The Great Gatsby 翻訳

F. Scott Fitzgeraldの傑作 "The Great Gatsby"の翻訳です。

The Great Gatsby 第9章

Chapter IX

 それから二年が経った今、その日の日が暮れるまでの時間は、その日の夜は、そして翌日は、ただ、警察と写真師、そして新聞記者がギャツビー邸の表玄関を絶え間なく出入りする光景として憶えているだけである。正面の門扉にはロープが張られ、その傍で見張りをする警官が野次馬を追い払っていたが、小さな男の子たちはすぐに、私の家の庭から邸に入ることができるというのに気づいた。それで、プールの周りにはいつも男の子が何人か集まり、口をあんぐりと開けているのが見られた。その日の午後、堂々と振る舞う人があって――ひょっとしたら刑事だったのかもしれない――ウィルソンの遺体の上に屈み込み、これは「気狂い」の所業だという言い方をした。彼の声は偶然にも威厳を具えていたから、翌日の新聞報道は彼の語調をなぞることになった。
 そうした報道のほとんどは悪夢でしかなかった――おぞましく、詳らかで、煽情的で、そして事実に反していた。審問におけるミケイルスの証言によって、ウィルソンが妻に疑念を抱いていたことが白日の下に晒されたとき、私は、間もなく全貌が、際どい諷刺を込めて世間に供されるのではないかと思った。――しかし、キャサリンは、何か言えたかもしれないのに、口を噤んだままだった。彼女はまた、驚くべき芝居を打ってみせた。引き直された眉の下で検死官をきっと見据え、姉はギャツビーと会ったこともないし、夫と幸福に暮らしていた、したがって、彼女が不貞を働いたことは断じてないと神に誓って証言したのだ。キャサリンは自分をそのように思い込ませていた。姉への嫌疑そのものが耐えられないかのように、ハンカチに顔を埋(うず)めて泣いた。それで、ウィルソンは「悲しみで気が触れた」男ということにされてしまった。そこには、事件を最も単純な図式のままで片付けようという目論見(もくろみ)があって、実際、その線で事件は落着した。
 けれども、この部分は私からは遠く離れた、些末なことに思われた。気がついてみると私はギャツビーの側に立っていて、そしてひとりぼっちだった。私が電話で惨事の報をウェスト・エッグ村に伝えた瞬間から、彼についてのあらゆる憶測、そしてあらゆる実際的な質問が私に寄せられた。初めは、驚きもしたし、困惑もした。けれども、邸に安置され、動くことも呼吸することも話すこともないギャツビーを見ていると、私は刻一刻と責務を抱くようになってきた。他の誰も、関心を抱かなかったからだ――ここで私が「関心」と言うのは、烈しい情(じょう)のことで、人は誰しも死んだときには、他者からそれを寄せてもらう権利が(漠然とではあれ)あるはずだ。
 私たちが彼の遺体を見つけて半時間後に、私はデイジーに電話をした。本能に突き動かされるように、躊躇せずにだ。けれども彼女とトムはその日の午後の早い時間に出立(しゅったつ)してしまっていた。手荷物一式も携えてのことだった。
 「行き先の住所は残していきませんでしたか?」
 「いいえ」
 「いつ戻るかというのは言い残していったでしょう?」
 「いいえ」
 「どこにいるのか見当くらいはつくでしょう?どうすれば連絡をとれるでしょうか?」
 「存じ上げません。申し上げることもかないません」
 私は彼に誰かを呼んでやりたかった。彼が安置されている部屋に入って行って、こう言ってやりたかった。「君のために誰かを呼んであげるよ、ギャツビー。心配しないで。僕を信じてくれ。君のために誰かを呼んであげるよ――」
 マイア・ウルフシャイムの名は電話帳に載っていなかった。執事が、ブロードウェイにある彼の事務所の住所を教えてくれたので、私は電話局の番号案内係に問い合わせた。けれども番号が判明したときには五時を優に過ぎていて、誰も電話に出なかった。
 「もう一度かけてみてもらえませんか」
 「もう三回かけましたよ」
 「とても大切なことなんです」
 「お気の毒です。誰もいらっしゃらないようですね」
 私は応接間に戻り、ふと、こんなことを思った。職務のために突然来訪し、今では部屋を陣取っていた警察関係者や写真師、新聞記者らは、偶然の弔問客なのだ、と。けれども、彼らが遺体を覆う布を引き、平然とギャツビーの死顔を見ていると、私の頭の中では彼が抗議する声が響いた。
 「もうっ、オールド・スポート、誰かを連れて来てくれよ、私のために。頑張ってよ。独りでこんなのは、ちょっと無理だ」
 私に質問をし始める人が現れたので、席を外して二階に上がり、彼の机の、鍵がかかっていない引出しを素速く確認した――彼は、両親が死んだとはっきり口にしたことはなかった。けれども、手掛かりになる物は何もなかった――ただ、ダン・コウディの写真が――忘れられし暴力の記録が――私を壁から見下ろしているだけだった。
 翌朝私は、ウルフシャイムへの手紙を執事に預け、ニューヨークに遣(や)った。ギャツビーの御家族のことをお伺いしたい、貴君には直近の列車でいらしていただきたいとの旨をしたためた。それを書いたとき、そんな要請は余計なものに思われた。ウルフシャイムは新聞を目にしたら飛んでくるだろう、デイジーだって正午前には電報を寄越してくるだろう、私は そう確信していた。けれども、電報は来なかったし、ウィルフシャイム氏が弔問に来ることもなかった。警察関係者、写真師、そして新聞記者の数は膨らんだが、それ以外には誰も来なかった。執事がウルフシャイムの返事を持って帰って来たとき、私は、ギャツビーとの連帯を感じつつも、その他全ての人間に対し、敵愾心を、そして侮蔑に満ちた孤立の念を覚え始めた。


 ミスタ・キャラウェイ
 
 拝啓

 この度の訃報を受け、沈痛の極みでございます。未だに本当のことだとは信じられずにおります。あのような男の為した気狂いじみた行為を受け、私たち皆は考え込まずにはおられません。目下、極めて重要な事業に携わっておりまして、この事件に関係することがかないません。何かございましたら、後にエドガーに手紙を持たせてお知らせいたします。このような訃報を目の当たりにし、茫然自失しています。打ちのめされ、立ち上がれないような悲嘆に暮れています。

敬具

マイア・ウルフシャイム

 そうして、下には慌てて記したような追伸があった。

 葬儀等の件についてはお知らせ願いたく存じます。御家族のことは存じ上げません。
 

 午後に電話が鳴った。長距離電話の交換手が、シカゴからお電話ですと告げた。今度ばかりはデイジーだろうと思った。けれども、電話が繋がると、男の声が聞こえてきた。か細い、遠くから聞こえる声だった。
 「スレイグルだ」
 「はい?」その名前は聞いたことがなかった。
 「驚くべきニュースだぞ。俺の電報は読んだか?」
 「電報はまだ一通も来ておりません」
 「パークの奴が困ったことになってな」と彼は素速く言った。「あいつが銀行の窓口であの債券を売りさばこうとしたところを、警察がしょっぴいたんだよ。そのたった五分前に、債券番号が書かれた回状がニューヨークから届いていたようだ。参ったな。こんなつまらん町で、まさかの――」
 「もしもし!」私は息をつかずに電話口に向け、話を遮った。
 「いいですか――私はミスタ・ギャツビーではありません。ミスタ・ギャツビーは亡くなりました」
 受話器の向こうで長い沈黙があり、それから「あ!」という声が洩れたかと思うと、ガシャンという音がして通話が途切れた。


 ヘンリ・C・ギャツなる人物から電報が届いたのは、確か三日目だったと思う。発信地は、ミネソタ州のとある町だった。直ちに出発するから、到着まで葬儀は延期してほしいとの旨だけが書かれてあった。
 発信者はギャツビーの父親だった。厳粛な面持ちの老人で、まったく無力で、ひどく混乱しているように見受けられた。九月の暖かな日和であるというのに、安物の長コートを纏(まと)っていた。昂奮して、絶えず涙を零(こぼ)していた。鞄と傘を預かってやると、彼はまだらに生えた白い顎髭をひっきりなしに引っ張り始めたから、コートを脱がせるのに苦労した。今にも崩れ落ちそうだったので、私は彼を音楽室に案内して座らせ、その間に食事を取り寄せた。けれども、彼は食べようとしなかった。グラスを持つ手が震え、牛乳がこぼれた。
 「シカゴの新聞で読みました」と彼は言った。「事件の一部始終が書いてありました。それで、飛んで参りました」
 「ご連絡差し上げたかったのですが、連絡先が分かりませんでした」彼の両眼は何も見ていなかったが、部屋の中をずっと移ろっていた。
 「狂人の仕業です」と彼は言った。「気が狂っていたとしか思えません」
 「コーヒーを召し上がりませんか」と私は彼に促した。
 「いえ、何も欲しくありません。大丈夫ですよ、ミスタ・――」
 「キャラウェイです」
 「ああ、そうでした。私は大丈夫です。ジミーはどこにいますか?」
 私は彼を、遺体の安置されている応接間に案内し、一人にしてやった。小さな男の子が何人か、階段に集まって玄関ホールを覗き込んでいた。私は、今は亡くなった方のお父様がお見えだからと言った。子供たちは渋々その場を立ち去った。
 少ししてミスタ・ギャツが扉を開けて、部屋の外に出てきた。口が少し開いていて、顔は少し紅潮していた。目に涙が不意にぽつ、ぽつと浮かんだかと思うと、きれぎれに零れた。彼は歳を重ねていたから、死というものに虚を衝かれ、慄然とさせられることはなかった。今や彼は初めて周りを見遣り、玄関ホールや、その周りに広がる、そしてさらの別の広間へと通じる大広間の、高い天井や壮麗な装飾を目にした。彼の悲しみは、畏怖の念を含んだ誇りと入り混じった。私は彼に手を貸し、二階の寝室に案内した。そこで彼がコートとヴェストを脱ぐ間、お見えになるまで葬儀の手筈はすべて遅らせていましたとの旨を伝えた。
 「どのような形式をお望みか分かりかねましたので、ミスタ・ギャツビー」
 「ギャツが私の名前です」
 「――ミスタ・ギャツ。ご遺体を西部に送るのをご希望されるかもしれないと思いました」
 彼は首を振った。
 「ジミーは常々東部の方を好んでおりました。身を立てたのも東部においてのことです。あなたは、息子の友達だったのですか、ミスタ・――」
 「親友でした」
 「あいつの前途は洋々としておりました。まだ若造でしたが、ここは切れた」
 彼は感無量といった様子で頭を触った。私は頷いた。
 「もしあいつが生きとったら、偉大な人物になっておったでしょう。ジェイムズ・J・ヒル(訳注:アメリカの鉄道王。1838-1916)のような。この国を興すのに一役買っておったでしょう」
 「その通りです」と私は言ったが、落ち着かなかった。
 彼は刺繍の入ったベッドカバーをまさぐり、それを取り外そうとした。そうしているうちに身をこわばらせて横になり、すぐに眠ってしまった。
 その夜、怯えきった様子の人物が電話をかけてきた。彼は、自分が名乗る前に、私に名乗るように迫った。
 「ミスタ・キャラウェイと申します」と私は言った。
 「ああ!」と彼は言った。安堵したようだった。「クリプスプリンガーです」
 私も安堵した。どうやらこれで、ギャツビーの墓前にはもうひとり来ると請け合えそうだ。新聞に葬儀の告知を載せて見物人を集めたくはなかったから、私は個人的に幾人かに電話をかけていた。電話する相手を見つけるのも一苦労だった。
 「葬儀は明日です」と私は言った。「三時に、ここギャツビー邸にて執り行います。他にいらっしゃれそうな方にはお声掛けいただけるとありがたいのですが」
 「そうですか、そうしましょう」と彼は言った。急(せ)いているようだった。「他に来そうな人は心当たりがないけれど、もしいれば」
 彼の声色を聞いて、私は疑念を抱いた。
 「もちろんあなたはいらっしゃるんでしょうね」
 「ええ、行きたいのはやまやまなんですが。僕の方の用件は――」
 「待ってください」と私は口を挟んだ。「いらっしゃるとおっしゃればいいのに」
 「あの、実はですね、私、今、他の何人かとグリニッチ(訳注:コネチカット州にある高級住宅地)におりまして。明日は、皆の手前上、抜けるのは難しそうです。実は、ピクニックのような催しがありまして。もちろん、何とか抜けられればいいと思っていますよ」
 私は堪(こら)えきれず、「へッ!」と声を上げた。相手は私の声が聞こえたに違いない。きまりが悪そうに、さらにこう続けたからだ。
 「用件はですね、忘れてきた靴のことなんです。執事に言って送ってもらえるとありがたいんですが。テニス・シューズでして、それがないと困っちゃいましてね。滞在先の宛先なんですけど、B. F.――」
 名前の続きは聞いていない。私が受話器を置いたからだ。
 その電話の後、私はギャツビーにある種の情けなさを感じた――私が電話した別の紳士は、ギャツビーは「自業自得だ」と仄(ほの)めかした。けれども、非は私にある。彼は、ギャツビーに供された酒の力を借りて、最も辛辣にギャツビーを嘲(あざけ)っていた者のうちのひとりだったからだ。電話をするべきではなかったのだ。
 葬儀の朝、私はニューヨークまでマイア・ウルフシャイムに会いに行った。そうしない限り、彼には連絡がつけられないように思われたからだ。エレヴェーター・ボーイの助言に従って、私は事務所の扉を押し開けた。そこには『鉤十字持株会社』と書かれてあった。最初は、中には誰もいないかに思われた。けれども、返事も聞こえないのに、私が何度か「こんにちは!」と声を上げていると、仕切りの後ろで口論が始まった。そして今や、美しいユダヤ人女性が室内の扉のところに現れた。彼女は、敵意に満ちた真っ黒な瞳で私を点検した。
 「誰もいませんよ」と彼女は言った。「ミスタ・ウルフシャイムはシカゴに行きましたから」
 前半は明らかに事実ではなかった。誰かが中で、音の外れた『ロザリー』を口笛で吹き始めていたからだ。
 「ミスタ・キャラウェイがお会いしたがっているとお伝えいただけませんか」
 「まさかシカゴから連れ戻せとでも?」
 この瞬間、紛う方なきウルフシャイムの声が、扉の反対側から「ステラ!」と言うのが響いた。
 「机でお名前をご記入ください」と彼女は手短に言った。「戻りましたら、お渡ししますから」
 「でも、ここにいらっしゃるのは分かってるのに」
 彼女は私の方に一歩詰め寄り、憤然として、腰にやった両手を上下させ始めた。
 「あんたたち若い男は、いつでも構わず押しかけてくる」と彼女は叱責した。「うんざりしてるのよ。私があの人は今シカゴだと言ったら、シカゴにいるのよ」
 私はギャツビーの名を出した。
 「え、え!」彼女はもう一度私を見た。「今しばらく――お名前は何とおっしゃいましたっけ?」
 彼女は姿を消した。少しして、今や、マイア・ウルフシャイムが厳かな面持ちで立っていた。彼は両手を差し出し、私を事務所へ通した。恭(うやうや)しい声色で、今は自分たちにとっても辛い時であると話し、葉巻を勧めてきた。
 「初めてあいつに会ったときのことが思い出されるよ」と彼は言った。「除隊したばかりの若い少佐でな、軍服は、戦争でもらった勲章でいっぱいだった。すっからかんで普通の服が買えなくて、ずっと軍服を着なきゃならない有様だった。初めて会ったのは、あいつがワインブレナーのビリヤード場に入ってきたときだった。四十三丁目にあるんだけどな。それであいつ、『仕事をください』と言ってきたんだ。二日間何も食べていないってことでな、『昼食をご馳走してやろう』と俺は言ってやったよ。あいつ、半時間で四ドル分以上も食った」
 「仕事をあてがってやったんですか?」と私は尋ねた。
 「仕事をあてがう!いや、俺があいつを『作った』んだよ」
 「ああ」
 「俺があいつをいちから育て上げたんだ。どん底から育て上げてやったんだよ。あいつが素晴らしく格好良くて紳士然とした若者だってのはすぐに分かった。オッグズフォードに行っておったと話してきたときには、俺は『この男は使える』と思ったよ。在郷軍人会に登録させてな、高い地位につけた。すぐに、オルバニーにいた俺の客のために仕事をしてくれた。俺たちは、万事そんなふうに親密だったよ」――彼は球根のように膨らんだ指を二本立てた――「いつも一緒だった」
 私は、二人が共謀してやったことには、1919年のワールド・シリーズで八百長を仕掛けたというのも含まれていただろうかと訝った。
 「ギャツビーは亡くなりました」と少しして私は言った。「一番の友達だったとのことですから、きっと午後の葬儀にはいらっしゃるおつもりですね」
 「伺いたいのだが」
 「なら、いらっしゃったらいい」
 彼の鼻孔の中で鼻毛が微かに震えた。彼は首を振った。目には涙が浮かんでいた。
 「行けないんだよ――この件に巻き込まれるわけにはいかない」と彼は言った。
 「巻き込まれるも何も、みんな終わったんですよ」
 「人が殺されたってことになると、俺はどういう形であっても関わり合いになりたくないんだよ。そういうのからは距離を置くことにしている。若いときは違ったよ――友達が死んだら、そいつがどういう死に方をしてようと、最後まで傍についておいてやった。感傷的だって思うかもしれんけど、最後の最後までな」
 彼は、彼なりの理由で葬儀には出席しないと決めているのが分かった。それで私は立ち上がった。
 「あんたは大学出か?」と彼は唐突に私に尋ねた。
 しばし私は、彼は「ゴネグション」の話をするのかと思った。けれども彼はただ頷いて私の手を握った。
 「友情ってのは、相手が生きてるうちに示しておきたいもんだな。死んでからじゃなく」と彼は言った。「相手が死んだ後では、何もかもそっとしておくのが俺の信条だ」
 事務所を出たときには空は暗くなっていた。小糠雨(こぬかあめ)の降る中、私はウェスト・エッグまで戻った。着替えをして隣の邸に行くと、ミスタ・ギャツは昂奮した様子で玄関ホールの中を歩き回っていた。息子への、そして息子の所有する物への誇りはどんどん膨らんでおり、今では彼は私に見せる物があった。
 「ジミーがこの写真を送ってくれたのです」と彼は言って、震える指で写真を取り出した。「ご覧なさい」
 邸の写真だった。角のところは傷んでいたし、多くの人が手に取ったらしく、薄汚れていた。彼は熱心に、あらゆる細部を私に示してくれた。「ご覧なさい」と彼は言って、私が感服しているのを確かめようと私の目を見入った。頻繁にその写真を人に見せていたようで、邸そのものよりも写真の方が、彼にとっての現実になっていたように思われる。
 「ジミーがこれを私に送ってくれたのです。本当にいい写真だと思います。よく撮れている」
 「そうですよね。最近は彼とお会いしましたか?」
 「二年前に会いに来てくれて、今私が住んでいる家を買ってくれたんですよ。もちろんあの子が家を飛び出してからは縁が切れていました。でも今ではちゃんと訳が分かるんです。目の前には未来が輝いていたんですから。成功してからは、私には優しくしてくれたものです」彼は写真を財布にしまうのを渋っているようだった。しばらくはずるずると私の目の前に写真を掲げていた。そのようにして財布をしまうと、ポケットから『ホパロング・キャシディ』と題された、ぼろぼろになった本を取り出した。
 「ご覧なさい。これは、あの子が小さかった頃に持っていた本です。ご覧になれば分かりますよ」
 彼は裏表紙を開き、私が見られるように向きを変えてくれた。巻末の白紙のページには活字体で「時間割」と書かれてあった。日付は1906年9月12日で、詳細は以下のようであった。

    

  • 起床 午前六時
  • ダンベル体操と壁登り 午前六時十五分 ー 六時三十分
  • 電気などの勉強 午前七時十五分 ー 八時十五分
  • 仕事 午前八時半 ー 午後四時半
  • 野球・その他スポーツ 午後四時半 ー 五時
  • 弁論の練習、風格を身につける 午後五時 ー 六時
  • 必要な発明を勉強 午後七時 ー 九時

  日々の決意

  • 『シャフターズ』や『……(判読できない)』で時間を無駄にしない
  • 煙草はもう吸わない。噛み煙草もしない。
  • 二日に一度は風呂に入る
  • 一週間に一冊、ためになる本か雑誌を読む
  • 週に五ドル三ドル貯金
  • 両親にもっと良くする


 「たまたまこの本を見つけたんです」と老人は言った。「これをご覧になれば、お分かりになるでしょう?」
 「ええ、よく分かります」
 「ジミーは人に先んじると決めていました。こういうのだとか、他にも、とにかく常に何か決意を持っていました。あの子が、自分の人格を高めるってことについては一家言(いっかげん)を持っていたことにはお気づきでしょう?そういうことに関しては、とにかくいつも素晴らしかった。一度など、私の食事の仕方が豚みたいだと言ったことがありましてね、ぶん殴ってやりましたよ」
 彼は本を閉じるのを渋っていた。それぞれの項目を読み上げ、私に熱い視線を送った。彼は、私がその時間割と決意表明を、私自身のために書き写すのを期待していたのではないだろうか。
 三時少し前に、ルター派の牧師がフラッシングからやって来た。私は、他には車は来ないだろうかと窓外を見遣り始めた。ギャツビーの父親も同じようにした。三時が過ぎ、召使いが入って来、玄関ホールに立って葬儀が始まるのを待ち構えた。ギャツビーの父親の目は落ち着きなく瞬(しばた)き始めた。彼は不安そうに、落ち着かない様子で雨の話をした。牧師が腕時計を何度か確認した。それで私は彼を部屋の隅に連れて行って、あと三十分だけ待って欲しいと頼んだ。けれども、それでもどうにもならなかった。もう、誰も来ることはなかったからだ。


 五時頃、葬列(車が三台だけだった)は墓地に着いた。しっぽりとした霧雨の中、車は門扉の前で停まった。先頭は霊柩車で、恐ろしいほどに真っ黒で、恐しいほどに濡れていた。その次にミスタ・ギャツと牧師と私が乗ったリムジンが続いた。しばらくして、召使いが四人か五人とウェスト・エッグ村からやって来た郵便局員を乗せた、ギャツビーのステーション・ワゴンがやって来た。どの車輛もびしょびしょに濡れていた。私たちが門扉を通って墓地に入って行くと、別の車が停まり、誰かが、ぐちょぐちょに濡れた地面をぱちゃぱちゃ音を立てて歩み寄ってくるのが聞こえた。私は周りを見た。三ヶ月前にギャツビー邸の書斎で蔵書に驚嘆していた、あの梟眼鏡の男だった。
 それ以来彼を見たことはなかった。どのようにして葬儀のことを知ったのかは分からない。私は彼の名前すら知らないのだから。雨は彼の分厚い眼鏡を濡らした。彼は眼鏡を外してそれを拭い、墓碑に掛けられた帆布が引かれるのを見ていた。
 それから私は、ギャツビーのことを考えようとした。けれども、彼はすでにあまりに遠くに行ってしまっていた。私に思い出せたのは、デイジーが弔電も花一本も寄越さなかったということだけだった。もっとも、それで憤りを覚えたりはしなかった。誰かが「神に護らるるは、雨に打たるる死者らなり」と呟くのが微かに聞こえた。それから、梟眼鏡の男が厳かな声で「まことに」と言った。
 私たちはばらばらになって、雨の中を急ぎ足で車に戻った。梟眼鏡が門扉のところで私に話しかけてきた。
 「葬儀には伺えなかった」と彼は言った。
 「どうせ誰も来ませんでしたよ」
 「まさか!」と彼は唖然として言った。「何たること!パーティーには何百人も来ていたのに」
 彼は眼鏡を外し、再びそれを拭った。外側を拭き、内側を拭いた。
 「まったく、情けない」と彼は言った。


 私の最も鮮やかな記憶の一つは、プレップ・スクール(訳注:大学進学を目標とする学校)から、そして後には大学から、クリスマス休暇に西部に帰郷するときのことだ。十二月のある夕方の六時、シカゴより遠くへ行く人らは、シカゴに実家があってすでに休暇への期待に胸を膨らませている友達数人と、古く仄暗いユニオン・ステーションに集(つど)い、気ぜわしく「またね」と挨拶をしたものだった。どこかの女学校から帰郷する女の子らの毛皮のコートや、息を真っ白く凍らせながらのお喋り、旧友を見つけると皆で頭越しに手を振ったことが思い出される。招待状を突き合わせて、「オードウェイのとこには行く?ハーシーのとこは?シュルツのとこは?」と確認し合ったものだ。皆、手袋をはめた手には、細長い緑の切符をぎゅっと握りしめていた。シカゴ・ミルウォーキー&セントポール鉄道の、霧がかかって暗い黄色の列車は、駅舎の門の傍のプラットフォームにあって、クリスマスそのものみたいに楽しげに見えた。
 列車が冬の闇の中に滑り出すと、本物の雪が――私たちの雪が――傍(かたわ)らに開(ひら)けた。窓は雪で輝き始めた。小さなウィスコンシン駅の仄暗い灯りが遠のき、突然、空気は、鋭く野性的な冷気を帯びた。冷ややかなデッキを通って夕食から戻って来るとき、私たちはそれを深く吸い込んだ。それは奇妙な一時間ほどの時間で、私たちは、自分たちがここの人間なのだという名状しがたい自覚に囚われていた。そうして私たちは再び、この空気の中に跡形もなく溶け込んでしまうのだった。
 それが、私にとっての中西部だ――小麦畑や大草原、失われたスウェーデン人の町などではなく、若かりし頃の心躍る、帰省の列車だ。街路の灯りであり、霜の降りる闇に鳴る橇(そり)の鈴音であり、灯りが溢れる窓から雪面に投げかけられる、柊(ヒイラギ)の輪の影だ。私はその一部である。あの長い冬の感じを思うと些(いささ)か厳粛な気持ちになるし、キャラウェイ邸で育ったことには些かの誇らしさを覚える。(私の育った町では、家屋は今も(何十年も)、一家の名前で呼ばれている。)今では私には、これまで語ってきたことは、畢竟(ひっきょう)西部の話だったのだということが分かる――トムもギャツビーも、デイジーもジョーダンも私も皆、西部出身だ。そしてひょっとしたら私たちは、何かを共通して欠いていたのかもしれない。そのせいで、東部での生活には僅かながら、合わなかったのかもしれない。
 私が東部での暮らしに一番夢中になっていたときでさえ、そして、私が、オハイオ川を越えた、退屈でだだっ広い、膨れ上がった町々――子供と老人を除いて、誰もがひっきりなしに質問攻めに遭うようなところだ――よりも東部のほうが断然良いと一番ひしひしと感じていたときでさえ、東部は私にとって、どこか歪んでいるように思われた。とりわけウェスト・エッグは今でも、私の途方もない夢の中で異彩を放っている。私はそれをエル・グレコが夜を描いた作品に見出すことができる。昔ながらの、けれども同時におぞましくもある家々が、不気味に暗い垂れ込めた空と、光沢を欠いた月の下に潜んでいる。前景では、厳かな顔つきをし、ドレス・スーツを着た四人の男が、担架を持って歩道を歩いている。担架の上には、白いイヴニングドレスを着た、酔った女が横たわっている。担架の脇にだらりと垂らした片手には、宝石が冷たく輝いている。男たちは深刻そうに、ある一軒の家に立ち寄る――それは、間違った家だ。けれども誰も、女の名前を知らない。誰もそんなことを気にしない。
 ギャツビーの死後、私にとって東部は、そんなふうな呪われた場所となった。私の目がどれほど修正を施そうとしても、歪んだままだった。それで、パリパリに乾いた落ち葉を焼く青い煙が宙に昇り、張った紐に掛けられた濡れた洗濯物を風が撫で、固く凍らせてしまう季節に、私は故郷に帰ることに決めた。
 発つ前にすべきことがあった。ひょっとしたら手付かずにしておいた方が良かったかもしれない、扱いにくく不愉快なことだ。しかし私は物事をきちんとしておきたかったし、親切で無頓着な海が、私が残したものを洗い流してくれるのを当てにしたくはなかった。私はジョーダン・ベイカーに会って、私たち二人に起こったこと、あの後で私に起こったこと、その他諸々について話をした。彼女は大きな椅子に身を横たえ、身じろぎもせずに私の話を聴いていた。
 彼女はゴルフ用の服を着ていた。上手に描かれたイラストレーションみたいだと思ったことを憶えている。顎は少し気取って上げられ、髪は色づいた秋の葉の色で、顔は、膝に置かれた指出し手袋と同じ褐色だった。私が話し終えると、彼女は特に意見を述べることもなく、自分は別の男と婚約したのだと告げた。私はそんなはずはないと思った。もっとも、彼女には、首を縦に振るだけで結婚できそうな男が数人はいたのだが。私は驚いたふりをした。束の間、自分は間違ったことをしているだろうかと思った。そして、もう一度素速く全体を考え合わせてみてから、さよならを言うために立ち上がった。
 「でもね、あなたが私を振ったんだよ」とジョーダンは唐突に言った。「あなたが電話で私を振った。今はもう、あなたのことはどうでもいいけど、でもああいうことって私にはなかった。しばらくはちょっとくらくらしたよ」
 私たちは握手をした。
 「そうだ、覚えてる?」と彼女は言い添えた。「車の運転について昔話したこと」
 「いや、どうだろう」
 「車の運転が下手な人が無事でいられてるのは、まだ別の車の運転が下手な人に出会ってないからだって言ったでしょう?私、車の運転が下手な人に出会っちゃったんだね。あんな間違った思い込みをするなんて、私も注意が足りなかったよ。あなたは、正直で真っ直ぐな人だって思ってた。それをこっそり誇りにしてるんだろうとも思ってた」
 「僕はもう三十歳だ」と私は言った。「自分に嘘をついて、そんなことを名誉に思うには、五歳ほど歳を取りすぎた」
 彼女は何も言わなかった。苛立ちを覚えたが、彼女を好きだという気持ちは半分ほどは残っていた。そして、ひどく気の毒に思いながら、私はその場を後にした。


 十月の終わりのある日の午後、私はトム・ビュキャナンと会った。彼は五番街で私の前を歩いていた。警戒を怠らず、ずんずんと歩んでいた。両手は、まるで邪魔者はいつでも弾き飛ばすとでもいうように、身体から少し離れ、顔は、落ち着きのない目の動きと辻褄を合わせるように、鋭くここかしこに向けられていた。彼に追い付くのを避けようと歩みを緩めた矢先、彼は歩みを止め、渋い顔持ちをして宝飾店の窓を覗き込んだ。途端に彼は窓に映った私を見つけ、こちらに歩み寄って来、手を差し伸べた。
 「何だ、ニック?握手をするのも嫌か?」
 「ああ。僕が君のことをどう思ってるか知ってるだろう」
 「ニック、お前は阿呆か」と彼は素速く言った。「ど阿呆かよ。何が気に入らんのか訳が分からん」
 「トム」と私は訊いた。「あの日の午後、ウィルソンに何を言った?」
 彼は一言もなく私を見つめた。そして、あの消えた数時間のことで私が推測していたことは正しかったのだと分かった。私は立ち去ろうとしたが、彼は一歩前に出て、私の腕を掴んだ。
 「本当のことを言っただけだ」と彼は言った。「俺たちが出て行こうとするところに、あいつが玄関にやって来てな、留守にしていると言伝(ことづて)たら、無理やり二階に上がって来ようとしたんだよ。もし、あの車が誰の物か言わなかったら、俺は殺されてた。それくらいに頭に血が上っていたんだよ、あいつは。家にいる間はずっと、手をポケットに突っ込んで、ピストルを持っていた――」そこで彼は挑発するように話を止めた。「本当のことを言って何が悪い?それから、あの男については、自業自得だ。デイジーもそうだし、お前も騙されていたんだよ。それにしてもあいつはすごいな。犬ころでも轢いたみたいにマートルを轢いておいて、車を停めもしなかった」
 私が言えることは何もなかった。そうじゃないという事実は、口が裂けても言えなかったのだから。
 「それから、お前、俺だって苦しかったことが分かってないだろ。なあ、マートルのアパートメントを引き払いに行って、食器棚に犬のビスケットの箱があるのを見て、それで俺は、座り込んで赤ん坊みたいに泣いたよ。ひどかった、全く――」
  私は彼を許すことができなかったし、好きにもなれなかった。ただ、彼の行為は、彼自身にとっては完全に正当化されているのだということは分かった。全く配慮が欠けていた。そして混乱を極めてもいた。トムとデイジーは配慮を欠いた人間だった。――二人は、物事や人々を完膚なきまでに破砕しておいて、そうして、自らの金へと、あるいは、恐るべき配慮のなさへと、あるいは(たとえそれが何であれ)二人を繋ぎ留めておくものへと身を引いた。そして、別の人々に、自分たちの尻拭いをさせた……。
 私は彼と握手した。そうしないことが愚かしく思えたのだ。というのも、私は突然、ほんの子供の相手をしてやっているような気がしたからだ。それから彼は宝飾店の中に入って行った。真珠のネックレス――あるいは単に一組のカフス・ボタンかもしれないが――を買いに行ったのだろう。これで永遠に、私のような田舎者の潔癖とは無縁でいられるわけだ。


