヒーは下げさせずにおいてくれ』とな。それから歩道に出たんだがな、奴らは彼の満腹の腹に三発銃弾を撃ち込んで、車で走り去った」

 「そのうちの四人は電気椅子で処刑されましたね」と私は事件のことを思い出しながら言った。

 「ベッカーもいたから五人だな」彼の鼻孔が、興を惹かれたようにこちらを向いた。「君は仕事のゴネグションを探してるのか?」

 繋がりが分かりかねるこの二つの物言いに、私は面食らってしまった。ギャツビーが私の代わりに答えてくれた。

 「違いますよ」と彼は声を上げた。「この方じゃありません」

 「違うのか?」ウルフシャイム氏は残念そうだった。

 「この方はただの友人ですよ。そのことについては後にお話しましょうと申し上げたじゃないですか」

 「申し訳ない」とウルフシャイム氏は言った。「勘違いしておった」

 ジューシーな肉料理が運ばれてきた。ウルフシャイムは、懐かしのメトロポールの感傷に浸るのを忘れ、慎み深くも旺盛な食欲を隠さず、それを食べ始めた。その間に彼の両眼は、極めてゆっくりと部屋中を見渡していた。――彼は、振り返って自分の真後ろの人間に探りを入れることでこの旋回を終えた。思うに、私がいなかったら、彼はテーブルの下をも素速く確認したことだろう。

 「ねえ、オールド・スポート」と彼は私の方に身を乗り出して言った。「今朝、車の中では、少し気分を悪くさせてしまったかもしれない」

 あの微笑みが浮かんだ。けれども、今回は私は堪(こら)えた。

 「謎掛けは好きじゃない」と私は答えた。「どうして率直に、僕にどうして欲しいのか説明しないんだ?それに、どうしてミス・ベイカーを通さなくっちゃならない?」

 「いや、何もこそこそした話じゃないよ」と彼は私に請け合った。「ミス・ベイカーは一流のスポーツ選手だ。まずいことに手を貸したりはしない」

 突然、彼は腕時計を見て跳び上がり、慌てて部屋を出た。テーブルには私とウルフシャイム氏が残された。

 「電話をせねばならんのだよ」と、ウルフシャイム氏は彼を目で追いながら言った。「立派な奴だね。男前だし、完璧な紳士だ」

 「ええ」

 「あいつはオッグズフォードを出てるんだよ」

 「そうですか!」

 「イングランドオッグズフォード・カレッジ(訳注:正しくは「オックスフォード・ユニバーシティ」)に行ったんだ。オッグズフォード・カレッジのことは知っておろう?」

 「聞いたことはあります」

 「世界で最も有名な大学(カレッジ)のひとつだよ」

 「ギャツビーとは知り合って長いのですか」と私は探りを入れてみた。

 「数年だな」と彼は満足げに答えた。「戦争が終わった直後から懇意にしてもらっているよ。ただな、一時間話しただけで、奴が高貴な生まれだってことが分かった。家に連れてって、母親だとか姉とかに紹介したくなるような男だな」そこで彼は間を置いた。「君は、俺のカフス・ボタンを見ているね」私は別にそんなものを見ていなかったが、そう言われると否が応でも目が行った。

 象牙製だが、妙に馴染みがある。

 「人間の臼歯の標本だよ。一番いいやつだ」と彼は教えてくれた。

 「そうですか!」そう言って私は、よく見てみた。「実に面白い」

 「そうだろう」と言って、彼は上着の中に両袖を捲り上げた。「そうだろう。ギャツビーはね、女には極めて用心深い。友達の奥さんを見遣ることさえしないだろうな」

 こんなふうに本能的な信頼を寄せられる人物がテーブルに戻り腰を下ろすと、ウルフシャイム氏はグイッとコーヒーを飲み干し、立ち上がった。

 「昼食を楽しませてもらった」と彼は言った。「俺は、若いお二人さんから失礼するよ。長居をせんうちにな」

 「メイヤーさん、そう急(せ)かず」とギャツビーはいったが、心は込もっていなかった。ウルフシャイム氏は「祝福あれ」とでもいうように片手を上げた。

 「ご丁寧にありがとう。でも俺は、別の世代の人間なんだ」と彼は厳粛に言った。「お二人はここに座って、スポーツだとか若い女だとか、それに――」どんな名詞が続くのだろうと思ったところで、彼はまた手を降ってそれを埋め合わせた。「俺は五十だ。君らの前で出しゃばるまい」