 私が発ったとき、ギャツビーの邸には依然誰もいなかった――芝が私の背丈ほどに伸びていた。村には、ギャツビー邸の正面の門扉を通過するときには、必ずそこでしばらく車を停め、邸内を指差さずには承知しないタクシー運転手がいた。ひょっとしたら、事故の夜にデイジーとギャツビーをイースト・エッグまで乗せていったのは彼なのかもしれない。ひょっとしたら、その運転手が話を全部拵(こしら)えたのかもしれない。私は彼の話を聞きたくなかったから、列車から降りるときには彼を避けるようにした。
 土曜日の夜はニューヨークで過ごすようにしていた。煌々とした、目くるめくような彼のパーティーの余韻は今も醒めやらず、彼の庭園からは、音楽と笑い声が、微かに、けれども絶えず聞こえてきたからだ。彼の車回しからは、車が行き来するのも聞こえた。ある夜、そこに本物の車が乗り付けるのが聞こえた。正面玄関の階段前で車のライトが停まったのが見えた。しかし私は詮索しなかった。おそらく、地の果てにでも行っていた最後の客で、パーティーが終わったことを知らなかったのだろう。
  最後の夜は、旅行鞄を梱包し、車を食料雑貨店に売り払うと、出掛けて行って、道半ばで夢を挫かれた巨大な邸を見遣った。白い石段には、どこかの男の子が煉瓦片で書き殴った卑猥な語が月に洗われてくっきりと浮かび上がっていた。私は靴底でそれをごしごし擦(こす)って消した。そうして砂浜までのんびり歩き、砂の上に大の字になった。
 海沿いの大きな別荘のほとんどは今では閉まっていて、『サウンド(海峡)』を渡る一隻のフェリーが仄かに光って動いてゆくのを除いては、辺りに灯はほぼなかった。そうして月が高く昇るにつれ、取るに足りない家々は夜の闇の中に溶けてしまい、かつてオランダの航海士の眼前で花開いたかつてのこの島――新世界と呼ばれた、瑞々しい緑の乳房――が目に浮かんできた。今ではもうなくなった樹々――ギャツビーの邸が建つ前にはそこにあった樹々――は、かつてはひそやかに囁き、人類の最後にして最大の夢に阿(おもね)っていたのだ。というのも、この大陸を前にして、人は束の間うっとりとして息を呑んだに違いないからだ。そして、理解の及ばない、求めてもいなかった審美的瞑想の中に放り込まれたに違いないからだ。歴史において人が、驚異に打ち震えられるという資質を倦(う)ませぬ存在と相対(あいたい)したのはこれが最後であった。
 そうやってそこに座り、旧き知られざる世界のことを鬱々と考えながら、ギャツビーが初めてデイジーの邸の桟橋の端に緑の灯を認めたとき、彼の胸を衝(つ)いたはずの驚きに想いを馳せた。この青い芝までの道程(みちのり)は長かった。夢はもうすぐそこにあるから、まさか掴みそこねることはあるまい――彼はそう思っただろう。けれども彼には、もはや夢は後方に退いてしまったことが分からなかった。街より向こうの、巨大な靄(もや)に包まれたどこか後方に――合衆国の暗い広野が夜の下で絶えず拡がりゆく場所へと――退いてしまったことが。
 ギャツビーは緑の灯を信じていた。年を経るほどに私たちの眼前で退行する、「悦びの果ての」未来を。あのとき私たちはそれを掴み損ねた。でも大丈夫――明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと遠くに伸ばそう……。そして、いつか晴れた朝に――
 だから私たちは漕ぎ続けるのだ。流れに逆らって進む舟のように、絶えず過去へと押し流されながら。

amzn.asia

The Great Gatsby 第8章

Chapter VIII

私は一晩中眠れなかった。『サウンド(海峡)』では絶えることなく霧笛が呻っていた。おぞましい現実と凄惨な恐ろしい夢の間で私は落ち着かなく寝返りをうっていた。夜明け近くに、タクシーがギャツビー邸の車回しを進むのが聞こえ、私は飛び起きて着替えを始めた――ギャツビーに伝えるべきことがある、警告すべきことがあると思った。朝になってからでは遅すぎる。
 芝を横切ると、邸の正面玄関はまだ開いているのが見えた。彼は玄関ホールでテーブルに身をもたせかけていた。悲しみに打ちひしがれていたのか、あるいはひどく眠かったのか。
 「何も起こらなかったよ」と彼は弱々しく言った。「見張っていると、四時頃になってデイジーが窓際に姿を見せた。しばらくそこに立っていたんだけど、それから灯りを消した」
 その夜ほど彼の邸が巨大に感じられたことはない。私たちは煙草を求めて大きな部屋をいくつも探し回った。大天幕のようなカーテンを押し開け、電燈のスウィッチを探して、真っ暗な壁を手探りでどこまでも辿った――一度など、幽霊のように現れたピアノの鍵盤に出くわして、ばしゃんと派手な音を鳴らしてしまった。あらゆるところに説明できないほどの量の埃が積もっていたし、部屋は、何日も換気されていないような、むっとした匂いがした。私は、見慣れないテーブルに煙草ケースを見つけた。中には古くなって乾燥した煙草が二本入っていた。私たちは応接間のフランス窓を開け放ち、腰を下ろして、闇に向けて煙草を吸った。
 「出て行った方がいい」と私は言った。「警察は、ほぼ間違いなく君の車を見つける」
 「『今すぐ』出て行った方がいいということかな、オールド・スポート?」
 「一週間ほどアトランティック・シティに行くんだ。それか、モントリオールとか」
 彼は一顧だにしなかった。デイジーが次にどう出るか分かるまでは、彼女の元を離れることなどできなかった。彼は最後の望みにしがみついていたし、そこから彼を引き剥がすのには、私は耐えられそうになかった。
 彼が、ダン・コウディと過ごした若かりし日の奇妙な話を私に話してくれたのはこの夜だった――話してくれたのは、「ジェイ・ギャツビー」なる仮構がトムの激しい敵意に遭って、ガラスのように粉々に砕けてしまったからだ。こうして、長きに渡って秘密だった、微に入り細を穿った大芝居がその全貌を現した。蓋(けだ)し、このとき彼は何を訊いても臆せず認めていただろう。けれども彼が話したがったのは、デイジーのことだった。
 彼女は、彼が初めて知った「上流階級の」女の子だった。彼は詳らかに語ることはしなかったけれど、とにかく、いろいろな役割を演じることによって、彼はそうした階層の人間と接触するようになっていた。しかし、間には常に、目には見えない有刺鉄線のような障壁があって、両者を隔てていた。彼は、彼女にたまらなく魅了された。初めはキャンプ・テイラーから来た士官らとともに、次には一人で彼女の家に行った。驚くべき体験だった――彼はそれまで、そんなにも美しい家を見たことがなかった。けれども、息が詰まるほどに強烈な印象を与えたのは、そこに住まうのがデイジーであるという事実だった――それは、彼女にとっては、彼が基地で野営していたのと同じくらいに当たり前のことだったのだが。家には、熟れた果実(かじつ)のような秘密が潜んでいた。上階には、ここにあるのよりももっと美しく涼しい寝室があるという気がしたし、廊下では、陽気でキラキラした営みがなされている気がした。愛の予感もした。黴臭くなってラヴェンダーを施したような愛ではなく、瑞々しく呼吸する愛の予感だった。今年出たばかりのピカピカの自動車、あるいは、ほとんど萎れることがない花々が咲き乱れるパーティーを彷彿とさせる愛の予感だった。多くの男がすでにデイジーを愛していたということも、ギャツビーの心を掻き立てた――彼にとっては、その事実は彼女の価値を高めるものであった。家中に彼らの気配が感じられた。そのせいで、今でも打ち震える熱情がいたるところで濃淡の色をなし、反響しているような感じがした。
 けれども、彼がデイジーの家にいるなど、運命の悪戯でしかないのは彼も心得ていた。ジェイ・ギャツビーとしての将来がどれほど輝かしいものになるとしても、目下彼は、過去を持たない一文無しの青年に過ぎなかった。確かに軍服は、彼の境遇を魔法のマントのように隠してくれたが、そんなのはいつ纏(まと)えなくなってもおかしくなかった。だから彼は、自分の時間を最大限に活かした。手に入れられるものは貪欲に、たとえ汚い手段を使っても掌中に収めた――そして遂に、十月のある静謐な夜、デイジーと関係を持った。彼は実際、彼女の手に触れる権利すらなかったのだが、そうだったからこそ、彼は彼女と関係を持ったのである。
 彼は自分を軽蔑してもおかしくはなかった。というのは、確かに彼は、自分を偽って彼女と関係を持ったからだ。何も私は、彼がありもしない巨万の富の力をちらつかせたと言うのではない。しかし彼は、作意を持ってデイジーに安心感を与えていた。相手はおよそ自分と同じ階級の出身だろう――だから自分を悠々と養うことができるだろう、そう彼女は信じていたのに、彼はそれをそのままにしておいた。実際は、彼にはそんな力などなかった――支えとなる富裕な家族もなかった。それに、無情な政府が気まぐれを起こせば、世界中のどこにでも吹き飛ばされる身分であった。
 けれども彼は、自分を軽蔑することはなかった。そして、事態は思いもしなかった展開を見せた。おそらくということだが、当初は彼は、手に入れられるものを手にしたら、どこかに行ってしまう心づもりでいた――しかし今では、気がついてみると、聖杯の跡を辿ることに没入していた。デイジーが並外れた存在だということは知っていた。けれども、「上流階級の」女の子が一体どれほど並外れた存在になれるのか、彼は理解していなかった。彼女は富める家の中に、満ち足りた暮らしの中に消えてしまった。そしてギャツビーには――何も残らなかった。自分はすでに彼女と結婚していると感じていた。問題はそこだった。
 二日後に二人が再会したとき、胸が締め付けられる思いをしていたのは、そして、どういうわけか裏切られた気でいたのはギャツビーの方だった。彼女の家の玄関では、金のかかった品物が夜空の星屑のように煌めいていた。彼女が彼の方を見つめ、彼は、彼を魅了してやまない素敵な唇に口づけをした。それに合わせて、二人が腰掛けていた籐椅子がおしゃれな音を立てて軋んだ。彼女は風邪を引いていて、いつになく嗄れた声がいつにも増して愛おしかった。ギャツビーは、富が幽閉して手付かずにしてあるこの若さと神秘に、そして、あまたの衣服の真新しさに、さらには、貧しい者たちの血みどろの争いの遥か彼方で、安寧に、そして誇り高くあって、銀のような輝きを放っているデイジーに、痛々しいほどに感じ入っていた。

 
 「彼女のことを愛していると気がついてどれほど驚いたか、言葉では説明できないよ、オールド・スポート。しばらくは、いっそ振ってくれたらいいのにとも思った。でも、そんなことはなかった。デイジーも、私のことを愛してくれていたから。自分の知らないことを知っているからと言って、私が物を知った人間だと思いこんでいた……。要するに、私は、元々抱いていた野心など置き去りにして、刻々と愛に溺れていった。そして、突然、どうでもよくなった。これからの計画をデイジーに話しているときが何よりも楽しかった。それなのに、計画を実際に行動に移す意味などあるだろうか?」海外出征をする前日の午後、彼はデイジーと椅子に腰掛け、何も言わずに長いこと彼女を両腕で抱いていた。寒い秋の日で、部屋の暖炉には火がくべてあって、彼女の両頬は紅く火照っていた。彼女はときどき身じろぎをし、それに合わせて彼は腕の位置を少し変えた。そして彼は一度、彼女のすべらかな栗色の髪に口づけをした。特別な午後であったから、二人はしばし静謐な気持ちになっていた。その時間はまるで、翌日に予定された長いお別れに備えて、記憶を深く刻印するように過ぎていった。彼女は何も言わずに彼の上着の肩口に唇を這わせ、彼は彼女の指先に、まるで眠っているのを起こさないでおこうとするようにそっと触れた。愛し合ってまだ一月しか経っていなかったが、互いをこれほど近しく感じたことはなかったし、これほど深く通じ合えたこともなかった。


 彼は戦争では目覚ましい武勲を上げた。前線に赴く前は大尉であったのが、アルゴンヌの戦いに続いて少佐に昇進、機関銃師団の指揮権を与えられた。終戦後、彼は、必死になって帰国しようとしたのだが、入り組んだ事情があったのか、はたまた誤解があったのか、代わりにオックスフォードへと遣られた。彼は不安になってきた――デイジーからの手紙は、彼女が絶望し、気が立っていることを示唆していた。彼女には、なぜ彼が帰国できないのか理解できなかった。世間からは圧力を感じていた。だから、彼に会って、彼の存在を傍で感じていたかった。そして何と言っても、自分は正しいことをしているから大丈夫だと言って安心させてもらいたかった。
 それというのも、デイジーはまだうら若かったし、彼女の虚飾の世界は、蘭の花や、軽やかで楽しげな社交、さらには、今年のリズムを奏で、生の悲しみと期待を新しい曲に纏(まと)め上げるオーケストラを思わせたからだ。毎夜、サクソフォンが『ビール・ストリート・ブルーズ』の救いのない世界観を、呻吟するように奏でた。その間に、百人もの人の金銀の舞踏靴が、キラキラした粉をあちこちに運んだ。お茶の時間は灰色だった。そのときには、この低く甘い微熱で絶えず脈打っている部屋が常にいくつもあった。その間、悲しいホルンの音色が床中に吹き飛ばした薔薇の花弁のように、若々しい顔ぶれがここかしこに漂っていた。
 社交の季節が巡ってきたとき、デイジーは再びこの黄昏時の世界を動き回るようになった。突如、彼女はまたもや、一日に六人もの男と六つのデートを約束していた。そして明け方には、ベッドの傍の床で蘭が萎(しお)れてゆく中、イヴニングドレスのビーズとシフォンがもつれ合ったままにまどろんでいた。そして常に、彼女の内なる何かが決断を求めて叫び声を上げていた。今では彼女は、人生にはっきりとした形が直ちに与えられることを望んでいた。そしてその決断は手近にある何らかの力――愛の力、金の力、疑いようのない実際性の力――によって下されなければならなかった。
 その力は、春の盛りにトム・ビュキャナンが現れることで形をとった。彼の容姿と地位には、どっしりとした健全な構えが具わっていて、デイジーは誇らしかった。ある種の葛藤と安堵があったのは間違いない。婚約を知らせる手紙がギャツビーのもとに届いたのは、まだ彼がオックスフォードにいるときだった。


 ロング・アイランドに夜明けが訪れた。私たちは一階の窓を残らず開けてまわった。灰色に、そして金色になってゆく光が邸を満たした。樹の陰が突然に芝の露の上に落ち、幽霊を思わせる鳥たちが青い葉叢の中で歌い始めた。空気がゆっくりと爽やかに動いていた。風はほとんどなかった。涼しい、素敵な一日を約束していた。
 「デイジーがあの人を愛したことはないと思う」と言って、ギャツビーは窓から振り返り、食って掛かるように私を見た。「ねえ、オールド・スポート、あの午後、デイジーは取り乱していた。あの人はデイジーを怖がらせる仕方であれやこれやの話をした――おかげで、私が安っぽいいかさま野郎であるような印象を与える羽目になった。結果、デイジーは自分が何を言っているか分かっていなかったんだ」
 彼は憂鬱そうに腰を下ろした。
 「もちろん、ほんの束の間だったら、デイジーはあの人を愛したことはあったかもしれない。新婚のときはね――それでも、そのときだって、私の方をもっと愛していた。分かるよね」
 突然、彼の口から妙な言葉が飛び出した。
 「とにかく」と彼は言った。「そんなのは、私事(わたくしごと)だね」
 この言葉をどう理解すればいいだろうか。彼が抱いていた、デイジーとの関係の観念には、計り知れない強烈なものが含まれていたと考える他ない。
 彼がフランスから戻ったときには、トムとデイジーはまだ新婚旅行の最中だった。ギャツビーは軍からの最後の俸給をはたき、ルイヴィルへ、寂しい、けれども抗いがたい旅をした。そこには一週間滞在し、十一月の夜に二人の足音がコツコツと鳴った通りを歩き、二人がデイジーの車で訪れた辺鄙な場所を再訪した。デイジーの家が、彼にとってはいつもどの家よりも神々(こうごう)しく楽しげに思われたのと同じく、彼のルイヴィルへの思いは、たとえもう彼女がそこにいなくても、憂鬱な美で満ち満ちていた。
 彼女をもっと探していたら見つけられたかもしれない――だから、彼女を置き去りにしてきたも同然だ――と感じながら、彼はルイヴィルを後にした。二等車輛は――彼は今では一文無しだった――暑かった。彼は、屋根のないデッキに出て、折り畳み椅子に腰掛けた。駅舎が後方に滑ってゆき、見たことのない建物の背面が行き過ぎた。そうして列車は、春の野へと突き進んでいった。黄色い路面電車が束の間、列車と競り合うように併走した。乗客の中には、ルイヴィルの気取らぬ通り沿いで、彼女の顔が蒼白い魔法を掛けるのを一度は目撃した者もいたかもしれない。
 線路はカーブを描き、今では太陽から離れていった。夕陽は、低く沈みゆくにつれ、祝福を込めながら、陽光を、今や消えつつある街――かつて彼女が息を吸い込んだ街――の上に、万遍なく降り注いでいるようであった。彼は、一縷の空気でも掴み取ろうとするかのように、そして、彼女が彼のために素敵なものにしてくれた場所の一片を守ろうとするかのように、必死に手を伸ばした。けれどもそれはみな、あまりに速く遠ざかって行き、彼には霞んで見えるだけだった。彼には、その街の要(かなめ)の部分が――最も清新な、最上の部分が――永遠に失われてしまったことが分かっていた。
 私たちが朝食を終え、玄関に出たのは九時だった。一夜過ぎて天候にははっきりとした変化があって、空気には秋の気配がした。庭師(ギャツビーがずっと雇っていた召使いの最後の一人だった)が段の下まで来た。
 「今日、プールの水を抜こうかと思います、ミスタ・ギャツビー。じきに葉が落ちて参ります。そうなるといつも、排水口に問題が生じます」
 「今日はやめてくれ」とギャツビーは応えた。彼は申し訳なさそうに私の方を向いた。「ねえ、オールド・スポート、私はこの夏一度もあのプールを使ってないんだ」
 私は腕時計を見、立ち上がった。
 「あと十二分で電車が出る」
 私は街になど行きたくなかった。まともに仕事ができる状態ではなかった。けれども、本当はそれ以上の理由があった――ギャツビーの元を離れたくなかったのだ。私はその列車を逃し、それから次のも逃し、そうしてやっと重い腰を上げた。
 「電話するよ」と私は最後に言った。
 「ぜひとも、オールド・スポート」
 「正午ごろに電話する」
 私たちはゆっくりと段を下りた。
 「デイジーも電話してくると思う」彼は不安げに私を見た。私に請け合って欲しいかのようだった。
 「僕もそう思うよ」
 「じゃあね、バイバイ」
 私たちは握手をし、私は歩き出した。生け垣に到って思い出すことがあり、振り返った。
 「あいつらみんな、腐ってる」私は芝越しに叫んだ。「あのクズ連中を皆全部足し合わせて、やっと君の値打ちってとこだ」
 そう言っておけたことを、爾来(じらい)私はずっと嬉しく思っている。私は彼のことを、初めから終わりまで認めていなかったから、それは私が彼に与えた唯一の賛辞となった。初め彼は儀礼的に頷いたが、それから彼の顔はほころび、あの、眩いばかりの、包み込むような笑みを湛えた。まるで、この事実をここで明かすために、これまでずっと二人だけで心躍る共謀をしてきたようだった。彼の華麗なピンクのスーツは、白い階段に映え、鮮やかな点であった。私は、彼の祖先に由来するという邸に初めて訪(おとな)った、三ヶ月前の夜のことを考えていた。芝と車回しは、彼の頽廃について憶測する人たちの顔でいっぱいだった――そして彼は、あの階段に立ち、廃れようのない夢をひた隠しにしながら、彼らに向けて手を振り、別れの挨拶を述べていたのだ。
 私は、彼が手厚く遇してくれたことについて礼を述べた。私たちは――私も、他の皆も――そのことについてはいつも彼に礼を述べていた。
 「さよなら」と私は叫んだ。「朝食、楽しかったよ、ギャツビー」


 街では、途方もない量の株式の時価見積もり表を作成しようとしばらくは努力したが、その後、回転椅子に座ったままで眠ってしまった。正午の少し前に私に電話があって目が醒めた。私は立ち上がった。汗が額に吹き出ていた。電話をかけてきたのはジョーダン・ベイカーだった。彼女はよくこの時間に電話をかけてきた。ホテルとクラブと誰かの家の間で不定期に動き回るせいで、それ以外では連絡をとりにくかったからだ。いつもであれば彼女の声は、緑のゴルフコースでクラブヘッドに削り取られた芝の一片がオフィスの窓に航行してくるみたいに、瑞々しく涼し気なものとして電話線を伝ってきた。けれども、この日の午前、彼女の声はきつく、潤いがなかった。
 「デイジーの家を出たよ」と彼女は言った。「今はヘムステッドにいる。午後になったらサウサンプトンに行くつもり」
 デイジーの家を出たのは、おそらく如才ない行動であっただろう。けれどもどこか癪に障った。そして、彼女の次の一言で私は強張(こわば)った。
 「きのうはあまり優しくなかったね」
 「あの状況で、どうしてそんなことが問題なんだ?」
 沈黙。そして――
 「でも――会いたいよ」
 「僕もだ」
 「もし私がサウサンプトンに行かないとして、今日の午後街に行ったら会えるかな?」
 「いや、今日の午後は都合が悪い」
 「ならいいよ」
 「今日の午後は無理だ。いろんな――」
 しばらく私たちはそんなふうに話をした。それから突然、気がついてみると私たちはもう何も話していなかった。どちらがガシャンと受話器を置いたのかは覚えていない。けれども、それはどうでもよかった。たとえ、これからもう二度とこの世で話すことがないとして、ティーテーブルに向かい合わせで座っていたとしても、私は何も話せなかっただろう。
 数分経って、私はギャツビーの家に電話をかけた。けれども、回線が込み合っていた。私は四度電話をし、四度目にようやく、ひどく苛立った電話交換手が、デトロイトからの長距離電話があるから回線を空けているのだと言った。私は時刻表を取り出して、三時五十分の列車のところに小さく丸を描いた。そうして椅子に深く持たれかかり、思考を集中しようとした。ちょうど正午だった。


 その日の朝、列車に乗って灰の山々を通過したとき、私は敢えて車輛の反対側まで歩いて行った。あそこでは、好奇に駆られた群衆が一日中集(つど)い、小さな男の子らは灰燼の中に血痕を探していただろう。そして、どこかのお喋りな男が何度も何度も、何が起こったのか話して聞かせていただろう。そうするうちに出来事は、当の語り手にとってもますます現実性を失い、彼はもう話すことができなくなってしまっただろう。そして、マートル・ウィルソンの悲痛なる達成は忘れられてしまっただろう。私は今ここで一歩退いて、私たちが前日の晩に修理店を出た後、そこで何があったのか語ろうと思う。
 警察は妹のキャサリンの居所を掴むのに手こずっていた。彼女は、その夜は飲まないという禁を破っていたに違いない。現場に到着したとき彼女はへべれけで、救急車はフラッシング(訳注:ロング・アイランドにあった村。フラッシング病院はクウィーンズ自治区に現存)に行ってしまったのだということを理解できなかったからだ。警察が言っていることが分かると、彼女はその場で卒倒してしまった。まるで、それが事件の最も耐え難い部分であるかのようだった。ある男が、親切心からか好奇心からか、彼女を車に乗せ、彼女の姉の遺体が安置されているところまで連れて行った。
 日付が変わってもなお、群衆が入り替り立ち替り、修理店の前面に波のごとくに押し寄せていた。その間、ジョージ・ウィルソンは屋内のカウチに座って身体を前後に揺らせていた。しばらくは事務室の扉は開いていて、修理店に入って来た誰もが、扉の向こう側を見遣らずにはいられなかった。とうとう誰かが、「まったくひどいことだ」と言って扉を閉めた。ミケイルスに加え、他に男が何人かウィルソンの傍についていた。それからしばらくすると、ミケイルスはやって来たばかりの見知らぬ人に、ここで十五分ばかり待っていてくれないかと頼まねばならなかった。その間(かん)、彼は自分の店に戻ってコーヒーを作り、ポットに入れて持って来た。そうして、彼はウィルソンと夜明けまで二人でそこにいた。
 三時頃になって、ウィルソンの一貫しない呟きに変化が見られた――口数が少なくなり、黄色い車に言い及び始めたのだ。黄色い車が誰の物か見つける手だてがあると彼は宣言した。そして、二ヶ月前に妻が街から帰って来たとき、顔には痣ができ、鼻が腫れていたとこぼした。
 けれども自分の口から洩れた言葉を聞き、彼はたじろいだ。再び「ああ、神様!」と呻き声を上げだした。ミケイルスは、彼の気を紛らわそうと下手な試みを始めた。
 「結婚して何年になる、ジョージ?なあ、少しばかり、頑張って静かに座って、俺の質問に答えてくれよ。結婚して何年になる?」
 「十二年だ」
 「子供を持ったことは?なあ、ジョージ、静かに座ってな――俺は、あんたに質問した。子供を持ったことは?」
 硬い褐色の甲虫たちが、仄暗い灯りにひっきりなしに当たって鈍い音を立てていた。表で車が道路を突っ切り、闇をつんざくのを耳にするたび、ミケイルスにはそれが、数時間前に停まることのなかった車のように聞こえた。工場(こうば)には足を踏み入れたくなかった。遺体が載っていた作業台が血で染まっていたからだ。それで、彼は落ち着きなく事務室を歩き回った――日が昇る前には、どこに何があるのか記憶してしまったほどだ――そして時折、ウィルソンの脇に腰掛け、静かにしてもらおうとした。
 「ときどき行く教会はあるか、ジョージ?長いこと行ってないとしても、さ。教会に電話して、司祭さまにいらしてもらってさ、話をしてもらって――どうだろ?」
 「教会には行かんよ」
 「行く教会はあったほうがいい、ジョージ。こんなときには。一回くらいは行ったこと、あるだろ?結婚は、教会でしなかった?なあ、ジョージ、聞けよ。教会で結婚、しなかった?」
 「昔のことだよ」
 応(いら)えようとすることで、彼が身体を揺らすリズムが崩れた――しばし彼は黙した。そうして再び、褪せた両眼に、例の、半ば心得(こころえ)、半ば当惑した色が宿った。
 「あっちの引出しの中を見てくれないか」と彼は言って、机を指した。
 「どの引出し?」
 「あれだよ、あれ」
 ミケイルスは、一番手近の引出しを開けた。そこには、小振りで、見るからに高価な、犬用の散歩紐が入っていた。革製で銀が編み込まれていた。どうも新品のようだった。
 「これ?」と彼は訊き、持ち上げた。
 ウィルソンはそれを見据え、頷いた。
 「昨日の午後見つけた。あいつは説明しようとしたけど、何かおかしいと思った」
 「奥さんが買ったってこと?」
 「ティッシュペーパーに包んで箪笥に入れてたんだよ」
 ミケイルスには、変わったところは何も見受けられなかった。だから彼は、彼女がそれを買ったとしてもおかしくない理由を十二ほど挙げた。けれども、どうもウィルソンはその説明のうちのいくつかは、既にマートルの口から耳にしていたようだった。というのも、彼は再び「ああ、神様!」と囁き始めたからだ――それで、慰め役のミケイルスが与えようとした説明のいくつかは、口にされないままに立ち消えてしまった。
 「それでな、あいつが殺したんだよ」とウィルソンは言った。口が突然に、あんぐりと開いた。
 「誰が?」
 「見つける手だてがある」
 「怖いこと言うなよ、ジョージ」と彼の友人は言った。
 「きつかったと思うよ。だから、自分が何言ってるのか分からないかもしれない。頑張って、朝まで静かに座ってなよ」
 「あいつが、妻を殺した」
 「事故だってば、ジョージ」
 ウィルソンは首を振った。目を細め、口が少しだけ開いた。見下したような「ふんっ!」という声が洩れた。幽霊の囁きのようだった。
 「間違いない」と彼は断言した。「俺は、よくいる、騙されやすい男だよ。誰も傷つけようなんて思ってない。でもな、知ってしまったら知らない振りはできないよ。あの車に乗っていた男が殺(や)ったんだ。マートルは飛び出して、そいつと話そうとしたけど、奴は車を停めようともしなかった」
 ミケイルスも、何があったのかを目撃していた。けれども、そこに特別な意味があるとは思えなかった。彼は、ミセズ・ウィルソンは、特定の車を停めようとしたというよりはむしろ、夫から逃げようとしていたと思っていた。
 「奥さんは何でそんなことになった?」
 「いろいろ深く考える性質(たち)だった」と、まるでそれが質問への答えになっているかのようにウィルソンは言った。「ああ、あああ――」
 彼は再び身体を揺すり始めた。ミケイルスは手の中で紐を捻らせながら立っていた。
 「俺が電話してあげられる友達はいるんじゃない、ジョージ?」
 これは、見込みのない希望に過ぎなかった――ウィルソンには友達がいないことを、彼はほとんど確信していた。こんな男に妻が満足できるはずがないのだ。少し経って部屋の変化に気づき――窓では空がどんどん青みを増し、夜明けが近づいていることを告げていた――彼は安堵した。五時頃には外の空はすっかり青くなり、彼は灯りを消した。
 ウィルソンはぼうっとした目で灰の山々を見遣った。そこではいくつもの小さな灰色の雲が奇妙な形をとり、明け方の微かな風に乗って、ここかしこをすばしこく動いていた。
 「あいつには話をしたんだよ」と彼は呟いた。長い沈黙の後でのことだった。「俺のことは騙せるかもしれない、でもな、神様を騙すことはできんぞ、ってさ。それで、あいつを窓のところまで連れて行った」――彼は重い腰を上げ、後ろの窓まで歩いて行き、身を屈めて窓に顔を押し付けた――「それでな、俺はこう言ったんだ。『神様はお前のしてきたことをご存知だぞ、お前のしてきたこと全部だ。俺のことは騙せるかもしれん。けどな、神様を騙すことはできんぞ』」
 彼の後ろに立っていたミケイルスは、彼がT. J. エクルバーグ博士の両眼を見入っているのを見て、愕然とした。色褪せた巨大な両眼は、溶けゆく闇から浮かび上がったばかりであった。
 「神様は全てお見通しだ」とウィルソンは繰り返した。
 「あれは広告だよ」とミケイルスは彼を説得した。ミケイルスは窓から振り返り、部屋を見つめずにはいられなかった。けれどもウィルソンはそこに長い時間立ち尽くしていた。顔を窓枠に寄せ、朝ぼらけの光に向かって頷いていた。


 朝の六時になるまでには、ミケイルスはくたくたになっていた。だから、表で車が停まるのが聞こえたときには胸を撫で下ろした。前の晩に戻って来ると約束していた、付添人の一人だった。ミケイルスは三人分の朝食を拵(こしら)えたが、ウィルソンは食べようとせず、結局二人でそれを平らげた。今では彼はほとんど喋らなくなっていた。ミケイルスは眠りにつこうと家に帰った。四時間後に目を覚まして慌てて工場(こうば)に戻ってみると、ウィルソンの姿はなかった。
 彼の足取りは――彼は徒歩でしか移動することがなかった――後になって、ローズヴェルト港、さらに、ギャズ・ヒル(訳注:ディケンズ(イギリスの文豪)が育った邸であるギャズ・ヒル・プレイスを思わせる)までは辿ることができた。そこで彼はサンドウィッチ(口をつけなかった)を購入、また、コーヒーも買っていた。余程疲れていてゆっくり歩いていたのだろう、ギャズ・ヒルに着いたのはようやく正午になってからのことだった。そこまでの足取りを辿るのは難しくなかった――「『ちょっとおかしな』おじさん」を見たという男の子らの証言があったし、車を運転していると、道路の向かい側から、気色悪いほどにじっと見つめられたと言う人も何人かいたからだ。それから三時間、彼の動向は不明である。警察は、ウィルソンがミケイルスにこぼした、「誰が殺(や)ったのか見つける手だてがある」という言を手掛かりに、彼はひょっとしたら、辺りの修理店という修理店を洗い、黄色い車を捜したのではないかと踏んだ。けれども、彼を見たと名乗り出た修理工は誰もいなかった。彼には、目的の車を見出す、もっと簡単で、もっと確かな術があったのかもしれない。午後二時半までには、彼はウェスト・エッグにいた。ギャツビー邸への道を訊かれた人物がいたのだ。したがって、そのときまでには彼は、ギャツビーの名を知っていたことになる。
 二時にギャツビーは水着に着替え、執事に、もし誰かから電話があればプールにいる自分に知らせるよう命じた。途中、彼は車庫で立ち止まった。その夏に来訪客を楽しませた浮きマットがあったからだ。運転手は、それを膨らませるのを手伝った。そしてギャツビーは、いかなることがあってもオープン・カーは表に出さぬよう指示した――奇妙な指示だった。右前面のフェンダーは、修理が必要だったからだ。
 ギャツビーは浮きマットを抱えプールへと歩んだ。一度彼は立ち止まり、それを持ち替えた。運転手が、お手伝いいたしましょうかと言った。けれどもギャツビーは首を振り、あっという間に黄色く色づきつつある樹立(こだち)の中に姿を消してしまった。
 結局、電話の言伝(ことづて)は何も届かなかったが、執事は眠ることなく、午後四時まで待ち続けた――つまり、仮に言伝が届いていたとしても、受取り手が誰もいなくなって相当な時間が経っていたことになる。私は、当のギャツビーも、言伝があろうとは思っていなかったし、ひょっとしたらもう気に掛けていなかったのではないかとも思う。そうだとしたら、彼は、きっとこう感じていただろう。古き温かな世界を失ってしまった、そして、たった一つの夢だけを携えてあまりに長く生きてきたせいで、大きな代償を払ってしまった、と。彼は、おどろおどろしい葉々の隙間から、見慣れぬ空を見上げたに違いない。薔薇がどれほどおぞましいものか、そして、芽吹いて間もない芝に降り注ぐ陽光が、どれほど生々しいものかを見出し、身を震わせたに違いない。新しい世界には、実(じつ)が欠け、物だけがあった。哀れな亡霊たちは、息吹(いぶ)くように夢を呼吸しながら、偶然、辺りにたゆたっていた……。形の定まらない樹々の間から彼に滑降して来る、あの幻、灰の人影のように……。
 運転手――彼は、ウルフシャイムの子分であった――が銃声を何発か聞いた――後に彼は、大したことではないと思ったのですとしか言えなかった。私は、駅から直接ギャツビーの邸まで運転した。そして、私が不安にかられて玄関の階段を駆け上がったのが、皆を不安に陥れるきっかけとなった。しかし、そのときには間違いなく、皆が知っていただろうと思う。ほとんど言葉が発せられることがないまま、運転手と執事、庭師と私はプールに駆け下りた。
 プールの端から供給される新しい水流が、反対側の排水溝の方へ急(せ)くように進むのに合わせ、微かな、辛うじて認識できる水の動きがあった。波の名残ほどもない微かな揺らぎにたゆたいながら、重しを載せた浮きマットは、不規則に動きながらプールの奥の方へと流れて行った。水面(みなも)を揺らせることすらままならない微風があるだけだったが、偶然の重みを載せた浮きマットが、偶然に辿る道筋を動かすには事足りた。水面(みなも)に浮く落葉の溜りに触れると、それは緩やかに回転し、コンパスの脚のように水中に細く赤い円を描いた。
 現場から少し離れた叢(くさむら)で庭師がウィルソンの遺体を発見したのは、私たちがギャツビーの遺体を運び出した後のことだった。このようにして殺戮(ホロコースト)の幕は閉じた。

The Great Gatsby 第7章

Chapter VII

ある土曜日の夜、ギャツビー邸の電燈が灯らなかった。ギャツビーへの好奇心が最も高まっていたときのことだった。成り上がり者(トリマルキオ)としての彼の役回りはいつの間にか始まったが、その終わりもまた、漠としたものだった。期待に胸を膨らませて彼の車回しに入って行く車が、ほんの少しそこにいただけで、憤然として立ち去って行くようになったことに私が気づいたのは、あくまで少しずつのことだった。ギャツビーは病気なのかと思い、詳細を知るべく私は訪ねて行った――そこには邪悪な顔つきの見知らぬ執事がいて、疑わしそうに目を細め、扉から私を見遣った。
 「ミスタ・ギャツビーはご病気ですか?」
 「いいえ」しばしの間の後で、彼は「サー(訳注:男性への改まった呼びかけの語)」と付け加えた。緩慢で、嫌々ながらといった感じだった。
 「しばらくお見かけしておらず、心配致しておりまして。ミスタ・キャラウェイが伺った旨をお伝えいただけませんか」
 「誰ですって?」と彼は不躾に訊いた。
 「キャラウェイです」
 「キャラウェイさんか。分かりました、お伝えしましょう」突然彼は扉をピシャリと閉めた。
 うちのフィン人婆さんが、ギャツビーは一週間前に邸の召使いを全員解雇して、新しい人間を六人雇ったのだと教えてくれた。彼らは、ウェスト・エッグ村まで行って商売人から賄賂を受け取るような真似は決してせず、必要な買い物だけを電話で済ませるのだそうだ。けれども、食料雑貨店で働く少年によると、邸の厨房は豚小屋のごとき惨状だということだし、村人の見方を総合すると、新しく雇われた人間は召使いなどでは断じてないということになる。
 翌日ギャツビーが私に電話をよこした。
 「引っ越しでもするつもりなのか?」と私は尋ねた。
 「違うよ、オールド・スポート」
 「召使いを全員クビにしたと聞いた」
 「噂話をしない人を雇いたかったんだよ。デイジーが来てくれるようになったからね――午後の時間にさ」
 こうして、彼女には目障りに映ったというわけで、隊商宿(キャラヴァンサリー)全体がトランプ札で作った家のように崩落してしまっていた。
 「ウルフシャイムが一肌脱いでやろうと言ってたんだよ、うちの新しい召使いのことでさ。皆兄弟姉妹だろうということでね。あの人たちは、昔は小さなホテルを経営していたんだよ」
 「なるほどね」
 彼は、デイジーに頼まれて電話をよこしていた――明日、デイジーの家で昼食をご一緒しないかい?ミス・ベイカーも来ることになっているのだが。半時間後、デイジー本人から電話があった。私が来ると分かって安心しているようだった。嫌な予感がした。けれども、二人があえてこの機会を選んで、一悶着の場にしようとしていたなどとは――ギャツビーが自邸の庭園でその筋書きを披露していた、惨劇とも言える場にしようとしていたなどとは――ゆめゆめ思わなかった。
 翌日は焼け付くような暑さだった。暑さはほぼ終わりに差し掛かっていたが、この日はその夏で間違いなく一番暑い一日だった。私の乗った列車がトンネルを抜け、陽の光の中に現れた。ナショナル・ビスケット・カンパニー(訳注:現ナビスコ。製菓会社)が鳴らす、正午の熱い汽笛だけが、今にも沸き立ちそうな静けさを破った。車輛の麦藁編みの席は、今にも燃え出しそうだった。隣に座った女性は汗をかいていた。汗は、しばらくは淑(しと)やかにブラウスに染みるだけだったが、読んでいた新聞が指の中で湿るに到って、女性は情けない声を洩らし、もういいとでも言うように灼熱の中に沈み込んだ。ハンドバッグがくちゃりと床に落ちた。
 「もうっ!」我に返った彼女が声を上げた。
  私はやおらかがみ込んでそれを拾い上げ、彼女に渡してやった。ハンドバッグを持ったときには、他意がないことを示すために、腕を伸ばして身体から離し、一番端にしか触れなかった――けれどもその女性を含め、近くにいた全員は、私を疑っていた。
 「暑いね!」と車掌が馴染みの客らに言った。
 「なかなかの天気だね。暑い!暑い!暑い!これだけ暑けりゃもういいかい?暑い?ねえ……?」
 私が差し出した回数券を車掌の手から受け取ってみると、黒いしみが付いていた。こんな暑さの中、誰しもが、誰の真っ赤な唇に自分がキスしたかとか、誰の頭が、自分の心臓の上にあるパジャマのポケットを汗で湿らせたかとか、そんなことを気にしてるなんて!
 ……ビュキャナン一家の邸の玄関ホールを、微風が吹き抜けた。電話のベルの音が風に乗って、扉の外にいた私とギャツビーにまで聞こえてきた。
 「旦那様のご遺体!」と執事が電話の送話口に向かって叫んだ。「申し訳ございません、マダム、私たちはご遺体をどうすることもかないません――今日の昼間はあまりに暑すぎて、触れることもできないのです」
 本当はそうではなかった。彼が言ったのは「ええ……ええ……確認してまいります」だけである。
 彼は受話器を置いて、こちらに歩いてきた。汗でしっぽりと濡れた顔が少し照らついていた。玄関まで来て、二人の固い麦藁帽を受け取った。
 「奥様は応接間でお待ちです!」と彼は大声で言って、必要もないのにその方向を示した。この暑さである。凡夫には、あらゆる余計な仕草が忌々しい。
 部屋は廂(ひさし)の陰になっていて、暗く涼しかった。デイジーとジョーダンは大きなカウチに横になっていた。銀でできた偶像みたいだった。周りの扇風機からは歌うような微風が吹いていて、二人は白いドレスの裾を押さえていた。
 「動けない」と二人は揃って言った。
 ジョーダンの指は、日焼けの後を隠すように白粉が施してあって、しばらくは私の指に包まれて休んでいた。
 「で、アスリートの、ミスタ・トマス・ビュキャナンは?」と私は訊いた。
 と同時に、彼の声が聞こえた。野卑でくぐもったハスキーな声で、玄関ホールの電話で話していた。
 ギャツビーは緋色の絨毯の真ん中に立ち、うっとりとして周囲にある物に見入っていた。デイジーは彼を見つめ、笑った。甘くて、ぞくぞくさせるような笑い声だった。胸にかかっていた白粉が空中に舞い上がった。
 「噂から判断するに」とジョーダンは囁いた。「あれ、トムの浮気相手よ」
 私たちは黙った。玄関ホールの声は、苛立ちとともに高く昇っていった。「それで結構だ。車は売ってやらないからな……。お前に借りがあるというのでもない……。それから、昼食の時間につまらんことで電話をかけてきてるがな、次はもう許さんぞ」
 「受話器を置いてるくせに」とデイジーが皮肉を込めて言った。
 「いや、それは違う」と私は断定した。「本当にやり合ってるんだよ。たまたま事情を知っててね」
 バンッと扉を開け、トムはしばし、厚みのある身体でその空間を塞いでいた。そしてスタスタと部屋に入ってきた。
 「ミスタ・ギャツビー!」と言って、彼は大きな平たい手を差し伸べた。嫌悪の念はおくびにも出さなかった。「ようこそ、サー……ニック……」
 「皆に冷たい飲み物を作ってよ」とデイジーが大声で言った。
 トムが再び部屋を出ていくと、彼女は立ち上がってギャツビーのところまで歩み寄り、顔を引き寄せた。そして、彼の唇にキスをした。
 「愛してるって、分かってるね」と彼女は小声で言った。
 「レイディがここにいることを忘れてない?」とジョーダンは言った。
 デイジーが疑わしそうに辺りを見遣った。
 「あなたもニックにキスしたらいいじゃない」
 「何てふしだらなことを!」
 「知るもんですか!」とデイジーは声を上げ、暖炉前の煉瓦床で足を鳴らして軽快に踊り始めた。それから、暑さに思いがいたり、ばつが悪そうにカウチに腰を下ろした。そこに、洗ってアイロンをかけたばかりの服を来た子守女が小さな女の子の手を引き、部屋に入ってきた。
 「お、ひ、め、さま」と、彼女は優しく歌って両腕を開いた。「おいで、あなたのことがだーいすきなお母様のところへ」
 子供は子守女の手を離れ、駆け足で部屋を横切ると、恥ずかしそうに母親のドレスにくっついた。
 「お、ひ、め、さま!あなたのきいろい、きいろい髪の毛に、お母様は白粉をつけちゃわなかった?さあ、立ち上がって、『はじめまして』ってご挨拶なさい」
 ギャツビーと私は順に屈み込んで、気乗りしない女の子の手を取って挨拶した。その後で、ギャツビーは、驚いたままに子供をじっと見ていた。そんなのが存在しているなんて、ギャツビーには思いもよらなかったのだろう。
 「お昼を食べる前に、お着替えしたの」と子供は言い、ねえ、ねえとでも続けんばかりにデイジーの方を向いた。
 「それはね、お母様があなたのことを見せびらかしたかったからよ」彼女は顔を傾げ、子供の小さくて真っ白な頸に走る一本だけの皺に押し付けた。「あなたが私の夢。絶対的な、可愛らしい夢」
 「うん」と子供は平然と言った。「ジョーダンおばちゃんも、白のドレスを着てる」
 「お母様のお友達はいかが?」とデイジーは言って、娘の向きを変え、ギャツビーの方を向かせた。「皆様、素敵だと思わない?」
 「お父様はどこ?」
 「あの子は父親には似てないの」とデイジーは説明した。「私似ね。髪も、顔の形も」
 デイジーはカウチに深く腰掛けた。子守女が一歩前に出、手を差し伸べた。
 「パミー、いらっしゃい」
 「またね、愛するパミーちゃん!」
 後ろ髪を引かれているように振り返りながら、このよく躾された子供は子守女の手をしっかり握り、扉の外に連れて行かれた。同時にトムが戻って来た。それに続いてジン・リッキーが四杯運ばれて来た。グラスには氷がいっぱい入っていて、カラカラと音を立てた。
 ギャツビーは自分の分を取り上げた。
 「すごく冷たそうだ」と彼は言った。緊張の色が窺えた。
 私たちはむさぼるように、ゴクッ、ゴクッとそれを飲んだ。
 「太陽は毎年熱くなってきているそうだ。どこかで読んだ」とトムが楽しそうに言った。「地球はじきに太陽に飲み込まれてしまいそうだな――いや、待て、逆だ。太陽は毎年冷たくなっている」
 「表にいらっしゃい」と彼はギャツビーを誘った。「邸を御覧いただきたい」
 私は二人についてヴェランダに出た。緑の『海峡(サウンド)』は灼熱の中で凪(な)いでいた。小さな帆船が一艘あって、そこよりも風の強い沖へ向けてのろのろと進んでいた。ギャツビーは束の間それを目で追うや、片手を上げて湾の向こう側を指した。
 「私は真向かいに住んでおります」
 「そうですな」
 私たちは目を上げ、炎天下の岸沿いに、薔薇の花壇、熱を湛えた芝、そして、雑草に塗(まみ)れたゴミを見渡した。帆船の白い翼帆はゆっくりと、空の青く涼し気な果てに向かって行った。前方には、帆立貝の殻のような漣(さざなみ)が広がり、恵みの島々がたっぷりとあった。
 「面白いことがありますよ」とトムは言って頷いた。「一時間ほどこちらの方と海に出られればな」
 私たちはダイニング・ルームで昼食をとった。暑気を避けるためにここも暗くしてあった。どこか落ち着かない浮わついた感じを、冷たいエイルビールとともに飲み干した。
 「今日は何をしましょうか?」とデイジーが大きな声を上げた。
「それから、明日は?これから先の三十年間は?」
 「悲しいことを言わないの」とジョーダンは言った。「秋になってひんやりしたら、人生はまた一から始まるの」
 「でも、こんなに暑いのよ!」とデイジーは食い下がった。泣きそうになっていた。「それに何もかもぐちゃぐちゃ。皆で街に行きましょう!」彼女の声はジタバタともがき続けて暑気を抜け出ると、そいつをめった打ちにした。無意味にしか聞こえなかった彼女の声が具体的な形を帯びてきた。
 「馬小屋を車庫にしたという話は聞くが」とトムはギャツビーに言った。「車庫を馬小屋にしたのは私が初めてでしょう」
 「街に行きたいのはだあれ?」とデイジーはなおも質した。ギャツビーの目が彼女の方に泳いだ。「まあ!」と彼女は声を上げた。「あなたはほんとに涼しげね」
 二人の目が合った。二人は互いを見つめた。二人だけがそこにいた。彼女は振り切るように目を逸らし、テーブルに目を落とした。
 「いつも涼しげなんだから」と彼女は繰り返した。
 それは、彼に愛を告げたも同然だった。トム・ビュキャナンはすべてを目撃した。彼は愕然とした。少し口を開けてギャツビーを見、それからデイジーに視線を戻した。まるで、たった今、彼女は自分が昔知っていた人だと分かったかのように。
 「あなたは、広告に出てるあの男の人に似てる」彼女は屈託なく続けた。「あの広告知ってるでしょう」
 「分かった」とトムがさっと間に入った。「是非とも街に行きたいね。ほら、行こうぜ――皆で街に行くんだ」
 彼は立ち上がった。両眼は、ギャツビーと自分の妻との間でぎらついていた。誰も動かなかった。
 「ほら、行くぞ!」彼は少々癇癪を起こした。「何か問題があるか?行くんなら、さあ、出かけよう」
 自制しようと震えた手で、グラスに残ったエイルビールを口まで運んだ。デイジーが声を発したのを機に、私たちは立ち上がり、砂利の焼け付く車回しに出た。
 「ほんとに行くの?」とデイジーは反対した。
「こんなふうにして?どなたかまず煙草を吸ったら?」
 「皆、昼食の間中ずっと吸ってたよ」
 「ねえ、楽しくやりましょうね」と彼女は彼に請うた。「こんなに暑いんだから喧嘩は無理」彼は応えなかった。
 「お好きに」と彼女は言った。「行きましょう、ジョーダン」
 二人は支度をするために階上に行った。私たち男三人はそこに立ったまま、足下の熱い石を片足で動かしていた。西の空には今や、弓なりになった銀色の月が浮かんでいた。ギャツビーが何かを言いかけたが、思い直して口をつぐんだ。けれどもトムは振り向いて、彼の方を見た。どうしたんでしょうとでも言わんばかりだった。
 「こちらには馬小屋があるんですか?」とギャツビーは何とか切り出した。
 「道路を四百メートルほど行ったところに」
 「そうですか」
 間。
 「街に行きたいなんて、よく分かりませんよ」とトムが吐き出すように口にした。「女があんなふうに考えるなんて――」
 「何かお酒を持っていかない?」とデイジーが階上の窓から声を張り上げた。
 「ウィスキーを持っていくか」とトムが応え、邸の中に入っていった。
 ギャツビーは私の方を向いた。顔が強張っていた。
 「彼の家にいては何も言えないよ、オールド・スポート」
 「デイジーの声は明け透けだね」と私は評した。「何かで満ちてるというかさ」そこで私は躊躇した。
 「彼女の声は金(かね)で満ちている」と彼は唐突に言った。
 そうなのだ。それまで私には分からなかった。彼女の声は金で満ちていた。いつまでも立ち昇っては落下する蠱惑だった。チャリン、チャリン。シンバルのシャン、シャンという響き……真っ白な宮廷の高くにおわす、王の娘、黄金の女の子……。
 トムが、一リットルほどの瓶をタオルに包みながら、邸の外に出てきた。デイジーとジョーダンが後に続いた。金属のような生地でできた小さく締まった帽子を被り、腕には軽やかなケープを纏(まと)っていた。
 「全員私の車で行きませんか」とギャツビーが提案した。座席の緑の皮革が熱くなっているのを手に感じた。「日陰に停めておくべきでしたね」
 「その車はスタンダード・シフトかね?」とトムが訊いた。
 「ええ」
 「そうですか。君は俺のクーペを運転したらいい。君のを街まで運転させてほしい」
 この提案は、ギャツビーにとって快いものではなかった。
 「ガソリンがあまり入っていませんし」と彼は食い下がった。
 「ガソリンならたっぷり入っている」とトムは語気を荒げて言った。そして、燃料計を見た。「それに、なくなったら薬局に寄ればいい。最近では薬局で何でも買えますしね」
 この、無意味とも思われる発言の後で間があった。デイジーは眉を顰めてトムを見た。何とも言えない表情がギャツビーの顔に浮かんだ。これまでそんな表情を見たことがないのは歴然としているのに、同時に、何となく見覚えもあるような。一度言葉で説明されるのを耳にしたことがあるような。
 「来いよ、デイジー」とトムが言って、彼女を片手でギャツビーの車の方に向けて押した。「このサーカス馬車で連れて行ってやるぞ」
 彼は扉を開けた。けれども彼女は、彼の腕から抜け出した。
 「あなたがニックとジョーダンを連れて行ってよ。私たちはクーペに乗って後から行くから」
 彼女はギャツビーの傍らまで歩き、彼の上着に触れた。ジョーダンとトムと私は、ギャツビーの車の前部座席に乗り込んだ。トムは自信がなさそうに慣れないギアを試していたが、車はすぐに、茹だるような暑さの中へと飛び出して行った。二人の姿は見えなくなった。
 「あれを見たか?」とトムが訊いた。
 「何を?」
 彼はきっとして私を見た。ジョーダンと私は初めから知っていたに違いないと踏んでいた。「俺のことを阿呆だと思ってるだろ?」と彼は言った。「そうかもしれん。でも俺には――勘が働くんだ。それで、何をしたらいいのかが分かるわけだ。信じないかもしれないけどな、でも科学によると――」
 彼は間を置いた。直ちに起こるかもしれないことが彼を圧倒し、理論的深淵の縁から彼を引き戻した。
 「あいつについてはささやかな調査をした」と彼は続けた。「あのことを知っていれば、さらに調査できたかもしれないが――」
 「真ん中辺り(ミディアム)には(訳注:a medium: 「中間」という意味と「霊媒師」という意味がある)行ったということ?」とジョーダンがふざけて尋ねた。
 「何?」混乱して彼は私たちをじっと見た。私たちは笑った。「ミディアム?」
 「ギャツビーの話よ」
 「ギャツビーの話だ!いや、まだまだ。彼の過去について、ささやかな調査を進めてきたとは言ったよな」
 「で、彼がオックスフォードを出てるってのは分かったでしょう」とジョーダンが合いの手を入れた。
 「オックスフォード卒!」彼は信じられないという顔をした。「そんなはずがあるか。ピンクのスーツを着てるんだぞ」
 「でも、オックスフォード卒なのよ」
 「ニュー・メキシコのオックスフォードか」とトムは侮蔑を込めて吐き捨てるように言った。「まあ、そんなようなところだ」
 「ねえ、トム。そんなにお高くとまるなら、どうしてあの人を昼食に誘ったりしたのよ」とジョーダンが苛立ちを隠さずに質した。
 「デイジーが誘ったんだよ。俺達が結婚する前からのお知り合いだそうだからな――一体どこで知り合ったんだか!」
 皆が不機嫌になっていた。エイルビールの酔いは醒めつつあった。そうした自覚があって、しばらく誰も一言も発しなかった。そのときT. J. エクルバーグの色褪せた両眼が道路の先で視界に入ってきた。私は、ギャツビーがガソリンのことで注意していたのを思い出した。
 「街に行くには十分入ってるよ」とトムは言った。
 「でも、ここに自動車修理店があるじゃない」とジョーダンが異を唱えた。「こんな焼け付くような暑さの中、車が止まったりしたら最悪」
 トムは苛ついて両方のブレーキを踏み込んだ。車は砂埃を上げて急停止した。ウィルソンの店の看板の下だった。 しばらくして、店主が店内から現れた。ぼんやりと車を見入っていた。
 「ガソリンを入れてくれ」とトムが荒っぽく言った。「何で俺たちがわざわざ車を停めたと思ってるんだ――景色でも見るためか?」
 「具合が悪くて」とウィルソンは言った。微動だにしない。
 「一日具合が悪いんです」
 「どうしたんだ?」
 「ぺしゃんこに轢かれたみたいな気分です」
 「そうか。なら俺が自分でやろうか?」とトムは言った。「電話ではしっかりしてたのにな」
 ウィルソンは戸口に身をもたせかけていたが、何とか日陰から出て来、喘ぎながらタンクの栓を開けた。陽の光の中、彼はひどい顔色だった。
 「昼食のお邪魔をする気はなかったんです」と彼は言った。「でもどうしてもお金が要るんです。お売りいただけることになっていたお車はどうなさるんでしょうか」
 「この車はどうだ?」とトムは尋ねた。「先週買ったばかりだよ」
 「素敵な黄色のお車ですね」とウィルソンは、ガソリンポンプの取っ手を引っ張りながら言った。
 「買いたいか?」
 「のるかそるか」とウィルソンは力なく笑った。「やめときます。あの車でしたらお金にはなるのですが」
 「何で突然金が要るんだ?」
 「ここには長くおり過ぎました。遠くへ行きたくなりまして。家内と二人で西部に行こうかと」
 「奥さんもか!」とトムは仰天して叫んだ。
 「家内はこの話を十年はしとります」と彼は言い、ポンプに寄りかかって一休みした。手を翳(かざ)して光を遮っていた。「で、今ではね、行きたかろうと行きたくなかろうと、家内は行ってしまうんですよ。あいつを遠くに連れて行くんです」
 クーペが私たちの傍を駆け抜けた。砂埃が舞い上がった。一瞬、走り去る車から手が出て、合図した。
 「いくらだ」とトムがきつい調子で言った。
 「この二日ばかり、知恵がついたのか、おかしなことに気づきまして」とウィルソンは言った。「それで、遠くに行きたいんです。それで、車の件でご迷惑をおかけしている次第です」
 「いくらだ」
 「一ドル二十セントです」
 暑さはどこまでも容赦なく、私はぼんやりとしてきた。しかし、あそこでは居心地の悪い思いをしたが、これまでのところウィルソンの疑念はトムには及んでいないということに気づいた。確かにウィルソンは、マートルが自分から離れた別の世界に別の生活を持っていることに気づいていたし、そのせいで身体を壊してしまった。私はウィルソンをよく見、それからトムもよく見た。トムもまた、その一時間足らず前に、自分がウィルソンと同じ目に遭っていたことに気づいていたのに――そのとき私は思った。知性や人種における人間の差異など、病んだ人間と健やかな人間との差異に比べれば、取るに足りぬものだ。ウィルソンは病み、罪を犯したかのように――許されざる罪を犯したかのように――見えた。まるで、どこかの貧しい少女を孕(はら)ませたばかりのように――。
 「車は明日売る」とトムは言った。「明日の午後に届けさせよう」
 あの辺りはどこか落ち着かないものだった。真昼に日がぎらぎらと照りつけていてもだ。さて、私は後ろで何か警告を受けでもしたように振り返った。灰の山々の上にはT. S. エクルバーグ医師の巨大な両眼が寝ずの番をしていた。しかしすぐに私は、六メートルも離れていないところから別の目が、私たちに向けて異様に激しい眼差しを送っているのに気づいた。
 修理店の上階の窓の一つではカーテンが少し開け、マートル・ウィルソンが隙間から目を凝らして下の車を見ていた。彼女は一心不乱で、まさか自分が見られているなどとは思いもしなかった。ある感情が顔に浮かび、徐(おもむろ)に別の感情がそれに取って代わった。ゆっくりと現像している写真に浮かび上がってくる被写体のようだった。彼女の表情には、不思議にも見覚えがあった。それまで私は、女性の顔にこの表情が浮かぶのをよく目にしてきた。しかし、マートル・ウィルソンの顔では、それは目的を欠き、説明を寄せつけないものだった。そこで私は思い至った。彼女の、嫉妬に満ちた恐怖で見開かれている両眼は、トムにではなくジョーダン・ベイカーに注がれていた。トムの妻だと取り違えていたのだ。