 握手をして彼は去って行った。悲しみを湛えた彼の鼻は震えていた。何か気に障ることを言っただろうか、と私は思った。

 「ときどきひどく感傷的になるんだよ」とギャツビーが説明した。「今日がその一日だったってわけだね。彼はニューヨーク界隈ではひとかどの人物だ――ブロードウェイの住人だよ」

 「彼は何者なの?役者か?」

 「いや、違う」

 「歯医者か?」

 「メイヤー・ウルフシャイムが?違うよ。彼は賭博師(ギャンブラー)だよ」ギャツビーは躊躇したが、涼しげにこう付け加えた。「1919年のワールド・シリーズで、八百長を仕掛けたのはあの男だよ」

 「ワールド・シリーズで八百長を仕掛けた」と私は繰り返した。

衝撃だった。もちろん、1919年のワールド・シリーズがいかさまだったことを私は覚えていた。けれども、そのことを一人で考えていても、それは単に「起こった」こと、必然的な因果律の末端としか思わなかっただろう。一人の男が五千万の国民の信を弄(もてあそ)ぶに及ぶとは思いもしなかった。――金庫を爆破する強盗の打つ大博打だ。

 「どうやってそんなことをやったんだ?」一分ほどして、私は訊いた。

 「好機を見つけただけでしょう」

 「どうして刑務所に入ってないんだ?」

 「警察は彼を捕まえられないんだよ、オールド・スポート。頭が切れるからね」

 勘定は自分が払うと言って私は譲らなかった。ウェイターが釣りを持ってきたとき、混み合った部屋の向こうにトム・ビュキャナンの姿が目に入った。

 「ちょっと一緒に来てくれない?」と私は言った。「挨拶しなくちゃいけない人がいてさ」トムは私たちの姿を見ると、跳び上がって私たちの方に数歩歩み寄った。

 「これまでどこにいたんだ?」と彼は荒々しく問い質した。「お前が電話を寄こさないから、デイジーはすごく怒ってるぞ」

 「この人はミスタ・ギャツビーだよ。で、こちらはミスタ・ビュキャナン」

 二人は手短に握手を交わした。緊張した、これまで見たこともない当惑の表情がギャツビーの顔に浮かんだ。
 「とにかく、どうだ、最近は?」とトムが私に質した。「何でこんなに遠くまで食事しに来た?」

 「ギャツビーと昼食をとっていたんだよ」

 私はギャツビーの方を見遣ったが、もうそこに彼はいなかった。

 

 

 1917年の10月のある日――

 (と、この日の午後にジョーダン・ベイカーは語った。場所はプラザ・ホテルのティー・ガーデン。真っ直ぐな椅子に真っ直ぐに座っていた。)

 ――私はある場所から別の場所に向けて歩いていた。道程(みちのり)の半分は遊歩道で、もう半分は芝だった。芝を歩いているときのほうが嬉しかった。そのとき私はイングランド製の、底にゴムのいぼいぼがついた靴を履いていて、それが柔らかい地面に食い込んだから。新しい格子柄のスカートを履いていて、風にそよいだ。そうすると決まっていつも、星条旗――どの家も星条旗を掲げていたわ――がピンと張って、「トゥトゥ、トゥトゥ、トゥトゥ、トゥトゥ」と音を立てた。咎められているような気がした。

 一番大きな星条旗も、一番大きな芝も、デイジー・フェイの家の物だった。デイジーはまだ十八歳で、私より二つ上だった。ルイヴィルにいた若い女の子の中では、彼女がずば抜けて一番もてていたよ。白い服を着て、小さなロードスター(当時流行った、二(三)人乗りのオープンカー)を持っていた。彼女の家では一日中電話が鳴って、キャンプ・テイラー(訳注:ルイヴィルにあった軍事基地)の、興奮した若い将校らが、その日の晩、彼女を独り占めする特権をねだってきた。「とにかく、一時間だけ!」なんて言ってね。