 単純な人間の抱く混乱ほど、始末に負えないものはない。私たちが再び車を走らせていたとき、トムは、鞭で打たれ、ひりひり痛む傷のようなパニックに苛まれていた。一時間前までは安泰で、不可侵でもあった彼の妻と愛人は、今やあっけなく彼の掌中から零(こぼ)れ落ちようとしていた。本能的に彼はアクセルを踏み込んだ。デイジーに追い付くためでもあったし、ウィルソンの元を去るためでもあった。アストリアに向け、時速五十マイルで疾駆した。そうしていると、高架鉄道の、蜘蛛の巣のように張り巡らされた大梁の一角に、悠々と走る青いクーペが見えてきた。
 「五十丁目辺りの大きな映画館は涼しいよ」とジョーダンが提案した。「夏の午後のニューヨークって大好き。皆、いなくなってて。何かすごくエロいというか、甘ったるい感じがする。面白い果物が全部、手の中に落ちて来そうな」
 「エロい」という語でトムはさらに落ち着かなくなった。けれども、トムが抗議するより前に、クーペが停まった。デイジーが私たちに、車を隣に並べて停めるよう合図した。
 「さて、どこに行きましょうか」とデイジーが声を上げた。
 「映画館はどう?」
 「暑いよ」と彼女は反対した。「三人で行ってきたらいいじゃない。私たちはドライブしてるから。後で落ち合いましょう」そして彼女は、何とかして無理に冗談を言った。「それではどこかの街角で。煙草を二本まとめて吸ってるおじさんが私だから」
 「ここでそういうおしゃべりはなしだ」とトムが苛々して言った。すると、後方でトラックが忌々しそうにクラクションを鳴らした。「俺についてきてくれ。セントラル・パークの南側、プラザ・ホテルの前まで行く」
 トムは何度か振り返り、二人の車を確認した。交通が混雑して速く走れないときは、速度を緩め、二人の車が目に入るようにした。思うに、彼らが脇道を突っ切り、彼の人生から消えてしまうのを恐れていたのではないか。
 けれども、そんなことはなかった。結局私たちは、説明のつかない選択をしてしまうことになった。プラザ・ホテルのスウィートを借りたのだ。
 どういう顛末で皆であの部屋に行くことになったのか。間延びした喧々囂々(けんけんごうごう)の議論は今となっては思い出せない。けれども、その渦中で私の下着は汗を含み、湿った蛇のように両脚をずっと這い上がってきたのと、時折汗の粒が背中を斜めに伝っては冷たくなっていったのは、今でも生々しく覚えている。そもそもは、デイジーが、バスルームを五つ借りて水風呂を浴びるのはどうかしらと言ったのが始まりだった。それがもう少し具体的になり、「ミント・ジュレップ(訳注:バーボンに砂糖を加え、砕いた氷の上に注ぎ、ミントの葉を添えたカクテル)が飲める場所」ということになった。私たちのそれぞれが、何度も、何度も、そんなのは「クレイジーな考え」だと言った。――ホテルに着くと、皆が一斉に受付係に話しかけ、彼女を当惑させた。皆が、自分たちは愉快にやっていると思っていた――いや、そう思っている振りをしていただけなのかもしれないが……。
 部屋は大きく、むっとしていた。もう午後四時だったが、窓という窓を開けても、公園の低木から熱風が吹いてくるばかりだった。デイジーは鏡台に行き、背を向け、立ったままで髪を直した。
 「すぅてきなスゥウィート」とデイジーは気を遣ってささやいた。それで、皆が笑った。
 「他の窓も開けてよ」とデイジーが背を向けたまま言った。
 「他のは、もうないよ」
 「そっか。電話して斧でも――」
 「とにかく、暑いのは忘れることだ」とトムがぴしゃりと言った。「ぐちぐち言うから、十倍くらいに暑くなる」
 彼は、ウィスキーのボトルをくるんでいたタオルを外し、ボトルをテーブルの上に置いた。
 「そっとしておいてあげられませんか、オールド・スポート」とギャツビーが間に入った。「街にいらしたいとおっしゃったのはあなたでしょう」
 沈黙があった。釘に掛けてあった電話帳が、びしゃんと音をたてて床に落ちた。そこで、ジョーダンがこっそり「ごめんね」と言った――けれども、今度は誰も笑わなかった。
 「拾うよ」と私が言った。
 「私が」と言って、ギャツビーはちぎれた紐を点検した。興を惹かれたように「ほぉ!」と小声で言った。そうして、電話帳を椅子の上に放った。
 「なかなかの物言いじゃないですか」とトムが棘々(とげとげ)しく言った。
 「何がです?」
 「オールド・スポートというのですよ。どこで覚えたんだ?」
 「ねえ、トム」とデイジーが鏡からこちらを向いて、言った。「立ち入ったことを言うんだったら、私、帰るよ。フロントに電話して。ミント・ジュレップの氷を頼んで」
 トムが受話器を上げた。圧搾されていた熱気が爆発して音になった。私たちは、受話器から聞こえる、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』の大仰な和音に耳を澄ませた。
 「一体誰が、この暑い中に結婚するんでしょう」とジョーダンが参ってしまったような声を絞り出した。
 「でも――私が結婚したのは六月の半ばよ」とデイジーが思い出したように言った。「六月に、ルイヴィルで。熱中症で気を失った方もいらしたっけ。どなただったかしら、トム?」
 「ビロクシ」と彼は簡潔に答えた。
 「そう、ビロクシっていう男の人。ブロクス(訳注:積み木)・ビロシキって呼ばれてて、箱を作るのがお仕事だったの――嘘じゃなくて――で、テネシーのビロクシのご出身」
 「皆が私の家に連れて来たの、その人」とジョーダンが相槌を打った。「私の家が、教会から二件隣だからって。それでその人、三週間も家にいたんだよ。とうとうお父さんが『出て行きなさい』って言ったんだけど、その次の日にお父さんは死んじゃった」少しして、彼女は、まるで自分が、関係のない話をしているような印象を与えたのではないかとでも言うように、こう付け加えた。「だからお父さんが死んじゃったって言うんじゃないよ」
 「メンフィス出身のビル・ビロクシという人なら、昔知り合いだったよ」と私は言った。
 「その人は従兄だね。家族歴については、家を出ていく前には全部知っていたから。頂いたアルミのパターは今でも使ってるよ」
 式が始まったときには音楽は止んでいた。今では、長く続く歓声が立ち上って窓から室内に入って来た。後に、散発的に「イー、イー、イー!」という声が聞こえた。そうして、ダンスとともに、ジャズの演奏がどっと始まった。
 「私たちも、歳ね」とデイジーが言った。「若かったら、立ち上がって皆で踊るのに」
 「ビロクシのこと、忘れないで」とジョーダンが彼女の出鼻を挫いた。「トム、あなたはどちらでその方と知り合ったの?」
 「ビロクシのこと?」とトムは散りかけた注意を集中した。「俺は直接は知らないよ。デイジーの友達じゃないのか」
 「違うよ」とデイジーは言った。「式の前にはお会いしたことがないもの。貸し切りの車でいらしたのよ」
 「そうか、あいつはお前の知り合いだと言ってたけどな。ルイヴィルで育った、ともね。直前になってアサ・バードが連れて来て、こいつの席はまだあるか、と訊いてきたんだよ」
 ジョーダンは、笑んだ。
 「物乞いでもしてお家に帰ろうとしてたのかしら。イェールではお二方のクラスの代表をなさってたってお話してくれたのに」
 トムと私はぽかんとして顔を見合わせた。
 「ビロクシ、という人が?」
 「そもそも、クラスの代表なんていう制度はない――」
 ギャツビーが足下で、トントン、トントン、と落ち着きなくリズムを刻んでいた。突然に、トムが見咎めた。
 「ところで、ミスタ・ギャツビー。あなたはオックスフォード卒だと聞き及んでおりますが」
 「正確にはそうではありません」
 「ほう。オックスフォードに通ってらしたとのことですが」
 「ええ、行っておりました」
 間。それから、疑い深く、侮蔑の込もったトムの声が響いた。「ビロクシがニュー・ヘイヴン(訳注:イェール大学の所在地)に行っておったときには、君もオックスフォードに行っていたんでしょう」
 さらに、間。給仕が扉をノックし、潰されたミントと砕かれた氷を持って入室し、「ありがとうございます」と言ったが、沈黙は破られなかった。そのまま、扉が静かに閉じられた。件のすさまじい詳細が、今や明らかになろうとしていた。
 「確かに行っておりました。今申し上げたように」とギャツビーが言った。
 「ええ、お聞きしました。ですが、いつのことか、お伺いできれば」
 「1919年のことです。行ったのは五ヶ月だけです。ですから、『オックスフォード卒』とは申し上げられません」
 トムは、私たちが自分と同じ不信感を表しているかと周りを見遣った。けれども、私たちの眼差しはギャツビーに注がれていた。
 「休戦(訳注:1918年11月11日)の後で、一部の軍人に与えられた機会でした」と彼は続けた。「イングランドないしはフランスの大学になら、どこへでも行く権利があったのです」
 私は立ち上がり、彼の背をぽんと叩いてやりたいと思った。かつて感じていた、彼への全幅(ぜんぷく)の信頼がたちまち蘇ってきた。そのうちの一つを、私はまさにそのとき感じていた。
 デイジーが立ち上がって、力なく笑み、テーブルへと歩み寄った。
 「ウィスキーを開けて、トム」と彼女は言いつけた。「私がミント・ジュレップを作ってあげる。一杯飲んだら、惨めな気持ちも醒めるんじゃない?……わ、このミント!」
 「待て!」とトムが噛み付いた。「ミスタ・ギャツビーにはもう一つお伺いしたいことがある」
 「どうぞ、どうぞ」とギャツビーは礼を崩さずに言った。
 「君は一体、私の家庭にどういった諍(いさか)いを持ち込もうとしているのか」
 さあ、もう二人は隠し立てできない。ギャツビーはほくそ笑んだ。
 「諍いなんて持ち込んでないじゃない」とデイジーは二人を交互に見た。「それは、あなたの方よ。少しは自分を抑えてよ」
 「自分を抑える!」とトムは信じられないとでも言うように繰り返した。「手をこまねいていて、どこの馬の骨とも分からん奴に妻を寝取られて平気でいるっていう生き方も近頃ではあるらしいけどな、俺はご免だ……。今じゃ、家庭生活とか家族制度が愚弄され始めている。次には奴らは、全部をひっくり返す。黒人と白人が混血するようになるぞ」
 トムは、熱に浮かされたように訳のわからない演説をぶちながら、紅潮していた。文明の最後の砦にたった一人で立ち向かっているとでも思っていたのだろう。
 「ここにいるのは皆白人なのに」とジョーダンがぼそっと言った。
 「俺は人好きがしない。でかいパーティーを開いたりしないしな。友達を作るには、家を豚小屋にしなくちゃならない――今の世の中ではな」
 私は皆と同じで、腹が立っていた。けれども、彼が口を開く度に笑いたくなった。遊び人から堅物への移行は、ここに極まれり。
 「『あなたに』言っておきたいことがあります、オールド・スポート――」とギャツビーは切り出した。けれども、デイジーが彼の意図を察知した。
 「お願い、やめて!」と彼女はおろおろしてギャツビーに割って入った。「お願い、皆でお家に帰りましょうよ。ねえ、お家に帰りましょうよ」
 「そうしようよ」と私は立ち上がった。「行こうぜ、トム。もう誰も飲みたくないしさ」
 「俺は、ミスタ・ギャツビーがおっしゃりたいことをお伺いしたい」
 「奥様は、あなたを愛していませんよ」とギャツビーは言った。「愛したことすらない。私を愛しているから」
 「お前、頭がおかしいのか!」とトムは反射的に怒鳴りつけた。
 ギャツビーは跳ね上がった。昂奮で、力がみなぎっていた。
 「愛したことすらないって言っただろ?」と彼も声を張り上げた。「あの女性(ひと)があんたと結婚したのは、私が貧しくて、待っていられなくなったからに過ぎませんよ。大きな間違いでしたが。でも、心の底では私以外の誰も愛したことはないんだ!」
 この瞬間、ジョーダンと私は立ち去ろうとした。けれども、トムとギャツビーが、留まるように促した。その頑固さでも二人は張り合っていた――まるで、どちらにも隠し立てすることはないし、自分たちの感情を傍で感じられるのは光栄だろうとでも言わんばかりだった。
 「座りなさい、デイジー」とトムは言った。父性的な響きを模索したが、うまくいかなかった。「何が起こっていたんだろうね。全部聞いてみたい」
 「何が起こっていたかはお話したでしょう」とギャツビーが言った。「五年続いています――そして、あなたはご存知なかったようだ」
 トムはきっとデイジーのほうに目を向けた。
 「こいつと五年も付き合ってきたのか?」
 「付き合っていたわけじゃありません」とギャツビーは言った。「そうじゃない。お会いすることはできなかった。でも、その間ずっと愛し合っていたんです、オールド・スポート。そして、あなたはご存知なかった。時には声を上げて笑ったものです」――けれども、彼の目は笑いなどはちっとも湛(たた)えていなかった――「あなたがご存知ないと思うと」
 「ああ、それだけのことか」トムは聖職者のように分厚い指をとんとんと打った。そうして、椅子に深く腰掛けた。
 「頭がおかしいのか!」と彼は爆発した。「五年前に何があったかなんて、知るか。そのときにはまだデイジーと知り合ってなかった――食料品か何かを裏口に配達に来たんでもなけりゃ、お前がデイジーの一マイル以内に近づいたとは思えない。でもな、他のは全部、糞みたいな嘘だ。デイジーは結婚したとき俺を愛していたし、今だって俺を愛している」
 「いいえ」とギャツビーは言って首を振った。
 「ところが俺を愛してるんだよ。ときどき馬鹿な考えが浮かんで、自分が何をしてるのか分からなくなることはあるにせよ、な」彼は訳知り顔で頷いた。「それにな、俺だってデイジーを愛している。ときおり羽目を外して馬鹿な真似はしてしまう。でも、俺は必ず戻ってくる。いつも、心底あいつを愛してるんだよ」
 「気色悪い」とデイジーは言い、私の方を向いた。声を一オクターヴ低くした。彼女の声は、刺すような軽蔑で部屋を満たした。「どうして私たちがシカゴを離れたか知ってる?あのちょっとした騒ぎのお話を、皆が面白可笑しくするのはきっとお耳にしたでしょう?」
 ギャツビーが部屋を横切って、彼女の傍に立った。
 「デイジー、もう全部終わったよ」と彼は熱っぽく言った。「もうどうでもいいんだ。ただ、本当のことを教えてあげて――あの人を愛したことはないって――そうしたら、永遠に消えてしまうんだ」
 彼女は何も考えられずに彼を見た。「ねえ――どうして私があの人を愛せるっていうのよ――一体?」
 「君はあの人を愛したことはない」
 彼女は躊躇(ためら)った。訴えかけるような眼差しがジョーダンと私に注がれた。まるで、ついに自分のしていることが分かったようだった――そして、まるで彼女はこの方一度も、何もするつもりはなかったかのようだった。けれどもそれはなされてしまったのだし、もう手遅れだった。
 「あの人を愛したことはない」と彼女は言ったが、否応なしに言っているのが見て取れた。
 「カピオラニ(訳注:ハワイにある公園)でも?」と咄嗟にトムが質した。
 「ええ」
 下の舞踏室から、くぐもった、息の詰まるような和音が暑い気流とともにたゆたってきた。
 「パンチボウルの丘から君を抱っこして下ろしてやったときも?靴が濡れないようにと言って」彼の声色には、ハスキーな優しさがこもっていた……。「デイジー?」
 「やめて」彼女の声は冷ややかだった。だが、あの憎しみは消えていた。彼女はギャツビーを見た。「ねえ、ジェイ」と彼女は言った――けれども、煙草に火をつけようとしたとき、彼女の手は震えていた。突然彼女は、煙草と火のついたマッチを絨毯に投げ捨てた。
 「あなたは多くを求め過ぎよ!」と彼女はギャツビーに向けて叫んだ。「今でもあなたを愛してる――それじゃ不足?過ぎ去ったことはどうにもできない」どうすることもできずに、彼女はむせび泣き始めた。「かつてあの人を愛したことは、確かにあった――それでも、あなたのことも愛していた」
 ギャツビーの眼は開き、閉じた。
 「私のこと『も』愛していた?」と彼は繰り返した。
 「それにしたって、嘘だ」とトムは激しく言った。「こいつは、あんたが生きてることも知らなかったんだ。なあ、デイジーと俺との間にはな、あんたにはどうしたって分からんことがある。二人にとって忘れられない思い出もある」
 この言葉は、ギャツビーの肉を抉ったようだった。
 「デイジーと二人きりで話がしたい」と彼は言い張った。「デイジーは今はすっかり昂奮していて――」
 「二人きりでも、トムのことは愛したことがないなんて言えない」と彼女は痛ましい声で言った。「嘘になる」
 「もちろん、嘘になる」とトムが同意した。
 彼女は、夫の方を向いた。
 「関係ないでしょ」
 「大いにある。今からは、君のことをもっとちゃんとするよ」
 「あなたは分かっていない」とギャツビーが言った。微かにパニックを起こしていた。「あなたはもう、デイジーに優しくすることはこの先ないんです」
 「そうかい?」とトムは目を見開いて、声を上げて笑った。今では自分を抑えられるようになっていた。「なぜだ?」
 「デイジーがあなたの元を去るからですよ」
 「冗談じゃない」
 「でも、そうなのよ」と彼女は言ったが、目に見えて無理をしていた。
 「デイジーが俺の元から出ていくわけがないだろう!」トムの言葉は突然、ギャツビーを威圧した。「盗んだ指輪しかはめてやれないような卑しい身分の詐欺師のために、俺の元を出ていくもんか」
 「もう嫌!」とデイジーは叫んだ。「ねえ、もうここを出ましょうよ」
 「ところで、あんた、何者だ?」とトムが切り出した。「マイア・ウルフシャイムの取巻きの一人だろ――それくらいは偶々(たまたま)知っていてね。あんたのやってる仕事については、ちょっとは調べさせてもらった――明日にはもう少し調査を進めるつもりだ」
 「好きにしたらいい、オールド・スポート」とギャツビーは落ち着いて言った。
 「あんたのやってる『薬局』がどういうのか分かったよ」と彼は言って私たちの方を向き、捲し立てるように話した。「こいつとウルフシャイムって奴は、場末の薬局を多数買い占めた。ここニューヨークでも、シカゴでもな。そして、店頭で酒を売った。それが、こいつのつまらん事業とやらの一つだよ。初めて見たとき、酒の密売人だろうと踏んでいたが、まあ、大体当たっていたようだ」
 「それがどうなさいました?」とギャツビーは礼儀正しく言った。「お友達のウォルター・チェイスさんだって、この事業に加わったんですよ。気位が高すぎてできないということはなかった」
 「あんた、あいつを見捨てただろ?おかげであいつはニュージャージーの刑務所に一ヶ月行く羽目になった。全く!ウォルターがあんたの話をするのを聞かせてやりたいよ」
 「彼は一文無しで私たちのところに来たんです。いくらかお金になって大層喜んでましたよ、オールド・スポート」
 「俺のことを『オールド・スポート』と呼ぶのは止めろ!」とトムは怒鳴りつけた。ギャツビーは何も言わなかった。「ウォルターは賭博法違反であんたを訴えることだってできたんだ。ウルフシャイムが圧力をかけて口封じをしたけどな」
 見慣れぬ、けれども紛う方のない表情がギャツビーの顔に蘇った。
 「薬局事業なんて、まだ序の口だ」とトムはゆっくりと続けた。「だけど、あんた他にも企んでることがあるだろ。ウォルターは怖気づいて、俺にも話そうとしないんだけどな」
 私はちらりとデイジーを見た。怯えきった様子で、ギャツビーと彼女の夫の間をじっと見ていた。そして私はジョーダンを見た。目には見えない、けれども強烈に私を惹き付ける何かを顎の上に載せて、釣り合わせにかかっていた。そうして、私は、ギャツビーを見た――彼の表情には驚愕した――彼は――私は、彼の庭園で繰り広げられた、べちゃべちゃと口煩い誹謗中傷を心底軽蔑しているが、それでも――「人を殺したことがある」ように見えた。束の間ではあったが、彼の形相は、まさにそれほど凄まじい形容をするしかないものだった。
 それはやがて行き過ぎ、ギャツビーは昂奮してデイジーに話し始めた。全てを否定した。浴びせられてもいない批難に対してまで弁明をした。けれども、話せば話すほど、彼女は心を閉ざしてしまった。それで、ギャツビーは諦めた。午後の時間がひっそりと終わりを迎える中で、ただ破れた夢だけが戦いを続けた。今や触れることのできないものに触れようとして、苦悶し、けれども望みは捨てず、部屋の向こう側の失われた声へと懸命に手を伸ばした。
 その声が再び、帰りたいと請うた。
 「お願い、トム!こんなのは耐えられない」
 彼女の恐れ戦(おのの)いた目は、かつて彼女が抱いた、どのような意図も勇気も、確かに霧消してしまったことを示していた。
 「君らは二人で家に帰りなさい、デイジー」とトムは言った。「ミスタ・ギャツビーの車で」
 彼女は彼を見た。今では彼女は慄然としていた。けれども彼は、侮蔑を込めて彼女を赦した上で、そうするように言い張った。
 「さあ。もう鬱陶しいことはされないから。行き過ぎたつまらん火遊びはもう終わったって、この人はもう分かってるだろうからな」
 二人は出て行った。一言も発しなかった。引き剥がされ、必然性を剥奪され、孤立させられていた。私たちの憐憫も一役買って、二人は幽霊のように見えた。
 しばらくしてトムが立ち上がり、封を切っていないウィスキーの瓶をタオルで包み始めた。
 「飲むか?ジョーダン?……ニック?」
 私は応えなかった。
 「ニック?」と彼は再び訊いた。
 「何?」
 「飲むか?」
 「いや、いらない……そういえば、今日は僕の誕生日だ」
 私は三十歳になっていた。眼前には、由々しく、不穏な、未踏の十年の道が伸びていた。
 七時になって、私たちはトムの運転するクーペに乗り込み、ロング・アイランドに向けて出発した。トムはひっきりなしに話をした。勝ち誇ったように、大いに笑っていた。しかし彼の声は、ジョーダンからも私からも遠い所にあるように響いた。歩道で見知らぬ群衆が叫んでいるようでもあったし、頭上の高架鉄道が轟音を鳴らしているようでもあった。人間が持てる同情には限りがある。街の灯が後方に流れてゆくのと同時に、トムとギャツビーが交わした凄惨な紛擾(ふんじょう)の全ても色褪せていった。それで、私たちはほっとしていた。三十歳――それは、孤独な十年の訪れを告げていた。独り身の男友達は少なくなるし、情熱の詰まったブリーフケースはどんどん小さくなるし、そして、髪は薄くなるに違いない。しかし、傍にはジョーダンがいた。デイジーとは違い、道理をよく心得ている。うまく忘れられる昔の夢を、いつまでも引きずることはない。真っ暗な橋を渡ったとき、彼女の蒼い顔が気怠そうに私の上着の肩に載った。三十歳になったというのには、堪(こた)えた。けれども、彼女の手が「大丈夫」とでも言うように私の掌を抑えてくれるのを感じていると、私の怖れは徐々に消えていった。
 そんなふうに私たちは、涼しくなりつつあった宵の中を、死に向かって走り続けた。


 ミケイルスなる若いギリシャ人青年(灰の山々の傍らで、安コーヒー屋をやっていた)が、検死における最重要目撃者であった。彼は灼熱の中、五時過ぎまで眠り、工場(こうば)までのんびり歩いた。そして、ジョージ・ウィルソンが事務室で具合が悪そうにしているのを見つけた。すっかり弱りきっていた。自分の薄色の髪のような血の気の引いた顔色で、全身が震えていた。ミケイルスは、寝ろと言ったが、ウィルソンは拒んだ。仕事を休むわけにはいかない、と言った。隣人であるミケイルスが説得にかかっていると、頭上でドカンという音が聞こえた。
 「女房を閉じ込めていてね」とウィルソンが平然と説明した。「あいつは明後日まではあそこにいる。それから、二人で出ていくよ」
 ミケイルスは驚愕した。四年来の隣人である。ウィルソンはそんなことを言える男ではなかった。仕事をしていないときには戸口に置いた椅子に座り、道路を過ぎ行く人や車を見つめているだけの、典型的な「疲弊しきった」男だった。話しかけられたときには相手に賛意を示して笑ってやるが、単なるお仕着せといった具合なのが常だった。彼は、彼の妻が結婚している男でしかなく、彼自身はまるで個性を欠いた存在だった。
 だから当然、ミケイルスは、何が起こったのか知ろうとしたのだが、ウィルソンは一言も発しようとしなかった――代わりにウィルソンの方が、この来訪者を面白そうに、また疑わしそうにちらりちらりと見遣り、いついつの何時に一体何をしていたのかと尋ね始めた。来訪者が落ち着かなく感じ出したと同時に、労働者が何人か扉の前を過ぎ行き、彼のコーヒー屋に向かっていった。ミケイルスはこの機会を利用し、「後で戻る」と言って立ち去った。けれども彼は戻って来なかった。ウィルソンは、忘れたんだろうと思った。それだけのことだ。七時を少し過ぎた頃に表に出たとき、ミケイルスはあの会話を思い出した。ミセズ・ウィルソンの声を聞いたからだ。階下の工場(こうば)で、大声で、怒鳴りつけていた。
 「ぶってみろよ!」彼は、彼女が叫ぶのを聞いた。「投げ飛ばして、ぶってみろよ、この、汚らしい、けちな、腰抜け!」
 少しして、彼女は黄昏の中に飛び出した。両手を振って、何かを叫んでいた――ミケイルスが扉から一歩踏み出す前に、全ては終わっていた。
 その「死の車」――そう新聞は書き立てた――は停まらなかった。それは、凝縮しつつある闇から飛び出し、しばしよろめいた。惨劇だった。そうして、次の角を曲がって消えてしまった。ミケイルスは、車体の色すら確かでなかった――彼は、一人目の警察官には車は薄い緑だったと言った。後からもう一台、ニューヨーク方面に向かう車があった。それは現場から百ヤード行き過ぎたところで停まり、運転手がマートル・ウィルソンのところまで慌てて戻って来た。彼女は、力づくでその生命を奪われ、路上に両膝を付けて伏していた。どろりとした黒い血液が灰燼と混じっていた。
 ミケイルスとこの男が、初めに彼女の元に到った。けれども、まだ汗で湿ったブラウスを裂いてみると、左の乳房はもぎ取られ、ぶらぶらしていた。その下の心臓の音を求める間でもなかった。口は大きく開かれ、両方の角が裂けていた。長く温めていた巨大な活力を放ったときに、息ができなくなったかに見えた。
 私たちには、まだ現場から離れた所から、三台か四台の車と、人だかりが目に入っていた。
 「事故だ!」とトムは言った。「良かったじゃないか。とうとうウィルソンに、ちょっとした仕事が舞い込んできた」
 彼は車の速度を緩めようとしたが、依然、車を停めるつもりはなかった。けれども、近づいてみると、人々の、静まり返った、真剣な顔つきが修理店の扉のところにあった。それで彼は、思わずブレーキを踏み込んだ。
 「見てみよう」と彼は疑わしそうに言った。「見るだけだ」
 今では私は、虚ろな嘆き声に気がついていた。それは、ひっきりなしに工場(こうば)から発せられていた。私たちがクーペから降りて扉の方に歩いていると、その嘆き声は、「ああ、神様!」という言葉の形を取った。嗚咽の中で、その言葉は、何度も、何度も繰り返されていた。
 「ひどい事件みたいだな」とトムが興奮して言った。
 彼は爪先で歩いて近づいて行き、輪になった人々の頭越しに、工場(こうば)を覗き込んだ。そこを照らすのは、金網で囲われた黄色い裸電球だけだった。それからトムは、喉の奥で耳障りな音を立て、力強い両腕で乱暴に人だかりを掻き分け、前に進み出た。
 批難の声がぶつぶつと立ち上がったが、輪は再び閉じた。一分ほどは私には何も見えなかった。それから、また別に来た何人かが輪を乱し、ジョーダンと私は突然、輪の中に押し出された。
 マートル・ウィルソンの遺体は、熱帯夜の中で悪寒を感じているかのように、毛布で二重に包(くる)まれ、壁の傍に設置された作業台に横たえられていた。トムは私たちに背を向け、遺体の上に被さるように屈(かが)み込み、微動だにしなかった。彼の隣にはオートバイ警官が立っていて、小さな手帳にしきりに人の名前を書き付けていた。汗だくで、何度も書き直しをしていた。初め私は、がらんどうの工場(こうば)で大きく反響する、あの声高の呻きを発しているのが誰なのか、見つけられなかった――やがて、ウィルソンが、事務室の、周りよりも盛り上がった敷居の所に立ち、両手で扉の両側の柱に掴まって、前後に身体を揺らしているのが目に入ってきた。ある男が低い声でウィルソンに話しかけ、時折、肩に手を載せようとしていた。けれどもウィルソンには何も見えていなかったし、何も聞こえていなかった。彼は、揺れる裸電球から、壁の傍の、遺体を載せた作業台に視線を落としては、びくんと裸電球に視線を戻すというのを繰り返していた。口からは、ひっきりなしに、声高の、おぞましい叫びが洩れた。
 「ああ、かみ、さま!ああ、かみ、さま!ああ、かみ、さま!ああ、かみ、さま!」
 今ではトムもびくんと頭を上げ、虚ろな目で工場(こうば)を見渡すと、もごもごと意味の通らないことを警官に向かって述べた。
 「M-a-y-」と警官は言っていた。「-o――」
 「違う。r-」と男は訂正した。「M-a-v-r-o――」
 「聞いてくれ!」とトムはもごもごした口調で厳しく言った。
 「r」と警官は言った。「o――」
 「g――」
 「g――」肩にトムの大きな手がどすんと載ったので、警官は顔を上げた。「何だね?」
 「何が起こったんですか?――それが知りたくて」
 「車に轢かれたんだ。即死だった」
 「即死だった」とトムは繰り返した。目を見据えていた。
 「道路に飛び出してきたんだよ。あの糞野郎、車を停めもしなかった」
 「二つくるまいた」とミケイルスは言った。「ひとつきて、ひとつ行った、わかる?」
 「どこに行った?」と警察官が鋭く問い質した。
 「どっちにも行った。えっと、おんなのひと」――彼の手が毛布で二重に包まれた遺体の方に向けて上がったが、途中で止まり、身体の横にだらんと落ちた。「おんなのひとが飛び出してきて、もう一つ、ヌヨークから来たのがおんなのひとに突っ込んだ。時速三十マイルか四十マイル」
 「ここの地名は?」と警官が質した。
 「名前はないです」
 顔色の優れない、きちんとした身なりをした黒人が近くに歩み出た。
 「黄色い車でした」と彼は言った。「大きくて、黄色い車です。新車でした」
 「事故を見たのか?」と警官は訊いた。
 「いいえ、でも、その車は、私の傍を通過して道路を走って行ったのです。時速四十マイルよりは速かったと思います。時速五十マイルか、六十マイル」
 「こっちに来て、名前を教えてくれ。ほらほら、この方の名前を訊かなきゃならないんだよ」
 この会話の一部がウィルソンの耳に届いたに違いない。彼は事務室の扉の所で身体を揺らせていたが、突然、これまで発しなかった内容が、嗚咽の中に現れたからだ。
 「車の種類は言わなくていい。知ってるんだ」
 トムを見た。肩の後ろの筋肉の盛り上がった部分が、上着の下できゅっと締まった。彼は足早にウィルソンの元に歩いて行くと、真向かいに立って、両方の二の腕をぎゅっと握った。
 「しっかりしろ」と彼はなだめるように言ったが、荒々しさは隠せなかった。
 ウィルソンの両眼がトムを認めた。彼は驚いて、ぴょんと爪先立ちになった。トムが身体を真っ直ぐに支えてやっていなければ、膝から崩れ落ちていただろう。
 「聴くんだ」とトムは、ウィルソンの身体を軽く揺すりながら言った。「俺は一分前にここに着いたばかりだ。ニューヨークからな。話していたクーペを持って来てやったぞ。今日の昼間に俺が運転していた黄色い車は、俺のじゃない――聞こえてるか?黄色いのは、この午後ずっと目にしていない」
 あの黒人と私だけが、彼の言っていることが聞こえる距離にいた。けれども警官は、トムの声の調子に何かを感じ、警戒の目を向けた。
 「何だ?」と彼は質した。
 「この人の友達なんです」と言って、トムが振り返った。けれども、彼の両手はしっかりとウィルソンの身体を掴んでいた。「轢き逃げした車を知ってると言っています……黄色の車です」
 杳(よう)とした衝動に駆られ、警官は疑わしそうにトムを見た。
 「あんたの車は何色だ」
 「青です。クーペです」
 「僕たちは、ニューヨークから真っ直ぐ来たんです」と私は言った。
 私たちの少し後ろを運転していた人が、確かにそうだと言ってくれた。それで警官は、元の作業に戻った。
 「さあ、もう一回名前を正しく教えてくれ――」
 トムは、人形のようにウィルソンを持ち上げ、事務室に連れて行った。椅子に座らせ、こちらに戻ってきた。
 「誰かここに来て、こいつと一緒にいてやってくれないか?」とトムは早口で指図がましく言った。トムが見ていると、一番近くにいた男二人が顔を見合わせ、渋々部屋に入って来た。それでトムは扉を閉め、段を一段降りた。作業台には目を遣ろうとしなかった。私の傍を過ぎ行くとき、彼は、「さあ、引き上げよう」と囁いた。
 私たちは人目を気にしていたが、トムが「どけどけ」とでも言わんばかりに両腕で、依然どんどん大きくなっていく人だかりを掻き分け、ジョーダンと私が後に続いた。息せき切った、診療鞄を持った医者と途中ですれ違った。誰かが一縷の望みを託して、半時間前に呼んだのだった。
 トムはカーブを越えるまではゆっくりと運転した――それから彼はぐっとアクセルを踏み込んだ。クーペは夜の闇を疾駆した。少しして、低く嗄(しゃが)れたすすり泣きが聞こえた。涙が溢れ、彼の頬を伝った。
 「くそっ!あの腰抜け!」と彼は小さな声で言った。「あいつ、停まることすらしなかった」


 ビュキャナン邸が突然、私たちの眼前に浮かび上がった。行く手では真っ暗な樹々がかさかさと音を立てていた。
 トムが玄関の脇に車を停め、二階を見上げた。蔓の中で煌々と光を湛える窓が二つあった。
 「デイジーは家にいる」と彼は言った。私たちが車を降りると、彼は私を見て、少し顔をしかめた。
 「ウェスト・エッグでお前を降ろしてやってればよかったな。今日はしてやれることはないよ」
 彼には心境の変化があったようだった。物々しく、きっぱりとした口調で話をした。私たちが、月光に洗われている砂利道を越えて玄関まで歩いているとき、彼は幾分ぶっきらぼうな言い方で事態を収拾した。
 「タクシー会社に電話して、家まで送らせるよ。待ってる間、お前とジョーダンは厨房に行って、夕食を作らせたらいい――よければ、だけどな」彼は扉を開けた。「入ってくれ」
 「遠慮するよ。だけど、タクシーは呼んでもらえるとありがたい。僕は外で待つ」
 ジョーダンが私の腕に手を載せた。
 「おいでよ、ニック」
 「いや、いい」
 私は少し吐き気がしていた。一人になりたかった。けれどもジョーダンはしばらくぐずぐずとそこに留(とど)まった。
 「まだ九時半だよ」と彼女は言った。
 死んでも中に入りたくなかった。この一日、何もかもにうんざりしていた。そこで突然、この幻滅はジョーダンにも及んだ。彼女は私の表情に、少しはそれを見て取ったのだろう。というのは、彼女は突然そっぽを向き、玄関の階段を駆け上がって邸の中に入ってしまったからだ。私は両手で頭を抱え、数分間は座り込んでいた。すると、邸内から、電話の受話器が取り上げられ、執事の声がタクシーを呼んでいるのが聞こえた。そこで私は、車回しをゆっくりと歩いて邸から離れていった。門の所で待つつもりだった。
 二十ヤードも行かないうちに、私の名前が呼ばれるのが聞こえた。ギャツビーが、二つの低木の間から小径に一歩踏み出してきた。そのときまでに、私はかなり変な心地になっていたに違いない。月光の下でピンクのスーツが光っていることしか考えられなかったからだ。
 「何してるんだ?」と私は質した。
 「ただここに立ってるだけだよ、オールド・スポート」
 どういうわけか、それは唾棄すべき行いに思われた。私の知ったことではないが、少ししたら邸で強盗を働くつもりなのだろう。たとえ彼の後ろの暗い茂みの中に、不吉な面々が――ウルフシャイム一味の面々が――あっても、私は驚かなかっただろう。
 「道路で何か面倒なことが起こってなかった?」と彼はしばらくして尋ねた。
 「そうだね」
 彼は躊躇した。 
 「女は、死んだか?」
 「死んだよ」
 「そうだと思った。デイジーにも、『死んだと思う』って言ったんだ。これもきついことだけど、そういうのが全部まとめて来たのは、むしろ良かった。デイジーはしっかり持ちこたえてくれた」
 彼はまるで、デイジーの反応だけが問題であるかのように話した。
 「脇道を通ってウェスト・エッグまで辿り着けたよ」と彼は続けた。「それで車は車庫に置いてきた。誰も見ていないと思う。でも、もちろん、確信はできないけどね」
 このときまでに私は、彼のことがほとほと嫌になっていたから、誤りを指摘してやる必要もないと思った。
 「死んだ女は誰なんだ?」と彼は訊いた。
 「ウィルソンという名前だよ。旦那が車の修理店をやってる。なあ、一体どうしてあんなことが起こったんだ?」
 「私はハンドルを奪って回そうとしたんだ――」そこで彼は話を止めた。突然、私は真実に思い当たった。
 「デイジーが運転していたのか?」
 「そうだよ」と彼は少しして言った。「でも、もちろん私が運転したと言うよ。ほら、ニューヨークから出発したとき、デイジーはすごく気が立っていてさ、『運転したら落ち着くと思う』と言ったんだ――それにあの女は、別の車とすれ違ったところに飛び込んできたんだよ。一瞬のことだった。でも、何か言いたいことがありそうだったな。知り合いだと思ったんじゃないか。そう、まずデイジーがその女を避(よ)けて、対向車の方にハンドルを切ったんだ。そこで怖気づいて、ハンドルを切り返した。それから私がハンドルに手を伸ばしたんだが、衝撃を感じた――即死だったはずだ」
 「身体が裂けて――」
 「言わなくていい、オールド・スポート」彼は顔を歪めた。「とにかく――デイジーはアクセルを踏み込んだ。何とか車を停めさせようとしたよ。でも、彼女は停められなかった。それで私はサイドブレーキを引いた。彼女は私の膝に倒れ込んで、その後は私が運転を続けた」
 「デイジーは、明日にはもう大丈夫だろう」と少しして彼は言った。「私はここに待機する。あいつが、昼間の不愉快なことで、デイジーを困らせようとしたりしないか見張っておく。デイジーは鍵をかけて部屋に閉じこもっているよ。もしあいつが手を出そうとしたら、部屋の灯りを点滅させることになってるんだ」
 「トムは手を出さないよ」と私は言った。「今はそれどころじゃないから」
 「あいつは信用できないからね、オールド・スポート」
 「どれ位ここにいるつもりだ?」
 「必要とあれば、一晩いるよ。とにかく、皆が寝静まるまでだね」
 私は、これまでになかった見方を思いついた。もしトムが、デイジーが運転していたと知ったら。彼は、そこに一種の繋がりがあると思うかもしれない――どんなことだって思いつくだろう。私は邸を見た。一階では二つか三つ、明るい窓があった。二階では、デイジーの部屋から煌々としたピンクの光が洩れていた。
 「ここで待ってて」と私は言った。「騒ぎになる兆しがないか見てくる」
 私は芝の境界に沿って踵(きびす)を返した。そっと砂利道を横切った。そして、爪先歩きでヴェランダの段を昇った。応接間のカーテンは開けられていて、中には誰もいないことが確認できた。三ヶ月前の六月に夕餐をともにしたヴェランダを越え、パントリー(訳注:食品や食器等を収めた部屋)の窓と思しき、小さな長方形の光に到った。ブラインドは引かれていたが、窓の下側に隙間があった。
 デイジーとトムは、テーブルに向かい合わせで座っていた。冷めたフライドチキンの皿とエイルビールのボトルが二本、二人の間にはあった。トムは熱心にテーブル越しのデイジーに話をしていた。昂奮して彼の片手は彼女の手の上に落ち、それを包んでいた。時折彼女は彼を見上げ、同意したように頷いた。
 どちらも幸せではなかった。二人とも、チキンにもエイルビールにも手を付けなかった――けれども二人は、不幸せというのでもなかった。その光景には、紛う方なく、ごく自然な親密の感があった。誰が見ても、何かを共謀していると思っただろう。
 ヴェランダから爪先立ちでこっそり戻っていると、タクシーが邸の方へ、暗い道を探りながら進んで来るのが聞こえた。ギャツビーは、車回しの同じ所で待っていた。
 「上は静かだったか?」と彼は不安そうに訊いた。
 「ああ、全く静かだったよ」と私は躊躇(ためら)いつつも言った。「家に帰って寝た方がいい」
 彼は首を振った。
 「デイジーが寝るまではここにいたいんだ。おやすみ、オールド・スポート」
 彼は両手を上着のポケットに突っ込んで、再び邸の見張りに集中し始めた。まるで、寝ずの番という神聖な仕事を、私の存在が穢(けが)してしまうかのようだった。それで私は歩き去った。彼は月明かりに洗われ、そこに立っていた――何も見張っていなかったのに。