 その日の朝、私は彼女の家の向かいに行った。彼女の白いロードスターは縁石の傍に停めてあって、座席には彼女が、私がそれまで見たことがない中尉さんと一緒に座っていたの。二人はお互いに夢中で、私が五フィートの距離に近づくまで彼女は私のことが目に入らなかったみたい。

 「あら、ジョーダン」と彼女は意外にも私を呼んでくれた。「こちらにいらっしゃいよ」

 彼女が私と話したいと思ってくれているなんて、私は鼻が高かった。年上の女の子で私が一番憧れていたのが彼女だったから。「これから赤十字に行って包帯を作るの?」と彼女は私に訊いた。「そうよ」と私は答えた。「それなら、今日は私は行けなくなったって皆さんに伝えてもらえないかな?」彼女が話している間ずっと、その将校さんは彼女を見ていた。若い女の子だったら誰でも、いつかはあんなふうに見つめられたいと思うでしょうね。ロマンティックに思えて、それでこのことをずっと覚えているのよ。彼の名前はジェイ・ギャツビーといった。それから四年以上に渡って、彼の姿を目にすることはなかった。――ロング・アイランドで彼に会った後でさえ、彼があの人と同じ人なんだって分からなかった。

 それが1917年の話ね。その翌年までに、私は何人か男の子と付き合ったし、トーナメントにも出場し始めたから、デイジーとはあまり会わなくなってしまった。彼女は少し年上の男たちと出掛けるようになっていた――誰か男の人と出掛ける場合にはね。彼女についての流言が駆け巡っていた。ニューヨークに行って、海外に出征するある軍人にさよならを言うために、彼女はある冬の夜に荷造りをしていたんだけど、それを母親に見つかったみたいだよ、という噂。彼女は行かせてもらえなくって、ご家族とは数週間口をきかなかった。その後では彼女はもう、電話をかけてきたあの軍人たちと遊ぶことはなくなった。数は多くないけど、扁平足の、近眼の若い男たちとだけ付き合うようになった。兵役に就くことができないからってね。

 翌年の秋までには彼女はすっかり元気に、かつてないほど元気になっていた。戦勝記念日の後に社交界にデビューして、二月にはおそらくニューオーリンズの男と婚約した。けれども六月には彼女は、シカゴのトム・ビュキャナンと結婚した。ルイヴィルではそれまでにない規模の、壮麗で見事な結婚式を挙げたよ。新郎は自分の車四台に百人もの人を乗せて現れてね、シールバッハ・ホテルの階をひとつ丸ごと借りてたんだよ。結婚式の前日には、彼は彼女に三十五万ドルもする真珠のネックレスを贈っていた。

 私は花嫁の介添えをした。結婚式の午餐の半時間前に彼女の部屋に入ったら、彼女は、六月の夜ほどに素敵なベッドの上で、花柄のドレスを着て横たわっていた。――そして、べろんべろんに酔っ払っていた。片方の手にはソーテルヌ(訳注:ワインの一種)の瓶を、もう片方の手には手紙を握っていた。

 「おいわい、してよ」と彼女はぶつぶつと言った。「お酒飲んだことってなかったけど、とってもいい気持ち」

 「どうしたの、デイジー?」

 正直私は怖かった。そんな女の子見たことがなかったもん。

 「見てよ」デイジーはベッドに乗せてあるごみ箱をまさぐって、真珠のネックレスを取り上げた。「一階に持ってって、元々持ってた人に返して。皆に『デイジーは気が変わったの』って言って。ねえ、『デイジーは気が変わったの』って言って!」

 彼女は泣き出した――泣きまくってたよ。私は部屋の外に飛び出して、彼女のお母様の付添人を見つけた。部屋の鍵を閉じて、デイジーを水風呂に漬けた。彼女は手紙を手から離そうとしなかった。手紙を浴槽の中に入れちゃって、それでも握りしめていたものだから、ぐちょぐちょの玉になってしまった。それが雪のようにパラパラになってゆくのを見てやっとそれを石鹸皿に置かせてくれた。