The Great Gatsby 第6章

Chapter VI

その頃、青雲の志を抱いた若い新聞記者がニューヨークからやって来た。ある朝ギャツビーの邸の門扉に到着し、何か言うべきことはないかと彼に尋ねた。
 「申し上げるべきことといいましても、何についてです?」とギャツビーは礼儀正しく尋ねた。
 「そりゃ、お話できることなら何でも」
 ごたごたの五分ほどが過ぎると、事情が見えてきた。この記者には何かコネがあって、自社の辺りでギャツビーの名前を聞き及んでいたのだ。けれども、そのコネについてはどうしても明かそうとしなかった。あるいは、彼自身もそのコネについてはよく分かっていなかったのかもしれない。その日は公休であったにもかかわらず、殊勝にも、率先して慌てて「確かめに」出てきたわけだ。
 当てずっぽうだったが、この記者の本能は正しかった。ギャツビーの悪評は、彼の歓待を享受し、今や彼の過去について一家言(いっかげん)を持つ数百の人々によって広められ、その年の夏を通して募るばかり、彼はすんでのところで新聞沙汰になるのを免れているといった具合だった。「カナダに通じる地下の流通経路」といった類の当時の伝説に彼は結び付けられた。彼は邸などというものには住んでいない、邸のような格好をして、秘密裏にロング・アイランドの岸辺で行きつ戻りつしている船に住んでいるのだという語種(かたりぐさ)まであって、それはかなりの期間人々の話題に上ったものだ。こうした作り話が一体なぜ、ノース・ダコタ出身のジェイムズ・ギャツにとって満足の源泉であったのか。説明するのは容易ではない。
 ジェイムズ・ギャツ――それが本当の、少なくとも法的な彼の氏名であった。彼が氏名を変えたのは十七歳のとき、人生の始まりを刻むある瞬間において――ダン・コウディの船が、スペリオル湖の一番警戒すべき浅瀬で、錨を降ろすのを目撃したときにおいてであった。その日の午後、破れた緑のジャージに帆布地のズボンという格好で湖畔を漫ろ歩きしていたのはジェイムズ・ギャツであった。しかしながら、漕舟を借りるやトゥオロミー号にまで到り、半時間後に風を受けたら船もろとも粉々になるかもしれないとコウディに教えてやったときには彼はもう、ジェイ・ギャツビーであった。
 そのときにはすでに彼は、その名前を心に長く温めていたのだろうと思う。彼の両親はうだつが上がらない貧農だった――彼が想像を巡らすとき、この二人が自分の両親だと受け入れることは決してなかった。実を言えば、ロング・アイランドのウェスト・エッグのジェイ・ギャツビーとは、プラトン(訳注:ギリシャの哲学者 紀元前429-347)のイデア的自己把捉から躍り出たものであった。彼は神の子であった――この物言いが何らかの意味をもつとしたら、まさに額面通りに受け取ってもらって構わない――。それゆえ彼は、父なる神の仕事に従事せねば、すなわち、巨大な、そして下劣な、虚飾に過ぎない美に奉仕せねばならなかった。そのようにして彼は、いかにも十七歳の少年が案出しそうなジェイ・ギャツビー像を編み出し、この観念に対して最期まで忠実であった。
 一年以上も彼は、スペリオル湖の南岸沿いで、貝を掘ったり鮭を釣ったり、他にも寝食をもたらしてくれることなら何でもやって道を拓いていた。彼の褐色の、日々締まってゆく肉体は、鮮烈な毎日がもたらす半ば激しく半ば物憂い労働を当然のように生き抜いてきた。女を知ったのは早かった。そして、女は自分をちやほやして堕落させるというので、彼は女を軽蔑するようになった。まだ男を知らない女は無知だからと軽蔑したし、そうでない女については、彼が比類なき自己没入の中で当然視していることにいちいち昂奮して我を失うからというので軽蔑した。
 けれども心はいつもそわそわと落ち着かなかった。そして、夜間に寝ているときに取り憑く想念ほどにおぞましく、また途方もないものはなかった。頭の中では、名状しがたいほどにけばけばしい宇宙が紡ぎ出され、その間、洗面台の上では時計が時を刻み、濡れた月明かりが、床で絡まり合った服を洗っていた。夜毎に彼は、想念という糸の成す模様を膨らませ、そのうちに眠気は、華やかな光景の上に帷(とばり)のように下りて来て、気が付かないうちに彼を優しく抱擁してしまうのであった。しばらくは、こうして夢想を重ねることは、彼の想像力の捌(は)け口となった。現実の非現実性を十分に仄(ほの)めかしてくれた。巌(いわお)の世界が、妖精の翼の上に堅牢に築かれているのだと請け合ってくれた。
 将来の栄光を嗅ぎつけていた彼は、その数ヶ月前に聖オラフ大学という、ミネソタ州南部にあるルター派の小さな大学に入っていた。そこには二週間しか在籍しなかった。この大学は、彼の運命の高鳴りにも、それどころか運命そのものにさえも徹底して冷淡で、彼は幻滅してしまったからだ。学費を納める代わりにすることになっていた守衛の仕事にも我慢がならなかった。それで彼はスペリオル湖にふらりと舞い戻り、依然、何かすることを探していた。そしてまさにその日、ダン・コウディの船が湖畔沿いの浅瀬に投錨したのだ。
 当時コウディは五十歳だった。彼は、ネヴァダ州の銀鉱床の、ユーコン地区の(訳注:カナダの準州。1896年、同州クロンダイク地方で金鉱が発見された)、そして、1875年以降のあらゆる金属ラッシュの申し子であった。モンタナ産の銅の取引で巨万の富を築いたのだが、そのいきさつの中で、彼は頑健な人物である一方、情に絆(ほだ)されやすいところがあることが知られるようになった。この弱みに勘付き、彼を富から引き剥がそうとした女は数え切れないほどいた。けれども、犬も食わぬような帰結を見越したのは、エラ・ケイなる女性新聞記者で、マントノン侯爵夫人(訳注:フランス絶対王政の最盛期の王であるルイ十四世に寵愛された女性)よろしく男の弱さに付け込み、彼を船に乗せて海上に送り出したのであったが、このことは、1902年のイエロー・ジャーナリズムにとっては常識であった。それから彼は五年に渡って海沿いを帆走した。停泊する度に身に余る歓待を受けていた。そんな折に彼は、ジェイムズ・ギャツの運命を司る力として、リトル・ガール湾に姿を現したわけだ。
 両腕を櫂に載せて一息つき、手摺(てすり)のついた甲板を見上げた若きギャツにとって、その船は世界のあらゆる美と魅惑とを具現したものだった。彼はコウディに向かって微笑んだだろうと思う――おそらく彼は、自分が微笑むと人々が彼に好意を抱くことに気づいていただろうから。とにかく、コウディは彼にいくつか質問をし(そのうちの一つに対して、彼は真新しい氏名を告げたわけだ)、この若者が怜悧なこと、そして、並々ならぬ大望を抱いていることを見抜いた。数日後に彼は、ジェイ・ギャツビーをダルース(訳注:ミネソタ州北東部に位置する都市)に連れて行き、青い上着を一着、白い帆布地のズボンを六本、それから船用の帽子を一つ買い与えた。そして、トゥオロミー号が西インド諸島を経由してバーバリー・コースト(訳注:サンフランシスコの海岸地域。一九世紀には賭博場や売春宿が集まった)に向けて出帆したとき、ギャツビーも同行したのだった。
 旅中、彼の身分ははっきりしなかった。コウディとともにいる間、ギャツビーは船室係、航海士、船長、ひいては看守にまでなった。というのも、素面(しらふ)のダン・コウディは、酔ったダン・コウディがどれほどの「散財」をいとも簡単にしがちなのか心得ており、したがって彼は、ますますギャツビーに信を寄せることによって、そうした不測の事態に備えていたからだ。二人のこうした関係は五年続き、その間に船は北米大陸を三周した。ある夜にボストンでエラ・ケイが乗船し、その一週間後にダン・コウディはつれなくも客死してしまったのだが、この事実がなければ、二人の関係はいつまでも続いていただろう。
 コウディの顔写真がギャツビーの寝室に掲げられてあったのを覚えている。白髪の赤ら顔で、厳しい顔立ちではあったが、どこか表情に欠けていた――彼こそが開拓時代の遊び人だ。アメリカ人の暮らしの変革期に彼は、辺境の売春宿と酒場(サルーン)の激しい暴力を東海岸に呼び戻したのだ。ギャツビーがほとんど酒を飲まない間接的な理由はコウディにあった。時には、楽しいパーティーの最中(さなか)に女性客らがシャンパンを彼の髪に擦り込むことがあった。というのも、彼自身、酒には手を付けない習慣を確立していたからだ。
 そして、ギャツビーが金を相続したのはコウディからであった――二万五千ドルもの金だ。けれども実際には、その金はギャツビーの掌中に収まることはなかった。どのような法的謀略が用いられたのかはついにギャツビーも知ることはなかったのだが、巨額の財産は手付かずのまま、エラ・ケイの手に渡った。彼に残されたのは、奇特なほどに彼に適った教育であった。ジェイ・ギャツビーの未だ定まらなかった輪郭には、ひとかどの男の、実際性という肉が付いていた。


 彼が私に事の顛末を話してくれたのはずっと後になってからのことだった。今ここで、こうしたことを書き留めておくのは、彼の来し方についての流言蜚語の誤りを正しておきたいとの思いからである。どの噂も全く荒唐無稽であった。更には、彼が私に話してくれたのは、混迷の時だった。そのときまでに私は、彼についての全てを信じるようになっていたし、同時に、何も信じないようにもなっていた。そういうわけで、私は、言うなればギャツビーが一息ついているこの小休止を利用して、一連の誤謬を払拭しておきたいわけだ。
 それは、彼の関心事から私が遠ざかっていた期間でもあった。数週間に渡り、私は彼と会うこともなかったし、電話で彼の声を聞くこともなかった――私は概ねニューヨークにいて、ジョーダンと街を動き回っていた。彼女の、高齢で頭が弱くなった伯母さんの機嫌を取ったりもしていた。けれども私は結局、ある日曜の午後に彼の邸を訪れた。そこに着いて二分もしないうちに、誰かが「何かお飲み物でも」と、トム・ビュキャナンを邸内に招き入れた。当然私は仰天したのだが、本当に驚くべきは、こんなことはこれまで起こらなかったということだ。
 トムと二人の連れ――スローンという男と、茶色の乗馬用ドレスを纏(まと)った綺麗な女性――は、馬に乗って来ていた。二人は以前にここに来たことがあった。
 「お会いできて嬉しいです」とギャツビーは玄関に立って挨拶した。「お立ち寄りいただき、光栄です」
 まるで、そう言ったら、奴らの歓心が買えるかのように!
 「お掛けください。煙草でも葉巻でもお召し上がりくださいね」彼は足早に室内を歩き回り、いくつかのベルを鳴らした。「すぐに飲み物を持たせます」
 彼は、トムがそこにいる事実に大いに動揺していた。しかしいずれにせよ、彼らに何かを供するまでは、彼は気が休まることはなかっただろう。何となくではあれ、彼らがやって来る理由はそれしかないと分かっていただろうから。ミスタ・スローンは何もいらないと言った。レモネードは?いや、結構。シャンパンを少し?いや、結構、何もいりません……すまないが――
 「乗馬はいかがでしたか」
 「この辺りは道が良いね」
 「自動車が――」
 「そうですな」
 抗いがたい衝動を堪えきれず、ギャツビーはトムの方を向いた。トムは、ギャツビーとは初対面でしょうと紹介を受けたところだった。
 「どこかでお会いしたと思います、ミスタ・ビュキャナン」
 「ああ、そうでした」とトムは短く慇懃に言った。だが、明らかに覚えていなかった。「そうです、そうです。よく覚えておりますよ」
 「二週間ほど前になります」
 「そうでした。あなたはニックと一緒だった」
 「奥様のことも存じ上げておりますよ」とギャツビーは挑みかかるように続けた。
 「そうですか?」
 トムは私の方を向いた。
 「お前はこの近くに住んでるのか?」
 「隣だよ」
 「そうか」
 ミスタ・スローンは会話に入ってこず、ふてぶてしく椅子の背に身体を預けていた。連れの女性も何も言わない――けれども、思いも寄らなかったことだが、カクテルを二杯呑んだ後で彼女は陽気になった。
 「次のパーティーには皆でお邪魔するわ、ミスタ・ギャツビー」と彼女は言った。「いかがかしら?」
 「もちろんですとも。いらしてくださるとは光栄です」
 「楽しみだね」とミスタ・スローンは、別にありがたくもなさそうに言った。「さて、もうお暇(いとま)せねば」
 「そんなに慌てなくても」とギャツビーは請うた。今では彼は自制が利いており、もう少しトムのことを知りたいと思っていた。「よろしければ、夕餐まではここにいらしてください。ニューヨークから他にもどなたかお見えになるかもしれませんし」
 「あなたは『私のとこに』いらして夕食を召し上がるのよ」と女性が熱心に言い張った。「お二人とも」
 私も含まれていた。ミスタ・スローンは立ち上がった。
 「おいで」と彼は言った――その言葉は、彼女にだけしか向けられていなかった。
 「本気なのよ」と彼女はなおも言い張った。「皆さんをお招きしたいの。家は広いんだから」
 ギャツビーは「いいのかな」とでも言わんばかりに私を見た。彼は行ってみたくて、それで、ミスタ・スローンが「お前は来るな」と思っているのが分からなかった。
 「僕は行けそうにありません」と私は言った。
 「いらしてよ」と彼女はしつこく言って、ギャツビーを説得しにかかった。
 ミスタ・スローンは、彼女の耳元で何かを囁いた。
 「今出発したら遅くはならないわよ」と彼女は声を上げた。
 「私は馬を飼っておりません。軍にいたときは乗っていたんですが、自分で馬を購入したことはないのです。車でついていかなければなりませんね。しばしお待ちを」
 残された私たちは、玄関に出た。スローンと女性は少し離れたところで言い合いを始めた。
 「おいおい、あいつ来るのかよ」とトムは言った。「彼女が気を遣って言ってるだけなのも分からないのか?」
 「あの人は、本気で来て欲しいって言ってるじゃないか」
 「彼女、豪華な晩餐会をやるんだけどな、あいつがのこのこ出て行っても、誰一人知り合いはいないよ」トムは難しい顔をした。「あいつは一体どこでデイジーと会ったんだ。全く、俺が古いのかもしらんが、近頃の女はあちこち出掛けて行き過ぎるのが不満だな。どこの馬の骨とも会うんだから」
 突然、ミスタ・スローンと女性は階段を下り、それぞれの馬に跨(またが)った。
 「来いよ」とミスタ・スローンはトムに向かって言った。「遅れるぞ。もう行かないと」そして、私にはこう言った。「『もう待てない』と申し上げていたと伝えてくれないか」
 トムと私は握手をしたが、それ以外の面々同士は冷淡な会釈を交わした。三人は馬を駆って車回しを抜け、八月の葉叢(はむら)の下(もと)に消えた。それと同時に、帽子と軽い上着を携えたギャツビーが表玄関から出て来た。
 明らかにトムは、デイジーがひとりで出掛けていることで落ち着かなく思っていた。だから次の土曜日の夜、彼はデイジーを伴ってギャツビーのパーティーにやって来た。その夜、何か重苦しい感じがしたのは彼の来訪に拠るものかもしれない――この夜のパーティーは、その夏の他のパーティーと比べると、私の記憶の中で際立っている。同じ人々が、少なくとも同じような人々がいた。同じようにシャンパンがふんだんにあって、同じように華やかで、高低音が入り混じった喧騒があった。しかし私には、その場の何かが不快だった。以前はなかった棘々(とげとげ)しさが瀰漫(びまん)しているのを感じていた。いや、ひょっとしたら私は単に慣れてしまっていたのだろう。ウェスト・エッグを、それ自体で完結した一個の世界として受け入れるようになっていたのだろう。そこには独自の基準があり、独特の偉大な人物がいて、右に並ぶものがなかった。それというのも、二番手になろうなどとは夢にも思わなかったからだ。けれども今、私はデイジーの目をもってウェスト・エッグを見直していた。自分が苦労して適応してきた事物を新たな視点で見ると、どうしても沈痛な思いがするものだ。
 二人が着いたのは黄昏時であった。そして、私たちが数百人のきらびやかな人々の間を縫って歩いているときには、デイジーの声は喉の奥で低く、悪戯(いたずら)っぽく歌っていた。
 「こういうの、すごくわくわくする」と彼女は囁いた。
 「ニック、今夜私にキスしたかったら教えてね。喜んで、できるようにしてあげるから。私の名前を言ったらいい。それか、緑色のカードを見せて。私も緑のカードを配って――」
 「見渡してごらん」とギャツビーが言った。
 「見渡してるよ。今、すごい――」
 「名前だけは知っている人がたくさん来てるでしょう。ちゃんと顔を見なくちゃだめだよ」
 トムは、傲岸な目つきで群衆を見渡した。
 「俺たちはそんなに人付き合いをしない方でね」と彼は言った。
 「実のところ、ここの誰一人知らんなと思っていたところだよ」
 「あちらの女性のことはご存知かもしれませんよ」とギャツビーは言って、優美な、人間というよりは蘭の花のような女性を指した。彼女は白いプラムの木の下で凛と座っていた。トムとデイジーは見入った。それまでは幽霊のようだった映画女優を実際に認識してみると、妙な非現実の感を覚えるものである。
 「素敵な方」とデイジーが言った。
 「傍で身を屈めているのが監督ですよ」
 彼は礼を尽くしながら、パーティーの輪から輪へと私たちを案内してくれた。
 「ミセズ・ビュキャナン……そして、ミスタ・ビュキャナン――」そして、一瞬のためらいの後で彼はこう付け加えた。「ポロの選手です」
 「違う、違う」とトムは即座に否定した。「俺じゃない」
 しかし、ギャツビーは明らかにこの言葉の響きが気に入ったようだった。というのも、トムはこの夜を通してずっと「ポロの選手」になったからだ。
 「こんなにたくさんの有名人とお会いするのは初めて」とデイジーは高い声で言った。「あの方素敵だな――お名前は?――堅物って感じの」
 ギャツビーがその人物を認め、あいつはつまらんプロデューサーだよと付け加えた。
 「それでも素敵じゃない」
 「俺はポロの選手じゃない方がよかったな」とトムが楽しそうに言った。「こういう有名人は、そう、人の目につかないところで眺めてる方がいい」
 デイジーとギャツビーは踊った。彼が優雅に、型を崩さずフォックス・トロットを踊るのに驚いたのを憶えている――それまで彼が踊るのを目にしたことはなかった。その後、皆は私の家までのんびり歩き、玄関の段に半時間ほど腰掛けていた。その間、彼女の要請に応えて私は庭園で見張りをしていた。「火事だとか洪水だとか」と彼女は説明した。「他に何でも、神様のなさることに備えてね」
 トムが「人の目につかないところ」から現れた。私たち皆が、夕食をとろうと腰掛けるところだった。「俺はあっちの奴らと食っても構わないか?」と彼は言った。「面白い話をする奴がいる」
 「どうぞ」とデイジーはニコニコして言った。「住所を書き留めるんだったら、私の可愛い金の鉛筆をどうぞ」……しばらくして彼女は辺りを眺め、トムが話している女の子は「品がないけど綺麗」だと私に言った。それで私は、彼女にとっては、ギャツビーと二人きりでいた半時間を除いては何も楽しくないのだと分かった。
 私たちが腰を落ち着けたのは、とりわけ「酔っ払い」の席だった。責任は私にある――ギャツビーは電話に出ていたし、私は二週前に同じ面々と悪くない時間を過ごしていた。けれども、あのときは愉快だったものが、今では腐臭を放っていた。
 「ご気分はいかがですか、ミス・ベイデカー?」
 名を呼ばれた女は、私の肩に身を預けようとしては、しくじっていた。この質問に彼女は居住まいを正し、両眼を開けた。
 「なぁに?」
 図体が大きくてのろのろした女もいて、それまではデイジーに、地元のクラブで明日ゴルフをしようよとけしかけていたのだが、ミス・ベイデカーの弁護に立った。
 「彼女は大丈夫よ。カクテルを五杯か六杯飲んだら、いつもあんなふうに叫び出しちゃって。お酒はやめておきなさいって言ってるのにね」
 「飲んでないよぉ」と被告人がうつろに言った。
 「あなたが叫んでるのを皆聞いたからね。だから私、ここにいらした、お医者さんのシヴェット先生に言ったのよ。『先生に診てもらわなくちゃいけない人がいる』って」
 「彼女にとっちゃ、きっとありがたいことね」と別の友達が、ありがたくもなさそうに言った。「でもあなた、あの子の頭をプールに漬けて、ドレスをビショビショにしちゃって」
 「私が死ぬほど嫌いなのは、プールに頭を漬けられること」とミス・ベイデカーはもごもごと言った。「あいつらのせいで、私、ニュー・ジャージーでは一度溺れ死にそうになったんだから」
 「それなら、お酒はお控えになることです」とシヴェット先生は応戦した。
 「余計なお世話よ」とミス・ベイデカーは声を荒げた。「あんた、手が震えてるし。あんたにだけは手術されたくないね」
 万事そんなふうだった。その夜の私のほとんど最後の記憶は、デイジーと並んで立って、あの映画監督と彼の看板女優を見ていたことだ。二人はまだ白いプラムの木の下にいて、二人の顔は今にも触れそうだった。色彩を欠いた、薄い月光だけが間にあった。彼はこの夜の間ずっと、ここまで近づくためにゆっくり慌てず、彼女の方に身をかがめてきたのだという思いが私を打った。私はなおも見ていたが、彼はさらに身をかがめて最後の間隙を詰め、彼女の頬に口づけをした。
 「彼女は素敵」とデイジーは言った。「とっても綺麗」
 けれども、その他の全てが彼女には忌まわしかった――そのことについては論を俟たない。なぜなら彼女にとって忌まわしかったのは、仕草ではなく、感情の奔出だったからだ。彼女はウェスト・エッグを、つまり、ブロードウェイがロング・アイランド島の漁村にもたらした前例なき「場所」を、穢らわしいとまで思っていた――昔ながらの遠回しな物言いに焦(じ)れる生々しい力が、住民の群れを近道に沿って無から無へと導く、分をわきまえない運命のあり方が、穢らわしかった。自分には理解が及ばないこの単純にこそ、彼女はおぞましいものを見出した。
 二人が迎えの車を待つ間、私は一緒に、正面玄関の段に座っていた。ここ正面は暗く、ただ開け放たれた扉だけが、十平方フィートの光を柔らかな朝闇に放っていた。時折、上方の化粧室のブラインドに、人影が動くのが映った。ある人影は別の人影に、そして、いつまでも続く影の列に取って代わられた。影は、ここからは見えない鏡に向かって口紅を塗り、白粉(おしろい)を施した。
 「このギャツビーっていうのは何者なんだ?」とトムが唐突に質した。「酒の密売の大物か?」
 「どこでそんなことを聞いたんだ?」と私は訊いた。
 「聞いたというんじゃなくて、想像だよ。ああいう成金の多くは、ただ酒の密売をやって大儲けしてるだけだ」
 「ギャツビーはそうじゃない」と私は簡単に答えた。
 彼はしばらくは黙っていた。車回しの小石が、彼の靴に踏まれジャリジャリと音を立てた。
 「つまりな、こんな珍獣サーカスを仕込むのには、間違いなくあいつは相当無理したはずだぞ」
 そよ風が、デイジーが頸下に巻いていた毛皮の毛羽(けば)を撫でた。
 「少なくとも、あの人達、私たちが知ってる人よりは興味深いよ」とデイジーは無理していった。
 「そんなに興味を惹かれていたようには見えないがな」
 「いえ、そんなことない」
 トムは哄笑し、私に向き直った。
  「あの女がデイジーに、冷たいシャワーを浴びせてくださいって頼んで来たときさ、デイジーの顔見たか?」
 デイジーは歌い始めた。ハスキーでリズミカルな囁きだった。それぞれの語に、これまで持ったことのない意味を、そして今後も持つことはないであろう意味を込めていった。メロディが高くなると、それを追って声が甘く割れた。コントラルト(訳注:女声の最も低い声域)の声の宿命だ。そして、それぞれの音階で、少し、また少しと、彼女の温かな、彼女という人間がかけた魔法が宙に溢(こぼ)れていった。
 「招待されてもいないのに来る人がたくさんいるのよ」と彼女は唐突に言った。「あの女の子だって招待されていなかったのよ。皆、無理やり出掛けて行って、でも、ギャツビーは人が好いから断れない」
 「俺は、あいつが何者で、何をしているのか知りたいな」とトムがしつこく言った。「絶対に化けの皮を剥がしてやる」
 「いますぐ教えてあげるよ」とデイジーは応えた。「薬局を経営してるのよ。たくさんの薬局。あの人が築き上げたのよ」
 リムジンがのろのろと車回しを進んで来た。
 「おやすみ、ニック」とデイジーは言った。
 彼女の視線は私を離れ、階段の上の煌々とした空間を求めた。そこからは『朝の三時』という、その年に作られた可愛らしくも哀しいワルツが、開かれた扉を通ってたゆたって来た。結局、ギャツビーのパーティーの「気取らなさ」の中にこそ、彼女の世界には全く存在しなかった、愛への可能性があったのだ。階上から流れるワルツの中の何かが、彼女を再び邸内へと招き入れようと呼んでいるようだった。それは一体何だったのだろう。暗がりの中で今から、何が起こるか予測もつかない時間帯には、実のところ一体何が起こるのだろうか。ひょっとしたら、誰か信じられない客が到着するかもしれない。途方もなく稀で、驚愕すべき人物だ。それは、後光が照っているような美しくうら若い女の子で、ギャツビーに無垢な一瞥を与えるだけで、そのたった一瞬の魔術的な出逢いで、彼の五年もの揺るぎない愛を帳消しにしてしまうのだ。
 その夜私は遅くまでギャツビー邸にいた。手が空くまで待っていてくれと彼が頼んできたからだ。庭園を散歩していると、お決まりのように水泳に興じていた客らが、寒さで身を震わせながらも大はしゃぎで漆黒の海岸から駆け上がってきた。そして、頭上の客室では灯が消された。遂に彼が階段を下りてきたとき、日に焼けた顔がいつになく引きつっていた。目は輝いていたが、疲労の色が宿っていた。
 「デイジーは嫌がっていた」と彼はすぐに口を開いた。
 「そんなことない。当たり前じゃないか」
 「彼女は嫌がっていたよ」と彼は譲らなかった。「楽しくなかったんだ」
 彼は口を閉ざした。そして私は、彼の名状しがたいほどの辛い気持ちを慮(おもんぱか)った。
 「彼女から隔てられている気がする」と彼は言った。「なかなか理解してもらえない」
 「パーティーの話をしてるの?」
 「パーティー?」彼は指を一回鳴らして、それで、彼がこれまでに催してきたあらゆるパーティーを否定した。「オールド・スポート、パーティーはどうでもいいんだ」
 彼は、デイジーがトムのもとに行って「あなたを愛したことはありません」と言うことさえをも求めていた。彼女がその一文をトムに言い、四年間を跡形もなく消し去ってしまった後で初めて、二人は講じるべき実生活上の手段について決められるというのだった。そのうちの一つは、彼女が自由の身になったら、二人でルイヴィルに戻り、振り出しである彼女の実家で結婚するというものだった――まるで今が五年前であるかのように。
 「でも今では彼女は分かっていない」と彼は言った。「昔は理解できていたんだ。二人で何時間も座ってね――」
 彼は話を止めた。そして彼は、果実の皮や捨てられたパーティー用土産や踏みつけられた花々で散らかった、寂寥(じゃくりょう)とした道を行ったり来たりし始めた。
 「僕だったら、彼女には求め過ぎないと思う」と私は注意深く言葉を選んだ。「過去は繰り返せない」
 「過去は繰り返せない?」彼は信じられないとでも言わんばかりに叫んだ。「いや、もちろん過去は繰り返せるさ!」
 彼はむきになって回りを見渡した。まるで過去がここに、彼の邸の影の中に、彼が手を伸ばしても惜しくも届かないところに潜んでいるかのように。
 「どんなことでも元通りにしてみせるつもりだ」と彼は言い、決意を込めて頷いた。「分かってくれるよ」
 彼は過去について雄弁に語った。彼は、デイジーを愛することに捧げられた何か――いわばアイデンティティと言ってよいかもしれない――を取り戻したがっているのだと分かった。あのときから彼の人生は混乱をきたし、掻き乱されてきた。しかし、一度しかるべき出発点に戻り、時間をかけて精査すれば、それが何なのか知ることができる……。
 その五年前のある秋の夜、二人は木々が葉を落としゆく中、通りを歩いていた。木が一本もなく、歩道が月明かりに洗われて白んでいる所に到った。二人はここで歩みを止め、互いに向き合った。涼しい夜で、一年のうちでも春と秋にしか訪れない不思議な興奮が宿っていた。家々の静かな電燈は闇に向かって鼻歌を歌い、星々の間ではちょっとした騒ぎがあった。ギャツビーは目尻で、この先何ブロックも続く歩道が梯子になっていて、木々の上の秘密の場所にまで伸びているのを確認した――ひとりなら、そこまで登って行ける。いったんそこに着いたら、命の乳房にしゃぶりついて、他に比べるべくもない素晴らしいミルクをゴクゴクと飲めるのだ。
 デイジーの白い顔がギャツビーの顔に近づくと、彼の心臓はどんどん速く打った。この女性と口づけを交わせば、そして、決して口に出されることがない空想を彼女の儚(はかな)い呼吸に永遠に結びつけてしまえば、心はもう二度と、神の御心のように意のままに遊ぶことはないだろう。だから彼は待ち、星に願いを掛けて鳴らされた音叉の響きに、もう少し長く耳をすませていた。そして彼は彼女に口づけをした。彼の唇が触れると、彼女は花のようにほころび、彼を受け入れた。こうして神の子は、この地上に顕現した。
 彼が話すのを聞いている間ずっと、そして、彼がおぞましいほど感傷を吐露していたときでさえ、私はあることを思い出していた。――それは捉えがたいリズム、失われてしまった言葉の切れ端で、昔どこかで聞いたことがあるものだった。しばし、あるフレーズを言い出しかけ、唇が聾唖者の唇のように開いた。私の唇は、そっと歎息(たんそく)する以上のものを求めてせめぎ合っていた。けれども、声にはならなかった。私がほとんど思い出しかけていたことは永遠に伝えられなくなってしまった。

The Great Gatsby 第5章

Chapter V

 その夜ウェスト・エッグに戻って来たとき、私は束の間、自宅が火事になって燃えているのではないかと肝を冷やした。午前二時で、半島の一角全体が煌々と燃えていた。低木は光を湛え、現実感を欠いた光景が浮かび上がった。路肩の電線は煌めき、細く長い糸になって伸びていた。角を曲がってようやく、私はそれがギャツビーの邸からの光だと分かった。塔の先から地下室に至るまで、灯が燈されていた。
 初め私は、別のパーティーだろうと思った。羽目を外した連中が「かくれんぼう」だか「隠れ鬼」を始めた、そして、邸は丸ごとその遊戯に解放されているのだろう、と。けれども物音一つしなかった。ただ木々の中を風が通る音だけが聞こえた。風は電線を揺らし、光を再びチカチカとさせた。まるで邸が闇に向けてウィンクをしたようだった。私を乗せたタクシーが轟音を立てて行き去ると、ギャツビーが芝を通って私の方に歩いてくるのが目に入った。
 「君の邸はまるで万国博覧会みたいだね」と私は言った。
 「そう?」彼はぼんやりと邸を見遣った。「部屋のいくつかを見回っていたんだ。コニー・アイランド(訳注:遊園地がある)に行かない、オールド・スポート?私の車で」
 「遅すぎるよ」
 「そうか。プールに飛び込んだりするのはどうだろう?この夏、まだ使っていないんだ」
 「もう寝なきゃ」
 「そうか」
 彼は待っていた。はやる気持ちを抑えて私を見ていた。
 「ミス・ベイカーと話したよ」ややあって私は言った。「明日デイジーに電話して、ここまでお茶においでよって誘うよ」
 「別に構わないんだよ」と彼は無関心を装った。「君には迷惑をかけたくない」
 「どの日が都合がいい?」
 「君はどの日が都合がいい?」と彼はとっさに私の質問を訂正した。「君には迷惑をかけたくないんだよ」
 「明後日はどうだろう」彼はしばし考え、それからためらいがちにこう言った。
 「芝を刈らせたいんだけど……」
 私たち二人は芝を見た。伸び放題の私の芝が終わり、濃い色の、手入れの行き届いた彼の芝の広がりが始まるところに、くっきりとした境が見てとれた。私の芝のことを言っているのだと察した。
 「あともうひとつだけ……」彼はお茶を濁すようにためらった。
 「じゃあ何日か先に延ばした方がいい?」と私は訊いた。
 「いや、そういうんじゃないんだ。少なくとも……」どう切り出そうかと迷っていた。「つまりね、ほら、オールド・スポート、君はそんなに金がないだろう?」
 「そうだね」
 私の応(いら)えで彼は少し安心したようで、自信を取り戻し、こう続けた。
 「そうだと思っていたよ。失礼を許して欲しいんだが……ほら、私は本業とは別でささやかな事業をやっている。まあ、副業というか。知っての通りね。それで、もし君があまり稼いでいないんだったら――君は債券を売っているよね、オールド・スポート?」
 「売ろうとしている」
 「じゃあ悪くない話だと思うんじゃないかな。時間は取らせないし、結構稼げるかもしれない。ただ、かなりの機密事項なんだよ、たまたま」
 今では分かるのだが、他の情況であったなら、この会話は私の人生における危機のひとつとなったかもしれない。しかし彼の申し出は、露骨で、剥き出しのまま、然るべき見返りとしてそこにあった。だから私には、その場で謝絶する以外の選択肢はなかった。
 「今の仕事で手一杯なんだ」と私は言った。「お気遣いありがとう。でも、これ以上は仕事を受けられそうにない」
 「ウルフシャイムとは仕事をしなくていいんだよ」彼は明らかに、私があの昼食の席で触れられた「ゴネグション」に怖気づいているのだと考えたようだ。けれども私は、そうじゃないと彼に説明した。彼はさらに、私が会話を切り出すのを待った。けれども私は、物思いに沈んでしまって、とても彼の期待には応えられなかった。それで彼は、渋々邸に帰った。
 その夜の出来事があって、私はうきうきとし、上機嫌になった。玄関に入ると同時に深い眠りに落ちていったと思う。それで、ギャツビーがコニー・アイランドに行ったのか否か、あるいは、邸がけばけばしく燃え盛る間に何時間ほど「部屋を見回って」いたのかは知る由もなかった。翌朝、私は職場からデイジーに電話をし、お茶に誘った。
 「トムは連れてこないでね」と私は注意した。
 「何?」
 「トムは連れてこないで」
 「トムってだあれ?」とデイジーは屈託なく尋ねた。
 約束の日取りは土砂降りだった。午前十一時、レインコートを着、芝刈り機を引っ張って来た男が玄関の扉を叩いた。ミスタ・ギャツビーが、私のところの芝を刈るために自分を寄越したのだと述べた。ここで私は、自分のフィンランド人家政婦に戻って来るよう命じるのを忘れていたことに思い至った。それで、ウェスト・エッグ村まで、雨に濡れて白く洗われた路地間に彼女を捜しに、そしてカップとレモンと花を買いに車を走らせることになった。
 花は必要なかった。というのも、二時に温室が丸ごと、ギャツビー邸から運ばれてきたからだ。山ほどの数の鉢もついてきた。その一時間後、覚束ない様子で玄関の扉が開いた。白のフランネルのスーツと銀色のシャツを着、金色のネクタイを結んだギャツビーがそそくさと入ってきた。顔色が優れない。眠れなかったのだろう、目の下には隈があった。
 すぐに彼は「万事大丈夫?」と訊いた。
 「芝は素晴らしいよ。ああいうのを意図していたというのならね」
 「何の芝?」と彼は呆然と尋ねた。「ああ、庭の芝か」彼は窓外に目を遣った。けれども表情から察するに、彼は何ひとつ見ていなかったと思う。
 「素晴らしいね」と彼は上の空で言った。「雨は四時頃止むって書いてあった新聞が一つあったよ。『ザ・ジャーナル』だったかな。必要な物は全てある?その、お茶をするのにさ」
 私は彼をパントリー(訳注:食品や食器等を収めた部屋)に連れて行った。彼はそこで幾分冷ややかに、フィンランド人の家政婦を見た。二人して、食料品店から届けられた十二個のレモンケーキを点検した。
 「これで大丈夫かな?」と私は尋ねた。
 「もちろん、もちろんだよ、素晴らしい!」それから彼は放心したようにこう言い添えた。「……オールド・スポート」
 三時半頃に雨脚は弱まり、しっとりとした霧になった。時折、霧の間を細い雫が朝露のように伝って落ちてきた。ギャツビーは虚ろな目で、クレイの『経済学』に目を通していたが、台所の床を揺らすフィンランド流の足踏みにぎょっとし、ときどき曇った窓の方に目を凝らした。まるで、目にこそ見えないが剣呑な事態が外で起こりつつあるのだ、とでもいうように。とうとう彼は立ち上がり、上ずった声で「もう帰る」と私に告げた。
 「何でだよ?」
 「お茶には誰も来ないよ。遅すぎる!」彼は、まるでどこか他所(よそ)で時間に追われてでもいるかのように腕時計を見た。「一日中待っているわけにはいかない」
 「馬鹿言うんじゃない。まだ四時二分前だ。」
 彼は腰を下ろした。惨めだった。まるで私が押し倒したみたいだった。と同時に、車が私のところの道に入って来るのが聞こえた。二人とも跳び上がった。私自身少し自失しつつも、庭へと出た。
雫を滴らせた剥き出しのライラックの木々の下、大きなオープンカーが庭道を通ってこちらに近づいて来ていた。そうして、止まった。車の横でデイジーが首を傾(かし)げた。三角のラヴェンダー色の帽子を被っていた。眩(まばゆ)い、嬉しくて堪らないと言わんばかりの笑みを湛えて、外にいる私を見た。
 「ほんとにほんとに、ここに住んでいるの?」
 彼女の声は、狂おしいような漣(さざなみ)となって、雨の内で、聴く者を潤した。語が意味を帯びるまで、しばし私は耳だけで、上に、下に、音色を辿らねばならなかった。濡れた髪が、青い絵の具で描いた線のように頬に掛かっていた。車から降ろしてやろうと彼女の手を取ると、きらきら光る雨粒で濡れていた。
 「私に恋してるんじゃない?」と彼女は耳許で声を潜めた。「そうじゃないなら、どうして私は一人で来なくちゃいけなかったんだろう?」
 「それは『ラックレント城』(訳注:1800年に出版されたマリア・エッジワースの短編。語り手が観察者である小説の嚆矢とされる)の秘密だよ。運転手さんに、一時間ほどどこか遠くへ行っておいてと言っておいてね」
 「一時間後に戻ってきて、ファーディ」それから重々しくくぐもった声で「あの人はファーディっていうの」
 「ガソリンで鼻を悪くしたんだっけ?」
 「そんなことないよ」と彼女は屈託なく言った。「何それ?」
 私たちは中に入った。居間には誰もいなかった。私は仰天した。
 「おかしいな」と私は声を上げた。
 「何がおかしいの?」
 コン、と上品なノックが玄関であって、彼女は振り向いた。私は出て行って扉を開けた。果たしてそこにはギャツビーがいた。両手を錘(おもり)のようにコートのポケットに突っ込んでいた。水溜まりの中、悲愴な眼差しで私の両眼を見据えていた。
 コートのポケットの中で手を動かさず、私の横をドカドカと歩き、廊下へと入って行った。そして針金で操られているかのようにさっと向きを変え、居間へと消えた。少しも「おかしく」なかった。自分の心臓が大きな音を立てて鳴っているのに気付き、私は玄関の扉を閉めた。外では雨脚が強まってきていた。
 三十秒ほどは物音ひとつしなかった。それから、居間から声を殺しているようなひそひそ声が、それから笑い声が少し聞こえた。さらに、明瞭な、繕ったような調子のデイジーの声が聞こえてきた。
 「またお会いできるなんて、本当に嬉しい」
 間。恐ろしく長い間だった。私は廊下にいて、どうすることもできなかった。それで私は居間に入った。
 ギャツビーは両手をポケットに入れたまま動かさず、暖炉の上の囲いにもたれた。完璧に落ち着いている、無聊(ぶりょう)ですらあるという振りをしていた。けれども緊張していた。頭を後ろに傾げ、今では壊れた時計の前面にもたれる形になった。この位置から、ギャツビーの狼狽した眼差しがデイジーに注がれた。デイジーは恐れをなしつつも淑(しと)やかに、硬い椅子の端に座っていた。
 「以前にお会いしましたね」とギャツビーは呟いた。彼の両眼はチラリ、チラリと私へと遣られた。唇が開き、笑い声を出そうとしていたがうまくいかなかった。幸運にもこのとき時計が、機を捉えたかのように彼の頭に押されて傾き、落ちそうになった。直ちに彼は後ろを向き、震える指で時計を抱え、元通りの位置に据えた。そうして彼は座った。強張っていた。片方の肘をソファーの傍らに載せ、顎を掌に置いていた。
 「時計のこと、ごめんな」と彼は言った。
 今では私の顔が、南国の太陽に焼かれたみたいに紅潮してしまった。頭には言いたいことがごまんとあったのに、当たり障りのないことはひとつも思いつけなかった。
 「古時計だよ」と私は二人に言った。阿呆みたいだった。
 床に落ちて粉々になった、と皆が一瞬思ったと思う。
 「何年も会っていなかったね」とデイジーが言った。彼女の声はいつになく熱意を欠いていた。
 「この十一月で五年になる」
 ギャツビーが反射的に答えたせいで、私たちは少なくともさらにもう一分ほどはぐずぐずときまり悪く過ごした。台所でお茶を作るのを手伝ってよと捨て鉢の提案をして二人を立ち上がらせたところで、意地悪なフィン人婆さんがお茶を盆に載せて持って来た。
 お茶とケーキのもたらしたゴタゴタは願ったり叶ったりで、その合間を縫って自ずとある種の作法が立ち現れた。ギャツビーは引っ込んでおく。デイジーと私が話している間、ギャツビーはおとなしくして、緊張した悲しげな目で、片方からもう片方を見る。けれども居住まいの良さ自体はここでの目的ではないから、私は見計らって言い訳をし、立ち上がる。
 「どこに行く?」と突如不安になったギャツビーは質した。
 「すぐ戻るよ」
 「君が行く前に話がある」
 彼は私の後を追って台所まで入ってきた。扉を閉め、囁いた。
 「ああ!くそっ!」彼は痛々しかった。
 「どうしたんだよ?」
 「最悪だ」と彼は言って首を横に降った。「ほんっとうに、全然、だめだ」
 「恥ずかしがっているだけだよ」それから私は運良くこう言い添えた。「デイジーも恥ずかしがっている」
 「デイジーも恥ずかしがっている?」と彼は疑い深く繰り返した。
 「君と同じくらいにはね」
 「そんなに大きい声で話すなよ」
 「ガキかよ」と私はかっとなって切り出した。「それだけじゃない、失礼なんだよ。デイジーは独りぼっちであそこに座っているんだぞ」
 彼は片手を上げて私の言葉を制し、私を見た。そのときの彼の恨みがましい顔を忘れることはあるまい。それから彼は、注意深く扉を開け、居間に戻って行った。
私は裏口から表に出た――三十分前にギャツビーが家の周りを落ち着きなく徘徊したときと同じように。それから黒く、節くれ立った巨木目がけて駆けた。鬱蒼と茂った葉叢(はむら)の下、雨宿りができたからだ。再び雨脚が強まった。でこぼこの我が芝――ギャツビーの抱える庭師によってきちんと刈り込まれていた――には今や、水溜まりや泥沼、先史時代を彷彿とさせる沼地が現れていた。巨木の下からは、ギャツビーの巨大な邸を除いて、見るべき物は何もなかった。それで私は、教会の尖塔を見つめるカント(訳注:ドイツの哲学者 1724-1804)よろしく、半時間ほど邸をじっと見ていた。十年前に、封建貴族風の建築が大いに流行り出した頃、あるビール醸造家がこの邸を建造した。周りのありとあらゆる田舎家の主人に、屋根を藁葺(わらぶき)にしてくれれば税を五年分肩代わりしてもよいと諾(うべな)ったという。彼らは拒否した。このことが件の醸造家の「家を興す」計画を骨抜きにしてしまったのかもしれない。――彼はやにわに結核に倒れてしまった。そして、扉にまだ喪の黒い花輪が飾ってあるのに、彼の子供達は邸を売ってしまった。アメリカ人は、ときには進んで、農奴のようにひとつの場所で際限なく働き、功を成さんとしてきた。けれども、たとえ移動の自由があっても、いつまでも社会の下層である小作農の身分に甘んじることは、常に頑迷に拒絶してきた。
 半時間ほどすると、陽が再び照りだした。食料雑貨店主の車がギャツビー邸の私道を廻って来た。召使いらの食事の材料を積んでいた――ギャツビーは一口も口にしまいと思った。メイドが邸の二階の窓を開け始め、それぞれの窓から束の間姿を見せた。そうして、中央の大きな張出し窓から身を乗り出すと、何か思いに浸って庭に唾を吐いた。そろそろ家に戻るべき頃合いだった。雨が降っている間、雨音は二人の声のくぐもりのようであった。それは感情の迸(ほとばし)りとともに、僅かに昂(たかま)り、膨らんだ。けれども雨が止んで新たな沈黙の中にあって私は、家の中にも沈黙が降りたと感じた。
 私は家に入った。台所では、ありとあらゆる物音を立ててやった。もっともガスコンロをひっくり返しこそしなかったが。けれども二人には何も聞こえていなかったに違いない。二人はカウチの両端に座っていて、互いを見つめていた。まるで何か質問がされたのか、あるいはされようとしているかのようだった。気恥ずかしさの名残はもはや消えていた。デイジーの顔は涙でぐちょぐちょだった。私が部屋に入ると彼女は跳び上がって、鏡の前まで行って、ハンカチで顔を拭い始めた。しかしギャツビーの内には変化があった。まったく驚きだった。彼は文字通り輝いていた。歓喜の言葉や仕草こそなかったが、これまでにはない種の幸福感を放射させ、小さな部屋を充溢させていた。
 「やあ、こんにちは、オールド・スポート」と彼は言った。何年も会っていなかったみたいだった。しばし私は、彼は握手をするつもりなのかと訝った。
 「雨が止んだよ」
 「そう?」彼は私が何の話をしているのか理解すると、つまり、部屋には陽がきらきらと溢れているのに気付くと、彼は天気予報士のように、再来する光に恍惚とする後援者のように、笑んだ。そうしてデイジーにもそのことを知らせた。「どう思う?雨が止んだよ」
 「嬉しい、ジェイ」彼女の喉から発せられる声は、痛ましく身を焦がしている美しさで満ちていたが、それはただ、自分自身の思いがけない喜びへの言及でしかなかった。
 「君とデイジーに私の家まで来て欲しいんだ」と彼は言った。「デイジーを案内したい」
 「僕も一緒に?」
 「もちろんだよ、オールド・スポート」
 デイジーは顔を洗いに二階に上がった――使い古したタオルを思うと私は恥ずかしかったが、今さらどうしようもないと思った。ギャツビーと私は芝で待った。
 「私の邸はなかなかのものでしょう」と彼は私の同意を求めた。「玄関全体が光を捉えているのをご覧よ」
 私は賛辞を述べた。
 「そうでしょう」彼の両眼が邸全体を、あらゆる弓なりの扉を、あらゆる方形の塔をなぞった。「この邸を買う金はたった三年で稼いだんだよ」
 「お金は相続したのかと思っていた」
 「もちろんそうだよ、オールド・スポート」と彼は反射的に答えた。「けれども恐慌の渦中でほとんど全てを失ってしまった――あの戦争の恐慌でね」
 彼は自分が何を言っているのかほとんど分かっていなかったのだろうと思う。というのも、彼に何の仕事に携わっているのかと訊くと「君には関係ない」と口を滑らせたからだ。場違いな応(いら)えをしたことに思い至っても後の祭りだった。
 「いや、いくつかやってきたんだよ」と彼は言い直した。「薬品事業に携わっていたこともあるし、その後には石油事業にも携わった。今はどちらもやっていないけどね」そして今度はしげしげと私を見た。「それはつまり、君は先日の夜に私が提案したことを検討しているってこと?」
 私が応えぬうちにデイジーが邸から出てきた。ドレスを縦に二列に走っている真鍮のボタンが、陽に照らされて輝いた。
 「あの大きなお邸の話?」と彼女は指差して大声で言った。
 「気に入った?」
 「とっても。でも、独りぼっちであそこに住んでいるなんて」
 「邸はいつも、面白い人達で一杯にしてあるよ。夜も昼もずっとね。面白いことをする人達。著名な人達」
 『サウンド(海峡)』沿いに近道をする代わりに、私たちは道路を歩き、大きな裏門から邸に入った。デイジーは艶めかしい呟き声で、中世さながらの建物のシルエットをここから見るのが、あるいはあそこから見るのが空に映えて素敵だと讃えた。それから、庭園を、黄水仙の華やかな香りを、サンザシとプラムの花の柔らかな香りを、スイカズラの優しく黄金色の香りを讃えた。大理石の階段に到っても、眩い色をしたドレスの衣擦れが邸に出入りするのが聞こえない。木々の中で歌う鳥の声が聞こえるばかりで、不思議な気がした。
 そして屋内に入った。私たちがマリー・アントワネット調の金ピカの音楽室や、王政復古調の意匠を凝らした客間を抜けていると、私には、あらゆるカウチやテーブルの後ろに客人が隠れていて、私たちが過ぎ去るまで息を殺して黙っていろと命じられているような気がした。ギャツビーが「マートン・カレッジ図書館」(訳注:マートン・カレッジはオックスフォード大学のカレッジの一つ)の扉を閉めたとき、あの梟眼鏡の男が幽霊みたいに笑うのが聞こえたのは、誓ってもいい。
 私たちは上の階に上がった。薔薇色とラヴェンダー色の絹で包まれ、生花で鮮やかに飾られた昔風の寝室をいくつか抜け、それらの隣の化粧室を抜け、ビリヤード台のある部屋をいくつか抜け、埋込式の浴槽がある浴室もいくつか抜けた。気がつくと広間のひとつに闖入していた。そこでは、パジャマ姿の締まりがない男が、床で肝臓を鍛えるための体操をしていた。クリプスプリンガー、あの「寄宿人」であった。そう言えば、その日の午前中、浜辺を腹を空かせた様子で彷徨しているのを見かけていた。ついに私たちは、ギャツビーの部屋へと到った。寝室と浴槽、アダム式書斎(訳注:アダムは18世紀の英国の建築一家。精緻な様式と色彩を特徴とする)を備えていた。私たちは書斎に腰を下ろし、ギャツビーが壁に埋め込まれた食器棚から取り出したシャルトルーズ(訳注:フランスの酒の一種)をグラスに入れて飲んだ。
 それまで彼は、デイジーを見遣るのを片時も止めなかった。思うに彼は、邸内のあらゆる物を、それらがデイジーの蠱惑的な眼差しにどう映るかという視点から査定し直していたのではないか。彼の目は時に、呆然と自らの所有物に注がれた。まるで、デイジーが実際この場にいて、彼女の存在が聳(そばだ)っていると、もう何も本物ではないみたいだった。一度など彼は、階段に蹴躓いて転びそうになったくらいだ。
 彼の寝室は簡素の極みだった。ただ、鏡台だけは、鈍い純金の洗面道具で飾り立てられていた。デイジーは大喜びで櫛を取り上げ、髪をといた。するとギャツビーは腰を下ろし、目に入って来る光を遮るように額に手を翳(かざ)し、笑い出した。
 「こんなに可笑しいことはない、オールド・スポート」彼は、堪らないといった様子だった。「できないよ、やってみようとしてもさ――」
 彼は見たところ、二つの状態を通過し、三つ目の状態に入りつつあった。当惑と、抑えの効かない歓びの後、彼女の存在を前にして忘我していた。あまりにも長く、このことばかりを想ってきた。このことを夢に見、見尽くしてきた。いわば歯を食いしばり、途方もなく熱い想いを抱いて待ってきた。それなのに今では彼は、ねじを巻き過ぎた時計のように停止しつつあった。
 少しして彼は恢復(かいふく)した。商標のついた、でかい戸棚を二つ開けて見せた。大量の彼のスーツがあり、部屋着があり、ネクタイがあり、シャツがあって、十二段もの煉瓦のように積み上げられていた。
 「服を買って寄こしてくれる男がイングランドにいてね。各シーズンの初め、春と秋には選りすぐりの物を届けてくれる」
 彼はシャツを一山取り上げて、一枚一枚、私たちの眼前に放り始めた。透けるほど薄い亜麻のシャツも、厚手の絹のシャツも、美しいフランネルのシャツも、畳まれていたのがほどけてテーブルに落ちた。いくつもの色が重なった混沌が現れた。
 私たちが感心して見ていると、彼はさらにシャツを持って来た。柔らかく見事な山が、さらにうず高くなった。ストライプのシャツがあり、渦巻き模様のシャツがあり、格子柄のシャツがあった。桃色の、黄緑色の、藤色の、淡いオレンジ色のシャツがあった。どれにも鮮やかな青色でイニシャルが刺繍してあった。突如デイジーが、聞こえよがしの音を立ててシャツに突っ伏し、嵐のように泣き始めた。
 「すごく綺麗なシャツ」と言って彼女はしゃくりあげた。彼女の声はシャツの山の中でくぐもった。「こんなに綺麗なシャツを見たことがない。だから、悲しくなるの」
 邸の後、私たちは、庭園を、スイミング・プールを、モーターボートを、盛夏に咲き誇る花々を見ることになっていた。けれども窓外では雨が降り始めていた。それで私たちは、『サウンド(海峡)』の漣(さざなみ)を見て立っていた。
 「霧がなければ、湾の向こうに君のお家が見られるのだけどね」とギャツビーが言った。「桟橋の端でいつも、緑の灯が一晩中燃えているでしょう」
 デイジーが突然、腕をギャツビーの腕に絡めた。しかしギャツビーは、自分が今言ったことに囚われているようだった。ひょっとしたら、あの灯の巨大な意義はもう永遠に消えてしまったのだという思いに打たれていたのかもしれない。デイジーがあんなにも遠くにいたことを思うと、あの灯は彼女の間近に、そう、今にも彼女に触れそうなほどすぐ傍(そば)にあった。月の間近に星があるように、あの灯は彼女のすぐ傍にあるように思われた。それなのに、今やあの灯は再び、桟橋にあるただの緑の灯でしかなくなってしまった。彼にとっては、魔法のかかったものがひとつ、数を減らしてしまったのだ。
 私は部屋の中を歩き始め、薄暗がりの中、はっきりとは見えない事物を点検していった。
 船用の服を纏(まと)った老人の大きな写真が私を捉えた。それは、書き物机の上方の壁に掛かってあった。
 「これは誰?」
 「それ?ミスタ・ダン・コウディだよ、オールド・スポート」
 その名前は、何となく聞き覚えがあった。
 「もう亡くなったよ。昔は一番の友達だった」
  書き物机にはギャツビーの小さな写真もあった。彼もまた船用の服を纏(まと)っていた。頭を後ろに反らし、挑発的に構えている。十八の頃に撮られたものだろう。
 「素敵!」とデイジーが声を上げた。「髪を撫で上げてるじゃない!そんな髪型してたなんて教えてくれなかったでしょう。それに船のことも」
 「これをご覧」とギャツビーは慌てて言った。「たくさん切り抜きがあるでしょう。全部君についてのものだよ」
 二人は身を寄せ合ってそれを見ながら立っていた。私がルビーを見せてよと頼もうとすると電話が鳴り、ギャツビーが受話器を取った。
 「そうだ……いや、今は話せない……今は話せないんだよ、オールド・スポート……『小さな』町だと言っただろう……小さな町と言えば先方は分かるよ……うむ、小さな町と言ってデトロイトのことを考えているようじゃそいつは話にならない」
 彼は電話を切った。
 「早く来てよ!」とデイジーが窓のところで大声を出した。
 まだ雨は滴っていたが、西の彼方では暗雲は散り散りになっていた。海の上には、ピンクに染まった黄金色の、泡のような雲の塊があった。
 「あれを見て」とデイジーは囁いた。そしてしばし間があった。「あのピンクの雲が一つ欲しいな。あなたをその中に入れて、あちこちに連れて行ってあげたい」
 そこで私は帰ろうとした。けれども二人は聞き入れようとしなかった。ひょっとしたら私がいたからこそ、二人は思う存分二人きりでいられたのかもしれない。
 「そうだ、こうしよう」とギャツビーが言った。「クリプスプリンガーにピアノを弾いてもらおう」
 「ユーイング!」と呼びながら彼は部屋を出ていった。数分後、彼は、当惑し少し疲弊した若い男を連れてきた。鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を掛けており、金色の頭髪は少なかった。今では彼はまともな服を着ていた。いわゆる「スポーツシャツ」の頸元(くびもと)を開け、スニーカーを履き、帆布地の、取り留めのない色合いをしたズボンを履いていた。
 「体操のお邪魔をしてしまったのでは?」とデイジーが丁寧に尋ねた。
 「眠ってましたよ」とミスタ・クリプスプリンガーは、当惑に耐えかねたように声を上げた。「その、つまり、それまでは眠っていて、それから起き上がって……」
 「クリプスプリンガーはピアノが弾けるんだよ」とギャツビーは言って、話を止めさせた。「そうだな、ユーイング、オールド・スポート?」
 「下手なもんです。というか――全然弾けませんよ。全く練習していなくて――」
 「下に行こう」とギャツビーは割って入った。彼がスウィッチを入れると、鈍色(にびいろ)の窓が一斉に姿を消し、邸は光に包まれた。
 音楽室でギャツビーは、ピアノの傍にひとつだけあるランプを灯した。マッチを擦り、震える手でデイジーの煙草に火をつけた。そして二人は、部屋のずっと奥の方、反対側のカウチに腰を下ろした。玄関ホールの照り輝いた床に反射して溢(こぼ)れて来る光を除けば、二人の座っていたところは真っ暗だった。
 クリプスプリンガーは『愛の巣』を弾き終えると、椅子に座ったまま向き直り、薄闇の中、不服そうにギャツビーの姿を探し求めた。
 「全然練習していませんでした。弾けないと言ったじゃありませんか。全然練習――」
 「ベラベラ喋るんじゃない、オールド・スポート」とギャツビーは命じた。「弾けよ」


朝も

夜も

楽しいな――


 外では風が音を立てていた。『サウンド(海峡)』からは、微かに雷鳴が聞こえた。今やウェスト・エッグではあらゆる電燈が灯りつつあった。人々を運ぶ電車は、ニューヨークから雨の中、彼らの住処へと驀進(ばくしん)していた。人間が変貌する時間であった。昂奮が醸し出されつつある気配があった。


間違いないことが一つあって、こんなに確かなことはない

金持ちはもっと金持ちになって、貧乏人には――子供ができる

そのあいだ

そんなこんなしているあいだに――

 別れの挨拶を述べようとしたが、ギャツビーの顔には再度、当惑の表情が浮かんでいた。目下の幸せの純度について、微かに疑念が生じたかのようだった。何しろ、ほぼ五年も待っていたのだ!その日の午後でさえ、彼の抱いてきた夢に、デイジーが及ばぬ瞬間がいくつもあったに違いない。――デイジーを責めることはできない。ギャツビーの夢想が走り過ぎていたのだ。それはデイジーを超越し、あらゆるものを超越していた。彼は、創意を凝らしてそれに没入していた。常にそれを増幅させ、自分の方にたゆたって来るあらゆる華やかな羽根で、それを飾り立てていた。どれほどの熱情であっても、どれほどの瑞々しさであっても、人が、己(おの)が亡霊の心に溜め込む思いには及ばない。
 私が彼を見ていると、彼は少し気を取り直したようだった。彼の手が彼女の手を取った。彼女は彼の耳元で何かを囁いた。彼は昂奮して彼女の方を向いた。蓋(けだ)し彼を何よりも虜(とりこ)にしたのはこの声――高低を変える、熱っぽい温もりであったろう。どれほど夢見ようと、度を越すことはないからだ。この声は、不滅の歌であった。
 二人は私がいることを忘れてしまっていた。けれどもデイジーが目を上に遣り、手を差し伸べた。ギャツビーは、私のことには少しも思い至らない。私は再び二人を見、二人は私を見返した。離れたところで、二人には、激しい命が憑依(ひょうい)していた。それで私は部屋を出、大理石の段を降り、雨の中へと歩いて行った。二人をともに、そこに残して。

The Great Gatsby 第4章

Chapter IV

 

 日曜日の朝には、岸辺の村々で教会の鐘が鳴る間に、人々は、男も女も、ギャツビーの邸に戻った。庭園の芝で星屑のようにきらきら笑った。 

 「彼は密造酒を売ってるのよ」と若い女たちが、彼の供したカクテルと花々の間を行きつ戻りつしながら噂した。「彼がフォン・ヒンデンブルク(訳注:ドイツ国の軍人、政治家、大統領 1847-1934)の甥っ子だってことを暴き出した人を彼は抹殺したし、悪魔の又従弟だって暴露した人も殺したのよ、昔。薔薇を取ってよ、ハニー。それから、最後の一滴をあのクリスタルグラスに入れて」

 あるとき私は、時刻表の余白に、その夏ギャツビーの邸に来た人々の名前を書き留めた。今では古い時刻表で、折り目のところはちぎれかかっている。「この時刻表は1922年の7月5日から有効です」と冠されてある。しかし今でも、灰色に褪色してしまった名前を読むことはできるし、ギャツビーの歓待を享受していながら、彼については全く何も知らないという慎ましやかな謝意を示した人々について私が大体のところを書くよりは、この記録の方が正確な印象を伝えることができるだろう。

 さて、イースト・エッグから来たのは、チェスター・ベッカー夫妻とリーチ夫妻、それから私がイェール大学で知り合ったバンセンという名の男、それにウェブスター・シヴェット博士もいた。彼は昨夏、メイン州で溺死してしまった。さらに、ホーンビームズ夫妻、ウィリー・ヴォルティア夫妻がいて、ブラックバックという家の一族(彼らはいつも隅に陣取っており、傍を通りがかる者誰に対しても、山羊のように鼻先をツンと上げた)がいた。イズネイ夫妻と、クリスティー夫妻(否、ヒューバート・アウアバック氏と、クリスティー氏の妻、と言うべきか)、それにエドガー・ビーヴァー氏がいた。(人々の噂によると、ある冬の日の午後に特段の理由もなく、彼の髪は綿のように真っ白になってしまったのだそうだ)

 クラレンス・エンダイヴもまたイースト・エッグ出身だったと記憶している。彼は一度だけ来たのだが、白いニッカボッカーズ(訳注:ズボンの一種)を履いていて、エティという名の飲んだくれと庭園で喧嘩をした。島のさらに奥まったところから来ていたのは、チードル夫妻とO. P. R. シュレーダー夫妻であった。さらに、ジョージアのストーンウェル・ジャクソン・エイブラムズ、フッシュガード夫妻、リプリー・スネル夫妻もそうであった。スネル氏は三日後に刑務所に入ることになるのだが、酩酊して砂利敷の私道で寝てしまい、右手をミセズ・ユリシーズ・スウェットの車に轢かれた。ダンシー夫妻も来ていた。S. B. ワイトベイト氏は優に還暦を過ぎていた。さらに、モーリス・A. フリンク、ハマーヘッド夫妻、煙草輸入商のベルーガに、彼の連れの女たちがいた。

 ウェスト・エッグから来ていたのは以下の面々だ。ポール夫妻、マルレディ夫妻、セシル・ロウバック、セシル・ショウエン、ギューリック上院議員、パー・エクセレンス映画会社を牛耳っているニュートン・オーキッド、それに、エクハウスト、クライド・コーヘン、ドン・S. シュウォーツ(息子の方だ)、アーサー・マカーティ。ここまでの皆が、何らかの形で映画産業に携わっている。さらにキャトリプ夫妻、ベンバーグ夫妻に、G. アール・マルドゥーン(後日妻を絞殺したあのマルドゥーンの弟だ)がいた。興行主のダ・フォンタノも来ていた。それにエド・レグロズ、ジェームズ B. (“Rot-Gut”(安酒))・ フェレット、デ・ジョング夫妻にアーネスト・リリー――彼らは賭博をしに来ていた。フェレットが庭園の中へと歩いて行くのはいつも、賭けで大枚を使い果たしたときで、翌日、アソシエーティド運輸の株価は決まって上昇し、利益をもたらすと踏むことができた。

 クリプスプリンガーという名の男は、やたらと頻繁に訪(おとな)って来たし、また長居をしたものだから遂に「寄宿人」として知られるにいたった――彼には他に家があったのだろうか。演劇の関係者の中では、ガス・ウェイズ、ホレース・オドナヴァン、レスター・メイヤー、ジョージ・ダックウィードにフランシス・ブルがいた。ニューヨークからも来訪客があって、クローム夫妻、バックヒソン夫妻、デニカー夫妻、ラッセル・ベティ、コリガン夫妻、ケレハー夫妻、デュワー夫妻、スカリー夫妻、S. W. ベルチャー夫妻、スマーク夫妻、若きクウィン夫妻(今では別れてしまった)、それにヘンリー・L. パルメット(もう自殺してしまった。タイムズ・スクウェアで、地下鉄に飛び込んだのだ)がいた。

 ベニー・マクレナハンはいつも、女の子を四人連れてやって来た。いつも違う子を連れてきていたが、どの連れもほとんど同じような容姿をしていたから、どうしても以前にも来ていたのではないかと思われた。その子たちの名前は忘れてしまった――ジャクリン、だっただろうか。あるいは、コンスエラだったか、グロリアか。あるいはジュディだったか、ジューンだったか。いずれにせよ、花や月の名を思わせるメロディアスな名前であったか、あるいはアメリカの大資本家を思わせるもっと堅い名前で、その子たちは、問い質されると、自分は従妹なのよと打ち明けたものだった。

 これら面々に加え、フォースティナ・オブライエンが少なくとも一度そこに来ていたことを記憶している。それに、ベイデカーの女の子たち、若きブルーワー(大戦で鼻を吹き飛ばされていた)、アルブルックスバーガー氏と彼の婚約者のミス・ハーグ、そして、アーディタ・フィッツピーターとP. ジュウェット氏(かつてアメリカ退役軍人会の会長を務めていた)、ミス・クローディア・ヒップと彼女のお抱え運転手だという噂の男がいた。さらには、どこかの王子がいて、私たちは彼を「大公」と呼んでいた。けれども本当の名前は、当時は知っていたのかもしれないが、もう忘れてしまった。

 これらの人々がその夏、ギャツビー邸に来ていたわけだ。

 七月下旬のある朝、九時のことだった。ギャツビーの豪華な車が砂利の車回しを疾駆し、私の家の扉の前で停まった。三つの音程が鳴るクラクションでメロディを出していた。彼が私のところに来るのは初めてのことだった。もっとも私の方は、パーティーには二回顔を出していたし、彼のモーターボートにも乗せてもらっていたし、彼の強い求めに応じて頻繁に砂浜を使わせてもらってもいた。

 「おはよう、オールド・スポート。今日は一緒にお昼を食べよう。一緒に乗っていけたらと思うんだ」

 彼は車のダッシュボードで立ち上がって釣り合いを保っていた。器用に動いているのがいかにもアメリカ的だ――蓋(けだ)し、これは若いときに足腰を使った労働に従事したことがなかったり、じっと座っていることがなかったことに由来するのだろう。さらに言えば、私たちアメリカ人の愛する、手に汗を握る、けれども「散発」で特徴づけられるスポーツの、形式を欠いた美にも由来するのだろう。この性質は、彼の、微に入り細を穿つ所作に頻繁に闖入しては、落ち着きのなさという形で現れた。彼はじっとしているということがなかった。いつも、片足をどこかでトントンとしていたり、苛々と片手を開いたり握ったりしていた。

 彼は、私が車を眩そうに見遣るのを見ていた。

 「すごいでしょう、オールド・スポート」彼は私がもっとちゃんと見えるように車から跳び降りた。「これを見たことはなかったよね?」

 実際私は以前に見たことがあった。皆が見たことがあった。車は濃いクリーム色で、ニッケルが輝いている。恐ろしく長い車内にはご立派な帽子入れや夜食入れ、道具入れがあり、ここかしこがデコボコしている。十二もの太陽を反映させる迷路のような風除けが段々になって備えられている。

 私はそれまでの一ヶ月、既に六回かそこら彼と話したことがあった。そして、がっかりしたことに、彼は話すべきことをほとんど持ち合わせていないことに気がついていた。だから、輪郭こそはっきりしないにせよ、彼はとにかく重要な人物であるという私の第一印象は次第に薄れ、今では彼は私にとって、隣にある手の込んだ酒場の主人に過ぎなかった。

 そうして、この落ち着かないドライブの話が降ってきたのだ。私たちはまだウェスト・エッグ村にも着いていなかったが、ギャツビーは優美な口ぶりで話し出しては止めにするというのをしだし、決めかねるように、キャラメル色のスーツの膝をピシャリと打ち始めた。

 「あのね、オールド・スポート」と彼は唐突に切り出した。「君は私のことをどう思うかな」

 私はちょっと驚いたが、一般的なことを言ってはぐらかし始めた。そうした質問は、まともに答えるには値しない。

 「あのね、私は自分の人生について君に話しておこうと思うんだよ」と彼は遮った。「君の耳に入ってくるあれやこれやの噂話で、私のことを誤解しないで欲しいんだ」

 彼は、自邸のあちこちの部屋で繰り広げられる会話に興を添える、妙な悪口のことを知っていたのだ。

 「神様に誓って言うよ」彼は唐突に右手を上げた。真実を語らずんば、神よ、我を罰したまえ、というように。「私は、中西部のある裕福な家族の下に産まれた一人息子なんだ。家族は皆死んでしまったけれどね。アメリカで育てられたけれど、オックスフォードで教育を受けた。私の祖先が何代にも渡ってそこで教育を受けたからだ。家の伝統、というやつだね」

 彼は横目で私を見た。ここで私は、ジョーダン・ベイカーが彼を嘘つきだと信じて疑わないでいた訳が分かった。「オックスフォードで教育を受けた」という部分を言い急いでというか、飲み込むようにというか、それが喉に引っかかるかのように話すのだ。このように疑ってみると、彼の説明全部は粉々になった。この男には少し不吉なところがあるのではないか、と私は訝った。

 「中西部のどこ?」と私は努めてくだけた調子で訊いた。

 「サンフランシスコだよ」(訳注: サンフランシスコは西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市。中西部ではない)

 「そう」

 「私の家族は皆死んでしまってね、多額の遺産を相続した」

 彼の声は厳粛であった。家族が突然死に絶えてしまったことが今でも彼の囚われであるようだった。しばし私は、彼はからかっているのではないかと思った。けれども彼に目を遣るとそうではないと思い直した。

 「その後ではね、ヨーロッパのあらゆる都で若いラージャ(訳注:インドで王の称号)のように暮らしたよ。パリ、ヴェニス、ローマ。宝石を集めたよ。ほとんどはルビーだったな。狩りに出て大型獲物を捕まえもしたし、少しは絵もかじった。自分のためにだけしたんだよ。ずっと前に私の身に起こった、ひどく悲しいことを忘れようとしていたんだ」

 信じられないなと一笑に付すのを抑えるのに骨を折った。肝心の部分が手垢のついた言い草で、ほとんど何の情景も喚起しなかった。ただ、ターバンを巻いた「キャラクター」がブローニュの森(訳注:現在ではパリに編入されたフランスの森林公園)を虎を追って駆け巡り、ありとあらゆる毛穴からおが屑がこぼれているイメージが浮かんだに過ぎなかった。