 でも、彼女はもう何も言わなかった。気つけ薬(訳注:炭酸アンモニウム主剤。酔いを覚ますために用いられた)を嗅がせて、おでこには氷を載せて、とにかく元のドレスを着させた。半時間後、私たちが部屋から出たときには、真珠のネックレスはちゃんと元通り彼女の首に掛かっていた。一件落着。翌日の五時、彼女は身じろぎもせずにトム・ビュキャナンと結婚、南太平洋に三ヶ月の新婚旅行に出掛けた。

 二人が戻ってきたとき、私は二人をサンタ・バーバラ(訳注: カリフォルニア州にある街)で見かけた。あんなに自分の夫に夢中になっている女の子は見たことがないと思ったな。彼がほんの少し部屋を出ただけで、彼女は気忙(きぜわ)しく目をきょろきょろさせて、「トムはどこに行ったの?」って言ったものだよ。彼が部屋に戻って来るのが見えるまで、彼女はひどく落ち着かない顔をしていた。それから、砂浜に座って、何時間も彼に膝枕をしてあげることもあったよ。彼の瞼に指を這わせて、他の人には伺い知れないようなうっとりした表情を浮かべて彼を見つめていた。二人が一緒にいるのを見ていると、胸を打たれたものよ。――愉しくって、クツクツと笑えてきた。それが八月だった。私がサンタ・バーバラを発って一週間後、トムはヴェントゥラ通りでワゴンに衝突、彼の車の前輪の片方がもぎ取られてしまった。彼が一緒に乗せていた女の子までも新聞に載る羽目になった。というのも、彼女は腕を折ってしまったから。――彼女は、サンタ・バーバラ・ホテルで客室清掃の仕事をしていたのよ。

 翌年四月、デイジーは女の子を産んで、皆は一年間フランスに行った。ある春はカンヌで、後にはドーヴィルでお見掛けしたことがあったな。その後シカゴに戻ってきてそこに落ち着いた。ご存知のように、シカゴでもデイジーは人気だった。ご夫妻は、遊び人連中(皆が若くてお金持ちで羽目を外す人たちだった)と行動を共にしていたんだけど、デイジーの評判は完璧だった。ひょっとしたら彼女はお酒を飲まないからでしょうね。大酒飲みの中にあって飲まないというのは、すごい強みだよ。余計なことは言わないでいられるし、それに、時機を見計らって、自分だけのちょっと変わったことだってできる。皆は飲んでいるから目にも入らないし気にも留めないというわけね。ひょっとしたらデイジーは、浮気しようなんて思ったことがなかったかもしれないけどね。――でも、彼女の声にはどこか……。

 あのね、一月半ほど前ね、彼女は長年耳にしていなかった「ギャツビー」という名前を聞いたの。私があなたに訊ねたときよ。覚えている?「ウェスト・エッグに住むギャツビーを知ってますか」って。あなたがお家に帰った後で、デイジーが私の部屋に来て私を起こしたのよ。そして「ギャツビーって、ファースト・ネームは何ていうのよ」って言うのよ。私が彼の話をしたら――私は寝ぼけていたんだけど――すごく変な声で「それって、私が昔知ってた人だわ、きっと」って言ったの。このときになって初めて私の中で、このギャツビーが、彼女の白い車に乗っていた将校さんと繋がったのよ。

 

 

 ジョーダン・ベイカーがこの話を全て語り終えたときには、プラザ・ホテルを後にして三十分が経っていた。私たちは馬車に乗ってセントラル・パークを抜けているところだった。陽は既に、西の五十丁目から五十九丁目にある映画スターの高層マンションの陰に沈んでしまっていた。コオロギみたいに芝に集(つど)っていた女の子たちのはっきりした声が、暑い黄昏の中を昇っていった。

 

  俺はアラブの酋長

  お前の愛は俺の物

  夜にお前が眠っているとき

  お前の寝床に忍び寄る――

 