 「それから戦争が起こったんだ、オールド・スポート。それは大きな慰みであってね、私は懸命に死のうとした。けれども私の命は、魔法にかかっていたみたいに失われることはなかった。戦争が起こったときには私は中尉に任ぜられた。アルゴンヌの森の戦闘では、機関銃支隊を二つ率いていたのだが、前方に進み過ぎてしまって、両翼に半マイルの開きができてしまった。歩兵隊はもう進めない。そこで二日二晩凌いだよ。百三十人の兵と十六丁のルイス式機関銃でね。そしてようやく歩兵隊が到着したとき、死体の山の中に、三つのドイツ部隊の徽章が見つかった。私は少佐に昇進した。あらゆる同盟国政府が勲章を授けてくれた。――モンテネグロさえもだ。アドリア海に面した、あの小さなモンテネグロさえも!」

 小さなモンテネグロ!彼はこの言葉を宙に浮かべ、それに向かって頷いた。――持ち前の微笑みを湛えて。彼の微笑みは、モンテネグロの苦渋の歴史を理解し、モンテネグロ人の勇敢な奮闘に情を寄せていた。さらには、モンテネグロの温かく小さな心根からこの感謝を引き出した、当該国の置かれた一連の情況をよく分かっていた。私の疑いは今では身を潜め、感嘆に取って代わられた。六冊もの雑誌に目を走らせているみたいだった。

 彼はポケットに手を突っ込んだ。リボンに掛かった小さな金属片が彼の掌の中にあった。

 「これがモンテネグロから頂いたものだよ」

 驚いたことに、どう見ても本物だという感じがした。

 「ダニーロ勲章(Orderi di Danilo)」と円形に銘されていた。「モンテネグロ国王 ニコラス・レックス」

 「裏返してごらん」

 「ジェイ・ギャツビー少佐」と私は読み上げた。「貴君の卓越したる武勇を讃えて」

 「これは、また別の、いつも携帯している物だよ。オックスフォードでの日々の土産物だ。トリニティ・カレッジの中庭で撮影されたものだ。私の左にいる人物は、今ではドンカスター伯爵だ」

 その一葉の写真の中には、ブレザーを着、アーチ道に佇む六人の若者が写っていた。アーチの内側からはいくつもの尖塔が見て取れる。ギャツビーもいた。今よりずっと、とは言わないが少し若く見えた。手にはクリケットのバットを持っている。

 全ては本当だったのだ。私は、ヴェニスの大運河沿いにある彼の宮廷で、何頭もの虎の毛皮が炎のように照り映えるのを思った。彼が、深紅の光を湛えるルビーの入った箱を開け、打ち破れた心の呻吟を慰めるのを思った。

 「今日は君に大切なお願いをするつもりなんだ」と彼は言って、満足そうにメダルと写真をポケットにしまった。「それで私は、君に私のことを知っておいてもらおうと思ったんだよ。どこの馬の骨とも知れん奴だとは思って欲しくなかった。ほら、私はいつも、知らない人に囲まれる羽目になる。我が身に起こった悲しいことを忘れようとあちらこちらを動き回っているからね」それから彼は躊躇した。

 「ちゃんとしたことは今日の午後分かるよ」

 「昼食で?」

 「いや、その後でだよ。偶然知ったんだけどね、君はミス・ベイカーとお茶をともにするでしょう」

 「君はミス・ベイカーのことが好きなの?」

 「違うよ、オールド・スポート。でも、ミス・ベイカーは親切にも、このことについて君と話をするのを諾(うべな)ってくれたよ」

 私には「このこと」というのが何なのか見当もつかなかった。けれども私は、興を惹かれていたというよりはむしろ、苛立っていた。私は何も、ジェイ・ギャツビー氏について論じるためにミス・ベイカーをお茶に誘ったわけではないのだ。この頼みは、全く途方もないことだと私は確信していた。それでしばし私は、あまりに人が多く集まる彼の庭園に足を踏み入れたことを悔いた。

 彼はもう、一言も発しようとしなかった。私たちがニューヨーク市に近づくにつれ、彼は徐(おもむろ)に堅苦しさを取り戻していった。ローズヴェルト港を行き過ぎた。赤い縞の入った海洋船がいくつも見えた。それから、丸石が敷かれたスラム街を疾駆した。暗く、絶えず人の訪(おとな)う、今では褪色してしまった金ぴかの1900年代のサルーン(訳注:金を持たない者に酒を施した酒場)が軒を連ねていた。すると、私たちの両側に灰の谷が開けた。ミセズ・ウィルソンが見えた。通過したときには彼女は、息を切らせながらも活力一杯に、自動車修理場のポンプを押していた。

 フェンダー(訳注:車輪の周りの部分)を翼のように広げ、ロング・アイランド・シティ(訳注:ニューヨーク市のクウィーンズ区に位置する)の半分を、光を撒き散らしながら駆け抜けた。――半分だけだ。というのも、私たちが高架鉄道の支柱を縫うように走っていたら、あの、オートバイの「ジャグ、ジャグ、スパッ!」という馴染みの音が聞こえてきたからだ。怒り狂った警察官が並走していた。

 「分かったよ、オールド・スポート」とギャツビーは声を上げた。私たちは速度を緩めた。財布から白いカードを取り出すと、彼は警察官の眼前でヒラヒラとそれをかざした。

 「結構です」と警察官は言い、制帽に手を当てた。「以後覚えておきます、ミスタ・ギャツビー。申し訳ございません!」

 「何を見せたんだ?」と私は質した。

 「オックスフォードのあの写真か?」

 「昔、警察庁長官に便宜を図る機会があってね、それからは毎年クリスマスカードを送ってきてくれるんだよ」

 大橋の上では、大梁の間から差す陽の光が、行き交う車をずっときらきらと輝かせていた。河の向こう側では街が、白亜の山々、そしてあまたの砂糖片となって立ち現れた。全ては嗅覚を持たない金(マネー)が生む願いとともに築かれたのだ。クウィーンズボロ橋から見る街は、いつも初めて見る街だ。世界のあらゆる神秘と美がそこにある、そんな無邪気な約束を初めにしてくれるのだ。

 死者が行き過ぎた。花をいっぱいに手向けられた霊柩車に、ブラインドを引いた二台の馬車が続いた。その後には友人らの乗る、それらよりは陽気な馬車が何台か続いた。友人らは車内から私たちを見遣った。皆、悲しい目をしていた。鼻と口との間が短いのはヨーロッパの南東部に由来するものらしかった。私は、彼らの陰鬱なる祭日に、ギャツビーの素晴らしい車の光景が含まれていることが嬉しかった。私たちがブラックウェルズ・アイランドを通過するときには、一台のリムジンと擦れ違った。白人の運転手が運転していたが、中には洒落た黒人が三人乗っていた。男が二人、女が一人だ。そいつらの目玉の黒い部分が、私たちに敵意を剥き出しにしてコロコロと転がるものだから、私は声を上げて笑ってしまった。

 「もう橋を渡ったぞ、これから何だって起こる」と私は思った。「何だって……」

 ギャツビーの存在でさえ、そこでは特段の不思議もなくなってしまう。

 喧騒の声が充ちる真昼時。扇風機のよく効いた、四十二丁目の地下酒場で、私はギャツビーと昼食をともにするために落ち合った。外の通りの明るさから目が慣れず、目を瞬(しばた)いていると、奥の部屋に彼の姿がおぼろげに浮かんだ。別の男と話をしていた。

 「ミスタ・キャラウェイ、こちらは私の友人のミスタ・ウルフシャイムですよ」

 小柄の、鼻の低いユダヤ人が大きな頭を持ち上げ、私を見た。両方の鼻孔には毛がたっぷりと茂っていた。少しして、薄暗がりの中に彼の小さな両眼があるのが分かった。

 「それでな、俺は奴を見たんだよ」とウルフシャイム氏は言った。力強く私の手を握っていた。「それで俺はどうしたと思う?」

 「どうなさったのですか?」と私は礼を失しないように訊ねた。

 けれども、彼が私に向けて話をしていないのは明らかだった。というのも、彼は私の手を離し、饒舌なる鼻先の射程をギャツビーに合わせたからだ。

 「俺は金をキャツポーに渡したんだよ。それで言ってやった。『いいか、キャツポー。奴が黙るまでびた一文払うんじゃねえぞ』とね。奴はその場で黙りおった」

 ギャツビーは私たち銘々の腕を取って、前方の食堂へと案内した。するとすぐに、ウルフシャイム氏は言いかけた文を呑み込み、夢遊病者のように放心して中に入った。

 「カクテルですか?」とウェイター長が訊ねた。

 「ここは良いレストランだな」とウルフシャイム氏が天井の長老教会派のニンフ(訳注:山河、森に住む、若い女の姿の精霊)の絵を見ながら言った。「とは言え、俺は向かいの店の方が好きだがな」

 「ええ、カクテルをいただきます」とギャツビーが応じた。それからウルフシャイム氏に向かって言った。「あちらは暑すぎます」

 「暑くて狭い――そうだな」とウルフシャイム氏は言った。「けれども思い出が詰まっている」

 「どんな場所なんですか?」と私は訊ねた。

 「懐かしのメトロポール」

 「懐かしのメトロポール」とウルフシャイム氏は陰鬱な物思いに沈んだ。「死んでもう二度と会えない人たちの顔が浮かぶよ。今では永久に逝きし友で溢れていた。俺は、生きている限り、あそこでロージー・ローゼンサルが撃たれた夜のことを忘れんよ。我々六人がテーブルにおった。ロージーはその夜、たらふく食ってたらふく飲んでおった。もう夜明けだという頃、ウェイターが変な様子でロージーのところまで来て、『外でお会いしたいという方がいらしております』と言うんだ。『よしっ』とロージーは言って腰を浮かせた。俺は彼を椅子に引きずり下ろしたよ」

 「会いたいと言うなら、そのクソ野郎をここに来させたらいいじゃないか、ロージー。後生だからこの部屋の外には出ないでくれ」

 「午前四時だったよ。もしブラインドを上げていたら、もう明るくなっているのが分かったろうな」

 「その方は表に出たのですか?」と私は無邪気に訊ねた。

 「出たんだよ」憤って紅潮したウルフシャイム氏の鼻が私に向いた。「ロージーの奴、ドアのところで振り向いてな、こう言ったんだよ。『俺のコーヒーは下げさせずにおいてくれ』とな。それから歩道に出たんだがな、奴らは彼の満腹の腹に三発銃弾を撃ち込んで、車で走り去った」

 「そのうちの四人は電気椅子で処刑されましたね」と私は事件のことを思い出しながら言った。

 「ベッカーもいたから五人だな」彼の鼻孔が、興を惹かれたようにこちらを向いた。「君は仕事のゴネグションを探してるのか?」

 繋がりが分かりかねるこの二つの物言いに、私は面食らってしまった。ギャツビーが私の代わりに答えてくれた。

 「違いますよ」と彼は声を上げた。「この方じゃありません」

 「違うのか?」ウルフシャイム氏は残念そうだった。

 「この方はただの友人ですよ。そのことについては後にお話しましょうと申し上げたじゃないですか」

 「申し訳ない」とウルフシャイム氏は言った。「勘違いしておった」

 ジューシーな肉料理が運ばれてきた。ウルフシャイムは、懐かしのメトロポールの感傷に浸るのを忘れ、慎み深くも旺盛な食欲を隠さず、それを食べ始めた。その間に彼の両眼は、極めてゆっくりと部屋中を見渡していた。――彼は、振り返って自分の真後ろの人間に探りを入れることでこの旋回を終えた。思うに、私がいなかったら、彼はテーブルの下をも素速く確認したことだろう。

 「ねえ、オールド・スポート」と彼は私の方に身を乗り出して言った。「今朝、車の中では、少し気分を悪くさせてしまったかもしれない」

 あの微笑みが浮かんだ。けれども、今回は私は堪(こら)えた。

 「謎掛けは好きじゃない」と私は答えた。「どうして率直に、僕にどうして欲しいのか説明しないんだ?それに、どうしてミス・ベイカーを通さなくっちゃならない?」

 「いや、何もこそこそした話じゃないよ」と彼は私に請け合った。「ミス・ベイカーは一流のスポーツ選手だ。まずいことに手を貸したりはしない」

 突然、彼は腕時計を見て跳び上がり、慌てて部屋を出た。テーブルには私とウルフシャイム氏が残された。

 「電話をせねばならんのだよ」と、ウルフシャイム氏は彼を目で追いながら言った。「立派な奴だね。男前だし、完璧な紳士だ」

 「ええ」

 「あいつはオッグズフォードを出てるんだよ」

 「そうですか!」

 「イングランドオッグズフォード・カレッジ(訳注:正しくは「オックスフォード・ユニバーシティ」)に行ったんだ。オッグズフォード・カレッジのことは知っておろう?」

 「聞いたことはあります」

 「世界で最も有名な大学(カレッジ)のひとつだよ」

 「ギャツビーとは知り合って長いのですか」と私は探りを入れてみた。

 「数年だな」と彼は満足げに答えた。「戦争が終わった直後から懇意にしてもらっているよ。ただな、一時間話しただけで、奴が高貴な生まれだってことが分かった。家に連れてって、母親だとか姉とかに紹介したくなるような男だな」そこで彼は間を置いた。「君は、俺のカフス・ボタンを見ているね」私は別にそんなものを見ていなかったが、そう言われると否が応でも目が行った。

 象牙製だが、妙に馴染みがある。

 「人間の臼歯の標本だよ。一番いいやつだ」と彼は教えてくれた。

 「そうですか!」そう言って私は、よく見てみた。「実に面白い」

 「そうだろう」と言って、彼は上着の中に両袖を捲り上げた。「そうだろう。ギャツビーはね、女には極めて用心深い。友達の奥さんを見遣ることさえしないだろうな」

 こんなふうに本能的な信頼を寄せられる人物がテーブルに戻り腰を下ろすと、ウルフシャイム氏はグイッとコーヒーを飲み干し、立ち上がった。

 「昼食を楽しませてもらった」と彼は言った。「俺は、若いお二人さんから失礼するよ。長居をせんうちにな」

 「メイヤーさん、そう急(せ)かず」とギャツビーはいったが、心は込もっていなかった。ウルフシャイム氏は「祝福あれ」とでもいうように片手を上げた。

 「ご丁寧にありがとう。でも俺は、別の世代の人間なんだ」と彼は厳粛に言った。「お二人はここに座って、スポーツだとか若い女だとか、それに――」どんな名詞が続くのだろうと思ったところで、彼はまた手を降ってそれを埋め合わせた。「俺は五十だ。君らの前で出しゃばるまい」

 握手をして彼は去って行った。悲しみを湛えた彼の鼻は震えていた。何か気に障ることを言っただろうか、と私は思った。

 「ときどきひどく感傷的になるんだよ」とギャツビーが説明した。「今日がその一日だったってわけだね。彼はニューヨーク界隈ではひとかどの人物だ――ブロードウェイの住人だよ」

 「彼は何者なの?役者か?」

 「いや、違う」

 「歯医者か?」

 「メイヤー・ウルフシャイムが?違うよ。彼は賭博師(ギャンブラー)だよ」ギャツビーは躊躇したが、涼しげにこう付け加えた。「1919年のワールド・シリーズで、八百長を仕掛けたのはあの男だよ」

 「ワールド・シリーズで八百長を仕掛けた」と私は繰り返した。

衝撃だった。もちろん、1919年のワールド・シリーズがいかさまだったことを私は覚えていた。けれども、そのことを一人で考えていても、それは単に「起こった」こと、必然的な因果律の末端としか思わなかっただろう。一人の男が五千万の国民の信を弄(もてあそ)ぶに及ぶとは思いもしなかった。――金庫を爆破する強盗の打つ大博打だ。

 「どうやってそんなことをやったんだ?」一分ほどして、私は訊いた。

 「好機を見つけただけでしょう」

 「どうして刑務所に入ってないんだ?」

 「警察は彼を捕まえられないんだよ、オールド・スポート。頭が切れるからね」

 勘定は自分が払うと言って私は譲らなかった。ウェイターが釣りを持ってきたとき、混み合った部屋の向こうにトム・ビュキャナンの姿が目に入った。

 「ちょっと一緒に来てくれない?」と私は言った。「挨拶しなくちゃいけない人がいてさ」トムは私たちの姿を見ると、跳び上がって私たちの方に数歩歩み寄った。

 「これまでどこにいたんだ?」と彼は荒々しく問い質した。「お前が電話を寄こさないから、デイジーはすごく怒ってるぞ」

 「この人はミスタ・ギャツビーだよ。で、こちらはミスタ・ビュキャナン」

 二人は手短に握手を交わした。緊張した、これまで見たこともない当惑の表情がギャツビーの顔に浮かんだ。
 「とにかく、どうだ、最近は?」とトムが私に質した。「何でこんなに遠くまで食事しに来た?」

 「ギャツビーと昼食をとっていたんだよ」

 私はギャツビーの方を見遣ったが、もうそこに彼はいなかった。

 

 

 1917年の10月のある日――

 (と、この日の午後にジョーダン・ベイカーは語った。場所はプラザ・ホテルのティー・ガーデン。真っ直ぐな椅子に真っ直ぐに座っていた。)

 ――私はある場所から別の場所に向けて歩いていた。道程(みちのり)の半分は遊歩道で、もう半分は芝だった。芝を歩いているときのほうが嬉しかった。そのとき私はイングランド製の、底にゴムのいぼいぼがついた靴を履いていて、それが柔らかい地面に食い込んだから。新しい格子柄のスカートを履いていて、風にそよいだ。そうすると決まっていつも、星条旗――どの家も星条旗を掲げていたわ――がピンと張って、「トゥトゥ、トゥトゥ、トゥトゥ、トゥトゥ」と音を立てた。咎められているような気がした。

 一番大きな星条旗も、一番大きな芝も、デイジー・フェイの家の物だった。デイジーはまだ十八歳で、私より二つ上だった。ルイヴィルにいた若い女の子の中では、彼女がずば抜けて一番もてていたよ。白い服を着て、小さなロードスター(当時流行った、二(三)人乗りのオープンカー)を持っていた。彼女の家では一日中電話が鳴って、キャンプ・テイラー(訳注:ルイヴィルにあった軍事基地)の、興奮した若い将校らが、その日の晩、彼女を独り占めする特権をねだってきた。「とにかく、一時間だけ!」なんて言ってね。

 その日の朝、私は彼女の家の向かいに行った。彼女の白いロードスターは縁石の傍に停めてあって、座席には彼女が、私がそれまで見たことがない中尉さんと一緒に座っていたの。二人はお互いに夢中で、私が五フィートの距離に近づくまで彼女は私のことが目に入らなかったみたい。

 「あら、ジョーダン」と彼女は意外にも私を呼んでくれた。「こちらにいらっしゃいよ」

 彼女が私と話したいと思ってくれているなんて、私は鼻が高かった。年上の女の子で私が一番憧れていたのが彼女だったから。「これから赤十字に行って包帯を作るの?」と彼女は私に訊いた。「そうよ」と私は答えた。「それなら、今日は私は行けなくなったって皆さんに伝えてもらえないかな?」彼女が話している間ずっと、その将校さんは彼女を見ていた。若い女の子だったら誰でも、いつかはあんなふうに見つめられたいと思うでしょうね。ロマンティックに思えて、それでこのことをずっと覚えているのよ。彼の名前はジェイ・ギャツビーといった。それから四年以上に渡って、彼の姿を目にすることはなかった。――ロング・アイランドで彼に会った後でさえ、彼があの人と同じ人なんだって分からなかった。

 それが1917年の話ね。その翌年までに、私は何人か男の子と付き合ったし、トーナメントにも出場し始めたから、デイジーとはあまり会わなくなってしまった。彼女は少し年上の男たちと出掛けるようになっていた――誰か男の人と出掛ける場合にはね。彼女についての流言が駆け巡っていた。ニューヨークに行って、海外に出征するある軍人にさよならを言うために、彼女はある冬の夜に荷造りをしていたんだけど、それを母親に見つかったみたいだよ、という噂。彼女は行かせてもらえなくって、ご家族とは数週間口をきかなかった。その後では彼女はもう、電話をかけてきたあの軍人たちと遊ぶことはなくなった。数は多くないけど、扁平足の、近眼の若い男たちとだけ付き合うようになった。兵役に就くことができないからってね。

 翌年の秋までには彼女はすっかり元気に、かつてないほど元気になっていた。戦勝記念日の後に社交界にデビューして、二月にはおそらくニューオーリンズの男と婚約した。けれども六月には彼女は、シカゴのトム・ビュキャナンと結婚した。ルイヴィルではそれまでにない規模の、壮麗で見事な結婚式を挙げたよ。新郎は自分の車四台に百人もの人を乗せて現れてね、シールバッハ・ホテルの階を一つ丸ごと借りてたんだよ。結婚式の前日には、彼は彼女に三十五万ドルもする真珠のネックレスを贈っていた。

 私は花嫁の介添えをした。結婚式の午餐の半時間前に彼女の部屋に入ったら、彼女は、六月の夜ほどに素敵なベッドの上で、花柄のドレスを着て横たわっていた。――そして、べろんべろんに酔っ払っていた。片方の手にはソーテルヌ(訳注:ワインの一種)の瓶を、もう片方の手には手紙を握っていた。

 「おいわい、してよ」と彼女はぶつぶつと言った。「お酒飲んだことってなかったけど、とってもいい気持ち」

 「どうしたの、デイジー?」

 正直私は怖かった。そんな女の子見たことがなかったもん。

 「見てよ」デイジーはベッドに乗せてあるごみ箱をまさぐって、真珠のネックレスを取り上げた。「一階に持ってって、元々持ってた人に返して。皆に『デイジーは気が変わったの』って言って。ねえ、『デイジーは気が変わったの』って言って!」

 彼女は泣き出した――泣きまくってたよ。私は部屋の外に飛び出して、彼女のお母様の付添人を見つけた。部屋の鍵を閉じて、デイジーを水風呂に漬けた。彼女は手紙を手から離そうとしなかった。手紙を浴槽の中に入れちゃって、それでも握りしめていたものだから、ぐちょぐちょの玉になってしまった。それが雪のようにパラパラになってゆくのを見てやっとそれを石鹸皿に置かせてくれた。

 でも、彼女はもう何も言わなかった。気つけ薬(訳注:炭酸アンモニウム主剤。酔いを覚ますために用いられた)を嗅がせて、おでこには氷を載せて、とにかく元のドレスを着させた。半時間後、私たちが部屋から出たときには、真珠のネックレスはちゃんと元通り彼女の首に掛かっていた。一件落着。翌日の五時、彼女は身じろぎもせずにトム・ビュキャナンと結婚、南太平洋に三ヶ月の新婚旅行に出掛けた。

 二人が戻ってきたとき、私は二人をサンタ・バーバラ(訳注: カリフォルニア州にある街)で見かけた。あんなに自分の夫に夢中になっている女の子は見たことがないと思ったな。彼がほんの少し部屋を出ただけで、彼女は気忙(きぜわ)しく目をきょろきょろさせて、「トムはどこに行ったの?」って言ったものだよ。彼が部屋に戻って来るのが見えるまで、彼女はひどく落ち着かない顔をしていた。それから、砂浜に座って、何時間も彼に膝枕をしてあげることもあったよ。彼の瞼に指を這わせて、他の人には伺い知れないようなうっとりした表情を浮かべて彼を見つめていた。二人が一緒にいるのを見ていると、胸を打たれたものよ。――愉しくって、クツクツと笑えてきた。それが八月だった。私がサンタ・バーバラを発って一週間後、トムはヴェントゥラ通りでワゴンに衝突、彼の車の前輪の片方がもぎ取られてしまった。彼が一緒に乗せていた女の子までも新聞に載る羽目になった。というのも、彼女は腕を折ってしまったから。――彼女は、サンタ・バーバラ・ホテルで客室清掃の仕事をしていたのよ。

 翌年四月、デイジーは女の子を産んで、皆は一年間フランスに行った。ある春はカンヌで、後にはドーヴィルでお見掛けしたことがあったな。その後シカゴに戻ってきてそこに落ち着いた。ご存知のように、シカゴでもデイジーは人気だった。ご夫妻は、遊び人連中(皆が若くてお金持ちで羽目を外す人たちだった)と行動を共にしていたんだけど、デイジーの評判は完璧だった。ひょっとしたら彼女はお酒を飲まないからでしょうね。大酒飲みの中にあって飲まないというのは、すごい強みだよ。余計なことは言わないでいられるし、それに、時機を見計らって、自分だけのちょっと変わったことだってできる。皆は飲んでいるから目にも入らないし気にも留めないというわけね。ひょっとしたらデイジーは、浮気しようなんて思ったことがなかったかもしれないけどね。――でも、彼女の声にはどこか……。

 あのね、一月半ほど前ね、彼女は長年耳にしていなかった「ギャツビー」という名前を聞いたの。私があなたに訊ねたときよ。覚えている?「ウェスト・エッグに住むギャツビーを知ってますか」って。あなたがお家に帰った後で、デイジーが私の部屋に来て私を起こしたのよ。そして「ギャツビーって、ファースト・ネームは何ていうのよ」って言うのよ。私が彼の話をしたら――私は寝ぼけていたんだけど――すごく変な声で「それって、私が昔知ってた人だわ、きっと」って言ったの。このときになって初めて私の中で、このギャツビーが、彼女の白い車に乗っていた将校さんと繋がったのよ。

 

 

 ジョーダン・ベイカーがこの話を全て語り終えたときには、プラザ・ホテルを後にして三十分が経っていた。私たちは馬車に乗ってセントラル・パークを抜けているところだった。陽は既に、西の五十丁目から五十九丁目にある映画スターの高層マンションの陰に沈んでしまっていた。コオロギみたいに芝に集(つど)っていた女の子たちのはっきりした声が、暑い黄昏の中を昇っていった。

 

  俺はアラブの酋長

  お前の愛は俺の物

  夜にお前が眠っているとき

  お前の寝床に忍び寄る――

 

 「妙な偶然だね」と私は言った。

 「でも、全然偶然じゃなかったのよ」

 「どうして?」

 「ギャツビーがあの邸を買ったのは、デイジーがすぐ近くに、湾を越えて真向かいにいるからなのよ」

 それならば、あの六月の夜に彼が求めていたのは、星屑だけではなかったのだ。徒(いたずら)に華麗でしかなかった彼が、今では血の通った人間として私に迫ってきた。

 「彼が気にしているのはね」とジョーダンは続けた。「あなたが今度、午後にデイジーをご自宅にお招きして、そのとき自分も寄せてもらえないかな、っていうことなの」

 要求が慎ましやかなのに私は揺さぶられた。彼は五年も待って、邸を買って、そこに遠慮なく集(つど)う蛾に星の光を惜しげもなく注いできたのだ。――自分が、ある日の午後に、見知らぬ人の庭に「寄せてもらえ」るように。

 「彼がそんなささやかなことを頼む前に、僕はこんなことを全部知っておく必要があったのかな?」

 「彼は怖いのよ。あまりにも長く待っているもの。あなたが気分を悪くしたんじゃないかと心配していたでしょう。一皮剥けば、どこにでもいる、ただの『強がり』なのよ」

 何か釈然としないものがあった。

 「どうして君に頼まなかったんだろう」

 「彼は、デイジーに自分の邸を見てもらいたいのよ」と彼女は説明した。「そして、あなたのお家はお隣だというわけ」

 「そういうことか!」

 「彼は、パーティーをしていれば、いつかの夜にはデイジーがさまよい込んで来るって半分くらいは踏んでいたと思う」とジョーダンは続けた。「でも彼女が現れることはなかった。その後、彼はそれとなく人々に、デイジーを知っているかって尋ねるようになった。それで私が、彼が見つけた最初の人物というわけ。ほら、ギャツビーが召使いを通して私を呼びに来たでしょ、あの夜のことね。彼がそうするのにどれだけ入念に準備していたか、あのときお話できていたらよかったのだけど。もちろん私はその場で、ニューヨークで昼食をとることを提案した。――そしたら彼、ものすごく取り乱して、気が触れるんじゃないかと思った」

 「変なことはしたくない」と彼は言い張った。「ただ、お隣でお会いしたいだけなのです」

 「あなたがトムの特別な友達だって教えてあげたら、彼、計画はなかったことにしようとし始めた。トムのことはあまり知らないんだね。もっとも、デイジーの名前を目にできればってだけで何年もシカゴの新聞は読んでいるそうだけど」

 今では闇が降りていた。馬車が小さな橋の下をくぐり抜けるとき、私は片方の腕をジョーダンの黄金色の肩に絡めて引き寄せ、夕食に誘った。デイジーやギャツビーのことは、あっという間に頭から消え去ってしまった。今や私はただ、この清潔で硬質で限定的な人――世界に懐疑の目を向けながらも、私の腕がちょうど届くところでは潑溂(はつらつ)として背をもたせるこの人――のことだけを考えていた。あるフレーズが、ある種のクラクラするような興奮を伴って、私の耳の中で鳴り出した。「世に棲む人々は次のいずれかだ。追われる者、追う者、忙しい者、退屈している者」

 「そして、デイジーは人生で何かを得なくちゃいけない」とジョーダンは私に囁いた。

 「デイジーはギャツビーに会いたいのかな?」

 「デイジーには何も知らせない。ギャツビーはこのことを伏せておきたいのよ。あなたはただ、彼女をお茶に誘えばいいだけ」

 私たちは真っ黒な木々が壁になっている所を越え、五十九丁目の建物の正面を越えた。優美で柔らかな光の照らすブロックで、その光は公園まで伸びていた。ギャツビーやトム・ビュキャナンの場合とは違い、私には、魂を抜かれた顔で、壁上方の装飾だとか眩(まばゆ)いネオン燈の間をたゆたう女性はいない。だから私は傍の女性を抱き寄せ、両腕でひしと抱擁した。か弱く、蔑んだような口元が笑んだ。それで私はもう一度、もっと近くに抱き寄せた。今度は、顔に触れるほどに。

The Great Gatsby 第3章

Chapter III

 

 その夏は、隣の邸から夜通し音楽が聞こえてきた。彼の紺碧(こんぺき)の庭園では、男も女もまるで蛾のように、囁きとシャンパンと星屑のあいだを縫って行き来していた。午後の満潮のときには、彼の招待客が浮き桟橋の塔の上から飛び込んだり、彼の浜辺の熱い砂の上で日光浴をしているのを私は眺めていた。その間、彼の二艘のモーターボートが、『サウンド(海峡)』と名のついた水域を切り裂き、後ろに牽かれた波乗り板が泡沫を散らせながら瀑布の上を滑っていった。週末には彼のロールズ・ロイスはバスになり、朝の九時から翌日の未明まで、人々を街の中へと、あるいは街から外へと運んでいた。一方で彼のステーション・ワゴンは、活発な黄色い甲虫よろしく、あらゆる列車を迎えるために軽やかに走っていた。そして月曜日になると、追加で駆り出された庭師一人を含む召使い八人がひねもす骨を折って、モップとブラシと金槌と庭鋏(にわばさみ)で前夜の惨状の後始末をするのだった。

 毎週金曜日には、オレンジと檸檬の入った木箱が五つ、ニューヨークの果物商から届けられた。そして毎週月曜日には同じオレンジと檸檬は――半分に切られ、果肉はなくなっていたが――ひと山に積み上げられ、裏玄関から運び出された。厨房には、執事が小さなボタンを親指で二百回押せば、半時間で二百のオレンジが絞れる機械があった。

 少なくとも二週に一度は、宴会業者の部隊が、数百フィートの帆布に加え、ギャツビー邸の巨大な庭園を一本のクリスマスツリーに仕立て上げられそうなほどの数の色電球を持って現れた。ビュッフェのテーブルには、眩いほどのオードブルで彩りを添えられた、胡椒の効いた焼きハムがふんだんに盛られ、道化師の纏(まとう)う服になぞらえられた種々のサラダと、魔法をかけられて深い黄金色になった、豚や七面鳥の形をしたパイに被さっていた。大広間には、本物の真鍮の足載せを具えたバーが設(しつら)えられ、さまざまなジンや他の蒸留酒、加えて彼のうら若い女性客にはまず区別のつかないほどに幾星霜(いくせいそう)も忘れられてきたリキュールが用意されてあった。

 七時になるまでには交響楽団が到着している。パートが五つしかないようなお粗末なものではない。オーボエトロンボーン、サクスフォン、ビオール、コルネット、ピッコロ、それに高低相混じったドラムが、客席の手前の楽団席にもひしめいている。今では、最後まで遊泳していた者らが浜辺から戻って来て、二階で着替えをしている。ニューヨークから来た自動車が五列で車回しに停めてある。各広間、各応接間、各ヴェランダは既に、とりどりの原色で、新奇に調髪された髪で、かつてのカスティリャ王国(訳注:中世イベリア半島の王国 1065-1230)では望むべくもなかった極上のショールで、けばけばしい。バーはまさに大盛況で、外の庭園ではどこもかしこも、手から手へとカクテルがくるくると優雅に舞っている。場はいよいよ盛りで、お喋りと笑い声が、戯れの当てこすりが、その場で忘れられてしまう初対面の挨拶が、互いに名も知らない女性同士が邂逅して大喜びするのが聞こえてくる。

 大地が夕日からよろめくと、照明はさらに眩くなる。今では交響楽団は金ピカのカクテル音楽を奏でている。会話が織りなすオペラが音程を一つ上げる。刻一刻と、どんどん笑いが溢れ、徒(いたずら)に零(こぼ)れている。陽気な一言で爆笑が起きる。話の輪はさらに速やかに入れ替わり、新たに到着した客で膨れ、一息で散っては集まる。――今や、場を彷徨する者が現れている。自信に満ちた若い女性らが、ここかしこを、自分よりも体軀が良く、腰を落ち着けた者の間を縫って歩いている。輪の中心となっては、束の間鋭い恍惚に酔いしれる。勝利の感覚で胸を高鳴らせながら、絶えず変化する照明の下に浮かぶ顔、声、色が変容していく中を、滑るように歩いてゆく。

 突然、こうした「ジプシー(彷徨者)」の一人、オパール色の衣裳を纏(まと)った女性が、宙からカクテルグラスを取り、景気づけにそれを空けると、フリスコ(訳注:当時ジャズダンスで人気を博した芸人)のように両手を動かして一人、帆布の舞台に踊り出る。しばしの静寂。交響楽団の指揮者は進んで、この女性のために旋律を変えてやる。そうして再び騒々しいお喋りが始まり、こんな偽りの噂が駆け巡る。「あいつは『ザ・フォリーズ』(訳注:1907‐31に上演されたブロードウェイの劇)でギルダ・グレイの代役なんだ」。今やパーティーは始まった。