 「妙な偶然だね」と私は言った。

 「でも、全然偶然じゃなかったのよ」

 「どうして?」

 「ギャツビーがあの邸を買ったのは、デイジーがすぐ近くに、湾を越えて真向かいにいるからなのよ」

 それならば、あの六月の夜に彼が求めていたのは、星屑だけではなかったのだ。徒(いたずら)に華麗でしかなかった彼が、今では血の通った人間として私に迫ってきた。

 「彼が気にしているのはね」とジョーダンは続けた。「あなたが今度、午後にデイジーをご自宅にお招きして、そのとき自分も寄せてもらえないかな、っていうことなの」

 要求が慎ましやかなのに私は揺さぶられた。彼は五年も待って、邸を買って、そこに遠慮なく集(つど)う蛾に星の光を惜しげもなく注いできたのだ。――自分が、ある日の午後に、見知らぬ人の庭に「寄せてもらえ」るように。

 「彼がそんなささやかなことを頼む前に、僕はこんなことを全部知っておく必要があったのかな?」

 「彼は怖いのよ。あまりにも長く待っているもの。あなたが気分を悪くしたんじゃないかと心配していたでしょう。一皮剥けば、どこにでもいる、ただの『強がり』なのよ」

 何か釈然としないものがあった。

 「どうして君に頼まなかったんだろう」

 「彼は、デイジーに自分の邸を見てもらいたいのよ」と彼女は説明した。「そして、あなたのお家はお隣だというわけ」

 「そういうことか!」

 「彼は、パーティーをしていれば、いつかの夜にはデイジーがさまよい込んで来るって半分くらいは踏んでいたと思う」とジョーダンは続けた。「でも彼女が現れることはなかった。その後、彼はそれとなく人々に、デイジーを知っているかって尋ねるようになった。それで私が、彼が見つけた最初の人物というわけ。ほら、ギャツビーが召使いを通して私を呼びに来たでしょ、あの夜のことね。彼がそうするのにどれだけ入念に準備していたか、あのときお話できていたらよかったのだけど。もちろん私はその場で、ニューヨークで昼食をとることを提案した。――そしたら彼、ものすごく取り乱して、気が触れるんじゃないかと思った」

 「変なことはしたくない」と彼は言い張った。「ただ、お隣でお会いしたいだけなのです」

 「あなたがトムの特別な友達だって教えてあげたら、彼、計画はなかったことにしようとし始めた。トムのことはあまり知らないんだね。もっとも、デイジーの名前を目にできればってだけで何年もシカゴの新聞は読んでいるそうだけど」

 今では闇が降りていた。馬車が小さな橋の下をくぐり抜けるとき、私は片方の腕をジョーダンの黄金色の肩に絡めて引き寄せ、夕食に誘った。デイジーやギャツビーのことは、あっという間に頭から消え去ってしまった。今や私はただ、この清潔で硬質で限定的な人――世界に懐疑の目を向けながらも、私の腕がちょうど届くところでは潑溂(はつらつ)として背をもたせるこの人――のことだけを考えていた。あるフレーズが、ある種のクラクラするような興奮を伴って、私の耳の中で鳴り出した。「世に棲む人々は次のいずれかだ。追われる者、追う者、忙しい者、退屈している者」

 「そして、デイジーは人生で何かを得なくちゃいけない」とジョーダンは私に囁いた。

 「デイジーはギャツビーに会いたいのかな?」

 「デイジーには何も知らせない。ギャツビーはこのことを伏せておきたいのよ。あなたはただ、彼女をお茶に誘えばいいだけ」

 私たちは真っ黒な木々が壁になっている所を越え、五十九丁目の建物の正面を越えた。優美で柔らかな光の照らすブロックで、その光は公園まで伸びていた。ギャツビーやトム・ビュキャナンの場合とは違い、私には、魂を抜かれた顔で、壁上方の装飾だとか眩(まばゆ)いネオン燈の間をたゆたう女性はいない。だから私は傍の女性を抱き寄せ、両腕でひしと抱擁した。か弱く、蔑んだような口元が笑んだ。それで私はもう一度、もっと近くに抱き寄せた。今度は、顔に触れるほどに。