 私がギャツビー邸に行った夜、私は数少ない、実際に招待状を受け取った人間であったと思う。人々は招待されていなかった――それでも訪れたのだ。ロング・アイランド行きの自動車に乗り込み、どういうわけだか結局ギャツビー邸の門扉の前にやって来た。一旦そこに着くや、彼彼女らは、ギャツビーを知った誰かに紹介をしてもらい、そうして、遊園地を思わせる行動規範に則って振る舞った。来ていながら、ギャツビーとは全く顔を合わせずに帰るということもあった。心根の単純さが入場券で、パーティーを目当てに来訪していた。

 私は実際招待されていた。ロビンの卵のような色の制服に身を包んだ運転手がその土曜日の早朝に私の庭を横切った折、彼は主人から預かった、驚くほどに丁重な手紙を残していった。「今夜の『ささやかな宴』にご臨席賜りましたら、私ギャツビーは光栄の至りでございます」とあった。「これまでにお見かけ致したことは何度かございまして、かねてよりご挨拶に伺う所存でございましたが、諸事情により果たせずにおりました」そして、美しい文字で「ジェイ・ギャツビー」と署名してあった。

 白のフランネルのズボンで正装し、私は七時を少し過ぎた頃に彼の芝まで赴いた。人々があちらこちらへとうねる中、私はかなり居心地悪く歩き回った。もっとも、ここかしこで、通勤電車で見覚えのある顔とも出くわした。直ちに私は、そこに若い英国紳士が多数点在しているのに気づいた。皆正装していて、皆幾分腹を空かせているようだった。皆低く熱っぽい声で、堅実で富裕なアメリカ人と話をしていた。彼らは何かを売っているところなのだと私は確信した。証券、保険、自動車、そういったものだ。彼らは少なくとも、近隣にあぶく銭があることを痛々しいほど承知していたし、正しい調子で少し話せば、それは自分の物になるのも分かっていた。

 私は到着するや否や、招聘者(ホスト)を見つけようとした。けれども私が彼の居場所を尋ねた二、三人は、驚いて私を凝視し、彼の挙動など知るわけがないだろうと言っていきりたったので、私はカクテルを載せたテーブルの方へ撤退した。庭園の中で、連れのいない男が所在なげにも寂しげにも見えずに間を持たせられる唯一の場所だったからだ。

 場に完全に飲まれてしまって、酔い潰れるかというとき、ジョーダン・ベイカーが邸から出てきて、大理石の階段の一番上に立っていた。頭を少し後ろに傾げながら、軽蔑と興味の入り混じった顔で庭園を睥睨(へいげい)していた。

 相手の歓迎するところであったかどうかにかかわらず、私はとにかく誰かとくっつかなければと思った。周りを闊歩する人たちに懇ろな挨拶をするのはそれからでいい。

 「こんばんは!」と私は叫んだ。彼女の方へ歩を進めた。我が声ながら、不自然に大きく庭園に響いたようだった。

 「ここに来てるかもしれないとは思っていたよ」私が段を上がるとき、彼女はぼんやりとそう言った。「覚えてたもん。あなたがお隣にお住まいなのを……」

 彼女は何の気なしに私の手を取り、後で相手をするからと約束し、お揃いの黄色いドレスを着た二人の女の子の相手を始めた。二人が階段の下で歩を止めたのだ。

 「こんばんは!」と二人は一緒に声を上げた。「勝っちゃって、ごめんね」

 ゴルフのトーナメントの話だった。彼女は一週間前に決勝戦で敗れていたのだ。

 「誰だか分からなかったでしょう」と黄色いドレスを着た二人のうちの片方が言った。「でも私たち、一ヶ月くらい前にあなたとここで会ったのよ」

 「それから髪を染めたでしょう?」とジョーダンは言った。それで私はびくっとしたが、二人はもうすたすたと歩き去ってしまっていたから、彼女の言葉は、未だ満ちぬ月に向けて投げ掛けられることになった。その月は、その日の夕餐(ゆうさん)のように拵(こしら)えられていた。紛(まご)う方なく、給仕係が籠から取り出したものだった。ジョーダンのすらりとした金色の腕が私の腕に絡まった。そうして私たちは階段を下り、庭園で漫ろ歩きをした。カクテルを載せた盆が、黄昏を通ってふわりと私たちに向けられた。そうして私たちは、テーブルについた。黄色いドレスの二人組に加え、男性三人も一緒だった。紹介を受けたが、私たちにはもごもごとしか聞こえなかった。

「パーティーにはよくいらっしゃるの?」とジョーダンは隣に座っていた方の女の子に尋ねた。

 「あなたにお会いしてから来てなかったよ」と女の子はきびきびと、自信たっぷりに答えた。そして、もう片方の女の子の方を向いた。「あなたもそうじゃない、ルシル?」

 ルシルも、そうだった。

 「ここに来るのは好き」とルシルは言った。「何をしようとお構いなしだから、いつも楽しい。この前ここに来たときはね、ガウンが椅子に引っかかって破れちゃったの。そしたら彼が私の名前と住所を訊いて――一週間もしないうちに『クロワリエ』からきちんと梱包された新しいイヴニングガウンが届いたの」

 「もらっちゃったの?」とジョーダンが尋ねた。

 「もちろん。今夜着て来るつもりだったんだけど、胸のところが大きすぎて、直してもらわないといけなかった。紺色で、ラヴェンダー色のビーズが付いてるよ。二百六十五ドル」

 「そんなことまでしてくれる人って、何か変ね」ともう一人の女の子が興味津々と言った。「『誰とも』面倒を起こしたくないんだね」

 「誰が?」と私は尋ねた。

 「ギャツビーよ。ある人が言うにはね――」

 二人の女の子は、こっそりと身を寄せ合った。

 「ある人が言うにはね、彼は人を殺したことがあると思うって」

 私たち全員の間に緊張が走った。三人の男性は身を乗り出して、聞き耳を立てた。

 「そうじゃないと思う」とルシルは訝しがって異を唱えた。「彼は戦争中、ドイツのスパイだったのよ」

 男性の一人が、断言するように頷いた。

 「私はそのように聞いています。彼のことなら何でもご存知の男からね。ドイツで彼と共に育った男ですよ」と彼は私たちにきっぱり言った。

 「違うわよ」と初めの女の子が言った。「そんなはずはない。だって、彼は戦争中はアメリカ陸軍にいたんだもん」私たちは風見鶏のように彼女に注意を向けた。それで彼女は勢いづいて前傾姿勢になった。「誰にも見られてないって油断してるとき、ときどき観察してみるといいよ。間違いなく人を殺したことがある」

 彼女は目を細め、震えた。ルシルも震えた。私たちは皆向きを変えて彼を探した。この世に声を潜めて話すべきことなどまずない――そう信じている人が、彼については確かに声を潜めて話していた。彼が人々のロマンティックな推理を逞しくしていた証拠であった。

 最初の夕餐が―—というのは、日が変わったらさらにもう一つ出されることになっていた―—提供されているところだった。ジョーダンは私に、自分の輪に加わるように言った。一行は庭園の反対側にあるテーブルのひとつに集(つど)っていた。既婚のカップル三組に加え、ジョーダンの連れの男性がいた。意固地な学生で、激して当てこすりを言うきらいがあった。そして明らかに、今にジョーダンは(ある程度までは)自分の女になると勘違いしていた。この一行は庭園を漫ろ歩きなどせず、つとに、厳めしく、また平板な印象を与えていた。そこだけが田園地方の時代錯誤の貴族意識を代表していた。——イースト・エッグはウェスト・エッグを蔑んでいたのだ。分光器(訳注:光のスペクトルを得る装置)のような賑わいを注意深く警戒していた。

 「よそに移ろう」とジョーダンが囁いた。どういうわけだか不毛で不適切な半時間が経ってのことだった。「私にはあまりにもお上品過ぎるから」

 私たちは席を立ち、彼女が、自分たちはホスト(招聘者)を見つけるつもりなのだと説明した。そして、私がそれまでに彼に会ったことがないこと、それで私が不安に思っているということを彼女は言った。学生は嫌らしく憂鬱な仕草で頷いた。

 私たちが最初に見遣ったのはバーだった。そこは混み合ってはいたが、ギャツビーはいなかった。彼女は階段のてっぺんまで上ったが、それでも見つけられなかった。ヴェランダにもいなかった。試しに、厳めしい扉を押して中に入ってみた。天井まであるゴシック様式の書架があり、彫刻されたイングリッシュ・オークの扉がついていた。きっと、どこか海外の荒廃した邸から完全なままで輸入したのだろう。

 がっしりとした中年男(大きな、梟の目のような眼鏡をかけていた)が幾分酔って、大きなテーブルの端に腰掛けていた。いくつもの棚に入った書籍を、ふらつきながらも食い入るように見つめていた。私たちが部屋に入ると、彼は興奮して振り向き、そうしてジョーダンの顔からつま先までを点検した。

 「どう思う?」と彼は咄嗟に質した。

 「何がです?」彼は書棚に向けて手を振った。

 「あれだよ。実はな、わざわざ確認せんでいい。俺が保証する。本物だよ」

 「本のことですか?」

 彼は頷いた。

 「全くの本物だ。ページもあるし、何から何まで本物だ。俺は、良くできた、日持ちする張りぼてだろうと思ってたんだよ。実際、紛う方なき本物なんだ。ページも―—ほら、見せてやろう」

 私たちが疑っているものと端から決めつけ、彼は本棚まですたすたと歩いて行き、『ストダード講義録』の第一巻を持って戻って来た。

 「見てみろ」と彼はどうだと言わんばかりに大きな声で言った。「印刷された本物だよ。こいつには騙されたな。あいつは、まさにベラスコ(訳注:当時有名だった、舞台装置の設計士)だな。勝利と言っていい。何て徹底ぶりだ!何ていうリアリズムだ!しかも、ほどをわきまえてもいる―—ペーパーナイフでページを切り開いてないんだよ。だがな、それで何がいけない?何の問題がある?」

 彼は私から本をひったくり、そそくさと書棚に戻した。もごもごと「煉瓦が一つ欠けたら、図書室全部が崩れかねん」と言っているのが聞こえてきた。

 「誰に連れられて来た?」と彼は質した。「それとも、ただ来たのか。俺は人に連れられて来た。大体はそうだよ」

 ジョーダンは用心深く、けれども楽しそうに彼を見た。何も答えなかった。

 「俺は、ローズヴェルトという名前の女性に連れられて来たよ。」と彼は続けた。「ミセズ・クロード・ローズヴェルト。知ってるか?昨夜どこかで出会ったんだよ。俺は今で一週間ばかしずっと酔っててな、図書室で座ってりゃ酔いも覚めるかもしれんと思ったわけだ」

 「醒めましたか?」

 「少しはな。でもまだ分からん。ここに来てからまだ一時間しか経ってない。俺は本の話はしたかな?あの本は全部な―—」

 「お伺いしました」私たちは彼と仰々しく握手をし、戸外に出た。

 庭園の帆布の舞台では、今や踊りが始まっていた。年を取った男らが、若い女性を後ろ向きに円を描くように押して行きながら、いつまでもぎこちなく踊っていた。偉そうなカップルたちが、互いを不器用に、気取って抱きながら隅の方に陣取っていた。相手のいない数多くの女性が好き勝手に踊って、交響楽団にしばしの間、バンジョ(訳注:弦楽器の一種)や打楽器を演奏する苦役からの安逸を与えていた。日が変わる頃までにはさらに狂躁が高まっていた。高名なテノール歌手がイタリア語で歌い、悪名高いアルト歌手がジャズを歌った。曲の合間には人々が「軽業」を庭中で披露した。高らかで軽薄な爆笑が夏の空に昇って行った。舞台にいた双子——あの黄色いドレスの女の子だと判明した―—が衣裳を着て赤ん坊の寸劇をした。シャンパンが、フィンガーボールよりも大きなグラスで振る舞われた。月はさらに高くに昇っていた。今や『サウンド(海峡)』には銀鱗が三角形をなして浮いており、それは、バンジョの固い金属音が露となって芝に零(こぼ)れるのに合わせて微かに震えていた。

 私は依然、ジョーダン・ベイカーとともにいた。私たちは、私と同じ年頃の男性、そしてけたたましい女の子と一緒にテーブルに座っていた。女の子はほんの些細なことで、顎が外れるほどに笑った。今では私は満足していた。フィンガーボールに注がれたシャンパンを二杯飲んでおり、眼前では光景が、重大かつ根源的で深遠なものへと変わっていた。

 いっとき宴が静まり、テーブルにいる男性が私を見て微笑んだ。

 「お顔に見覚えがございます」と彼は丁寧に述べた。「戦争中、第三師団にいらっしゃったのではないですか」

 「ええ、そうです。第九機関銃大隊におりました」

 「私は、1918年の6月(訳注:第一次世界大戦は1918年の11月に終結)まで第七歩兵連隊に所属しておりました。以前にどこかでお見かけしたと承知していました」

 私たちはしばし、フランスにある、雨に濡れた灰色の小さな村々について言葉を交わした。明らかに彼はこの近隣に住んでいるようだった。というのも、彼はモーターボートを買ったばかりで、翌朝それに試し乗りするのだと私に告げたからだ。

 「ご一緒しませんか、オールド・スポート(朋友)?『サウンド(海峡)』沿いの岸のすぐ傍です」

 「何時にですか?」

 「何時でもご都合のよろしい時間に」

 彼の名を訊こうとしたとき、ジョーダンが辺りを見て微笑んだ。

 「楽しんでる?」と彼女は尋ねた。

 「さっきよりもずっと」私は再び、新しい顔見知りの方を向いた。「私にとってはなかなかないパーティーですよ。ホスト(招聘者)とお会いしてもないのですから。私はあっちの方に住んでおりまして――」私は、遠くの、目には見えない生け垣に向けて手を振った。「それで、ギャツビーという人が、運転手を通して招待状をくださったんです」しばらく彼は、よく分からないというふうに私を見た。

 「私がギャツビーですよ」と唐突に彼は言った。

 「何ですって!」私は声を上げた。「まさか、いや、申し訳ございません」

 「ご存知かと思っていましたよ、オールド・スポート。私はホストとしてはまだまだですね」

 彼は私を包み込むように微笑んだ。否、彼の微笑みは「包み込む」以上のものであった。人を永久に安堵させる、めったにない微笑みのひとつだった。人生で、四度、ないしは五度出会えるかどうか。彼の微笑みは一瞬にして、永遠(とわ)の世界全体に臨んだ――あるいは臨んでいるように思われた。そして次に、その微笑みはひとりに注がれる。理屈じゃない、そうせずにはいられないのだとでも言うように、そのひとりを味方する。その人が分かってもらいたいところまで理解してくれる。自らを信じていたいままに、その微笑みは信じてくれる。精一杯伝えたいと希(こいねが)う印象を間違いなく受け取った、そう言って心を安らげてくれる。まさにこの瞬間、微笑みは消えた。――そして私は優美な、若い無頼漢(ぶらいかん)を目の当たりにしていた。三十をひとつかふたつ超えたところであった。極めて入念で丁重な言葉遣いは、ほんのもう少し過ぎれば滑稽であるほどだった。彼が自己紹介する少し前から私は、彼が慎重に言葉を選んでいるという強い印象を受けていた。

 ギャツビーが正体を明かして間もなく、執事が「シカゴからお電話です」と言って駆け寄ってきた。彼は、私たちめいめいに、順番に会釈をした。

 「何かご入用ならおっしゃってください、オールド・スポート」と彼は私に促した。「失礼いたします。しばらくしたら戻ります」

 彼が行ってしまうとすぐに私はジョーダンの方に向き直った。否が応でも彼女に驚きを伝えずにはいられなかった。ギャツビーとは、赤ら顔で恰幅の良い中年男だと思いこんでいたのだ。

 「あの男、誰?」と私は訊いた。

 「知ってる?」

 「ギャツビーっていう名前の男でしょう」

 「どこ出身だ?で、何をしている?」

 「今度は『あなたも』この話題に首を突っ込むのね」彼女は力なく微笑んで答えた。「昔はオックスフォード大学にいたって教えてくれたよ」ぼやけた背景が彼の後ろで形を現し始めた。けれども続いての彼女の発言で、それがまた茫漠となった。

 「でもね、私は信じていない」

 「どうして?」

 「分からない」彼女はそれでも言い張った。「ただ、オックスフォードには行ってないと思うのよ」

 彼女の声色に潜む何かが私に、もう一人の女の子の「彼は人を殺したことがあると思う」というのを思い出させ、私の好奇心を駆り立てた。私であれば、ギャツビーがルイジアナの沼地から、あるいはニューヨークのイーストサイド南部から躍り出たのだという情報を聞けば、疑うことなく受け入れたであろう。理解しがたい話ではない。けれども、若い男性が――少なくとも経験の乏しい私の管見によれば――どこからともなく泰然と姿を現し、ロング・アイランド海峡に邸を買ったりすることはない。

 「とにかく彼は大きなパーティーを開いてくれる」とジョーダンは言って話題を変えた。詳細に立ち入るような真似は、都会の人間には相応しくないとでも言うように。「私は大きなパーティーが好き。親密な感じがするもん。小さいパーティーでは、プライバシーがない」

 バスドラムの轟があり、交響楽団の指揮者の声が突然、庭園で単調なお喋りが繰り返されているところに響いた。

 「紳士、淑女の皆さん」と彼は声を張った。「ギャツビー氏のリクエストにお応えしまして、ウラディミール・トストフ氏の新作をお届けいたします。昨年五月にはカーネギーホールで大きな反響を呼びました。新聞をお読みであれば、大評判であったのをご存知でしょう」彼はうきうきと、優越心を隠さずに微笑んだ。「ちょっとは評判だったんですよ!」そこで爆笑があった。

 「よく知られた曲です」と彼はにこやかに結んだ。「ウラディミール・トストフの『ジャズ版:世界の歴史』をお聴きください」

 トストフ氏の楽曲に私は集中することができなかった。演奏が始まるや否や、私の両眼はギャツビーに注がれることになったからだ。彼は一人大理石の階段に立ち、ある一行から別の一行へと賛意を示すような眼差しで視線を移していった。日に焼けた肌が美しく引き締まった。短い髪は、毎日切り揃えられているようだった。彼には不吉なところは何も見当たらなかった。酒を飲んでいないから、彼は他の招待客とは違うのだろうか、と私は訝った。仲睦まじい兄弟を思わせるような狂躁が高まるにつれて、彼はますます慇懃になるように思われたからだ。『ジャズ版:世界の歴史』の演奏が終わったとき、女の子らは仔犬のように、楽しそうに、頭を男たちの肩に載せた。また別の女の子らは戯れに後ろ向きに倒れ、男たちの腕に、あるいは人の輪の中に収まった。倒れ込んでも誰かが捕まえてくれると心得ていたのだ。けれども誰も、ギャツビーに向かって後ろ向きに倒れたりはしなかった。フレンチボブの髪型をした女の子の誰も、ギャツビーの肩に触れることはなかった。どの四重唱団も、ギャツビーと額を寄せ合って鎖を成すことはなかった。

 「失礼します」

 ギャツビーの執事が突然、私たちの脇に立っていた。

 「ベイカー様でいらっしゃいますか?」と彼は尋ねた。「申し訳ございません。ギャツビーがお二人でお話差し上げたいと申しております」

 「私と?」と彼女は驚いて声を上げた。

 「さようでございます、マダム」

 彼女はやおら立ち上がった。眉を吊り上げて私を見た。仰天しているようだった。そうして、執事に続いて邸に向かった。彼女がイヴニングドレスを着ているのに気づいた。彼女のドレスはどれも、スポーツ用の服みたいだ。彼女の動きには自足が感じられた。まるで清潔でキリリとした空気の朝に、初めてゴルフコースに足を踏み入れているようだった。

 私はまた一人になった。もう二時になろうとしていた。しばしの間、ごた混ぜの、興をそそる音が、テラスから垂れ下がった所の、窓がたくさんある長部屋から聞こえてきていた。ジョーダンの連れの学生――今では彼は、コーラスをしていた女の子二人と産科学の話をしており、後生だから輪に加わってくれと懇願してきた――を振り切り、私は邸の中に入った。

 その大部屋には人がいっぱいだった。黄色いドレスを着た女の子の片方がピアノを弾いており、傍では、背が高く髪の赤い、有名なコーラスから来た女性が歌っていた。彼女はすでにシャンパンを飲んでいて、歌の合間に、拙くもこんな決心をした。すべてがとっても、とっても悲しいの、と。彼女は歌うと同時に、さめざめと泣いていた。歌の中に間があると、彼女は喘ぐような、嗄(しゃが)れた涙声を出した。そしてもう一度、震えるソプラノの声で歌い始めるのだった。

涙は彼女の頬を伝った。けれども真っ直ぐに、というわけではなかった。涙を湛えた睫毛にまた涙がぶつかると、涙はマスカラの黒を帯び、黒い細流となってたらたらと流れた。顔の音符を歌えよ、と冗談が飛んだ。たちまち彼女は両手を振り上げ、椅子に沈み込み、深い、ワインのような眠りに落ちた。

 「あの人ね、あの人の旦那だと言い張る男の人と喧嘩したのよ」と傍らの女の子が説明した。

 私は辺りを見回した。今では、場に残っていた女性のほとんどが、夫だと言われている男と争っていた。ジョーダンの輪――イースト・エッグから来た四重唱団――でさえ、意見の相違のためにちりぢりに引き裂かれていた。男の一人が妙に熱っぽく、若い女優と話し込んでいた。彼の妻はこの状況を、威厳を崩さずに無関心を装って一笑に付そうとしていたが、結局堪えきれずに横槍を入れることになった。――話の合間合間に彼女は、彼の脇に怒れるダイアモンドのように突然現れ、耳元にこう囁いた。「約束したでしょう!」

 ぐずぐずして家に帰ろうとしないのは、どうしようもない男たちだけではなかった。今では、情けないほどに素面の男二人と憤懣やる方なき彼らの妻が、廊下を占有していた。二人の妻は、少々上ずった声で互いに同情を寄せていた。

 「この人は、私が楽しんでいるのを見たらいつも、家に帰りたがるの」

 「こんなに我儘なことって、生まれてから聞いたことない!」

 「私たちっていつも、最初に帰ってるのよ」

 「私たちもよ」

 「今夜は僕たちが最後になるよ」と片方の男が、ばつが悪そうに言った。「オーケストラだって、半時間前には帰ってしまったし」

 二人の妻は、こんな意地悪は信じられないということで一致をしたが、言い争いは束の間の衝突となって終わった。二人は抱え上げられ、足をじたばたさせていたが、夜の中へと運ばれていった。

 私は広間で、預けた帽子を返してもらうのを待っていた。すると図書室の扉が開いて、ジョーダン・ベイカーとギャツビーが現れた。彼は最後に何かを言っていたが、何人かが別れの挨拶をしようと彼に近づくと、仕草に潜んでいた熱烈は途端にぎゅっと締め上げられ、折り目正しい慎みがそこに現れた。

 ジョーダンの仲間たちが苛立ちを隠さずに玄関から彼女を呼んだ。けれども彼女は握手をしようと、しばしぐずぐずしていた。

 「もの凄いことを聞いちゃった。こんなに驚いたことはない」と彼女は囁いた。「私たち、どれくらいの時間中にいた?」

 「そうだな、一時間くらいか」「とにかく、本当に驚いた」と彼女は呆然と繰り返した。「でも私は言わないって誓ったの。私、これじゃあじらしてるみたいね」彼女は私の目の前で素敵な欠伸(あくび)をした。「また会いにきてよ……電話帳……ミセズ・シゴーニー・ハワード、私の叔母よ……」彼女は話しながら、今にも立ち去ろうとしていた。――褐色の手をひらひらさせて、元気に敬礼の仕草をした。そうして扉の所で待つ仲間に溶け込んでしまった。

 初めて来たというのにこんなに遅くまでいてしまって、私は少なからず恥ずかしく思っていた。それで私は、ギャツビーの客の最後の一団に加わった。彼の回りには人だかりができていた。夜の早い時間には彼を探し回っていたのだと彼に説明をしたかったし、庭園では彼を存ぜぬという失態を犯した無礼を詫びたかった。

 「そんなこと、おっしゃらないでください」と彼は強く言い張った。「お気になさるには及びません、オールド・スポート」この口癖には、私を安心させようと肩を擦ってくれる掌(てのひら)と同じく、親しげな感じはまるでなかった。「明朝九時、モーターボートに乗りに行くのをお忘れなきよう」

 そこで執事が、ギャツビーの脇に現れた。

 「フィラデルフィアからお電話でございます、サー(訳注:男性への、改まった呼びかけの語)」

 「分かった、すぐ行く。すぐ電話に出ると伝えてくれ……おやすみなさい」

 「おやすみなさい」

 「おやすみなさい」彼は微笑んだ。――すると突然、客の最後の一団にいたことに快い意義があるような気がした。まるで彼はずっとそれを望んでいたかのようだった。「おやすみなさい、オールド・スポート……おやすみなさい」

 けれども段を降りたところで私は、夜はまだ終わっていないことを告げる事件を目撃した。門扉から五十フィートほどの所で、十幾つかのヘッドライトが、奇妙な、騒然とした現場を照らし出した。道路脇の溝には、横転こそしていないものの、片輪がもぎ取られた新しいクーペがあった。ギャツビー邸の車回しを後にしてから二分も経っていない。脱輪は壁の鋭い突起がもたらしたもので、興を引かれたお抱え運転手が五、六人ばかり、外れた車輪に好奇の眼差しを注いでいた。けれども彼らは自分の運転する車が道路を塞いだままで来たものだから、後続の車からはきつい怒号がしばらく止まず、それが既に激しかった現場の混乱に拍車をかけた。

 長いダスターコート(訳注:当時、オープンカーでの移動の際に衣服を汚さないよう男女ともに着用した)を着た男が事故車から降りてきて、今では道路の真ん中に立っていた。楽しそうに、けれども困ったなとでも言うように、視線を車からタイヤに移し、タイヤから野次馬に移した。

 「ご覧」と彼は説明した。「溝に落ちてしまった」

 この事実は彼にとって途方もない驚きであった。私はまず、こんなに変わった訝り方をするのは一人しかいないと思った。果たして男は、ギャツビーの図書室で先般見かけた客人であった。

 「どうしてこんなことになったのですか?」

 彼は肩をすくめた。

 「機械のことは、全く分からん」と彼はきっぱりと言った。

 「でも、どうしてこんなことになったのです?壁に突っ込んだのですか?」

 「俺に訊くな」と梟眼鏡は言った。かかずらうのはご免だと言わんばかりだ。「運転に関してはほとんど知らん。ほぼゼロだ。ただ、起こってしまった。俺が知ってるのはそれだけだ」

 「運転が不得手なら、夜に運転なさらないほうがよろしいかと」

 「そんなこと、してない」と彼は憤慨して言った。「してないんだよ」

 そこで見物人らは畏れ入って黙ってしまった。

 「自殺する気なのか?」

 「車輪だけで、運が良かったな!運転が下手で、運転してないとさ!」

 「分からん奴らだ」と容疑者は説明した。「俺は運転してなかった。車内にはもう一人いるんだよ」

 この宣告を受けて衝撃が走った。「アーー!」と引き伸ばされた声が洩れ、クーペの扉がゆっくりと開いた。群衆――今では群衆となっていた――は、無意識に一歩引いた。扉が開け放たれたとき、幽霊を前にするような不気味な沈黙があった。それから、やおら、少しずつ、青白い足元の覚束ない男が、クーペの残骸から足を出した。大きく不安定な舞踏靴の片方で、ためらいがちに地面の感触を探っていた。

 ヘッドライトの眩い光に目をくらまされ、そしてひっきりなしにクラクションが呻くのに困り果てた様子で、幽霊はしばし身体を揺らしながら立っていたが、やがてダスターコートに身を包んだ男に気づいた。

 「どした?」と彼は静かに尋ねた。「ガソリン切れか?」

 「ご覧!」

 六本ほどの指先が、もぎ取られた車輪を指した。――彼はしばらくそれを凝視していたが、やがて空を見上げた。あたかも車輪が空から降ってきたと思っているようだった。

 「外れたんだよ」と誰かが説明した。

 彼は頷いた。

 「車が停まったって初めは分からんかった」

 沈黙。それから彼はゆっくり息を吸い込み、肩を張った。そして、断固とした声でこう言った。

 「ガソリンスタンドは、どーこーだー!」

 少なくとも十を超す男らがおり、中には彼と変わらぬほどに酩酊していた者もいたが、彼らは一様に、車輪と車体はもう物理的に繋がっていないのだと説明してやった。

 「後ろに下がってくれ」としばらくして彼は言った。「車をバックさせるから」

 「でも、車輪が外れてるんだって!」

 彼は口ごもった。

 「試すだけならいいだろう」と彼は言った。

 大騒ぎする猫のようなクラクション音は今や最高潮に達していた。私は振り返って芝を横切り、家の方に向かった。一度だけ後方を振り返った。ウエハースのような月がギャツビーの邸の上方で輝いていた。おかげで夜は変わらず素敵だった。未だ燦々たる庭園の笑い声と喧騒が止んでなお、月はそこにあった。突如、邸の窓から、大きな扉から、空虚が溢れ出すように思われた。招聘者――玄関に立ち、片手を上げ、礼を尽くして別れの挨拶を送っていた招聘者――の姿には、全き孤絶の感があった。

 ここまで書いてきたのを読み返してみると、それぞれが数週間の間隔を置いた三夜の出来事のみが私を虜にしたのだと受け止められかねないのが分かる。実際はむしろ、それらは波瀾に満ちた一夏の、たまさかの出来事でしかなかった。それに、ずっと後になるまで、そうした出来事は私の関心のほとんど外側にあった。自分の抱えていた問題で頭が一杯だったのだ。

 ほとんどの時間、私は仕事をした。早朝、日光が私の影を西に投げかけると、私はニューヨーク南部の白い谷間を、プロビティ信託銀行まで足早に歩を進めた。他の行員や若い証券マンとはファーストネームで呼び合っていた。暗く混み合ったレストランで、小さな豚肉ソーセージだとかマッシュトポテトだとかコーヒーといった昼食を共にした。ジャージー市に住んでいた、経理部で働く女の子と束の間の関係を持ったことさえあった。けれども彼女の兄が、私に対して嫌な目つきで睨みを利かせ始めたから、彼女が七月に休暇に出かけたときに穏便に関係を解消した。

 夕食はイェール・クラブでとった。――どういうわけだか、一日で一番陰鬱な時間だった――それから私は図書室まで階段を上って行き、投資物件や有価証券について一時間みっちりと勉強した。私の回りには大抵、大騒ぎする人間が少しはいたものだが、図書室にまで入ってくることはなかった。だから、勉強するには良い環境だった。その後、夜が優しく心地良ければ、マディソン通りをのんびり散歩した。古いミュレイ・ヒル・ホテルを過ぎ、三十三丁目通りを越え、ペンシルヴェイニア駅に到った。

 私はニューヨークが――夜の危なっかしくてゾクゾクする感じや、どこを見ても男や女や機械が始終チカチカと目に映る満足が――好きになり始めていた。五番街を歩いて、人混みの中から素敵な女性らを選んで、数分後には彼女たちの生活に潜り込むのだと想像してみることも好きだった。誰にも気づかれないし、誰に咎められるというのでもない。ときには心の中で、裏通りの角のアパートメントまで後をつけることもあった。彼女たちは振り返って私に微笑んで、暖かな闇の中へと扉をくぐって消えていった。うっとりするようなニューヨークの黄昏時には、私は孤独に囚われることがあった。そして他の人にも孤独を感じた――店舗の窓前で、独り食事をとる時間になるまで所在なげに待っている、金のない若い事務員。暮れなずむ街にあって、夜の、あるいは生の最も切ない瞬間を無為にしている若い事務員。

 八時になると、四十丁目から四十九丁目の暗い舗道では、劇場地区に向かうタクシーが五列になってエンジン音を響かせるようになる。私はまた沈鬱な心持ちがした。列をなして待つタクシーの車内では、二人の人影が互いに寄り添っていた。歌うような声がした。こちらにまでは聞こえて来ない冗談を言っては笑っていた。煙草の火が灯され、車内の二人のおぼろげな仕草が浮かんだ。私もまた、楽しいことに向けて駆け出している、私もまた、二人の睦まじい興奮を抱いている、そんなふうに思ってみて、どうかお二人もお幸せにと願をかけた。

 しばらくジョーダン・ベイカーを見かけることはなかったが、盛夏の折に彼女と再会した。初めのうちは、彼女と一緒にどこかに行くのは鼻が高かった。何と言っても彼女はゴルフのチャンピオンだったし、誰もが彼女の名を知っていたからだ。やがて、そこにはそれ以上の意味が生まれた。恋に落ちたとまでは言わないが、いわば愛おしむような興味が生まれたのだ。彼女が世間に対して向ける、退屈した高慢な顔つきは何かを隠していた――衒いというのはほとんどの場合、終いには何かを隠してしまうものだ。当初はそうではないにもかかわらず。そしてある日私は、その正体を突き止めることになった。ウォリックで催された、あるハウスパーティーに二人で出席したときのことだ。彼女は雨の中、借り物の車の幌を下ろしたままで放置し、そのことで嘘をついた――そして私は突然、あの夜デイジー宅では思い出せなかった、彼女についての話を思い出した。彼女の最初のゴルフトーナメントで、あわや新聞沙汰になるほどの口論があった――準決勝のラウンドで、彼女が不利な位置にあったボールを動かしたとの指摘があったのだ。大きなスキャンダルになりかかったが、いつしか忘れ去られてしまった。キャディーは前言を撤回したし、別の唯一の目撃者は、自分が見間違ったのかもしれないと認めた。この事件と彼女の名前とをともに、私は覚えていた。

 ジョーダン・ベイカーは本能的に、頭が切れて抜け目のない男性を避けていた。そして今では私は、規範からの逸脱が不可能と思われる場の方が彼女は安心していられるからだと理解していた。彼女は、手の施しようがないほどの嘘つきだった。不利な立場にいることには我慢がならなかった。この身勝手さを思うに、彼女は幼いときはもう、冷たく無礼な笑みを世間に向けるために、また逆に、自分の屈強で気力みなぎる身体の欲求を満たすために、こそこそした嘘の振る舞いを基盤に据えるようになっていたのではないか。

 けれども私にとってはどうでもよいことだ。女性の不誠実さというのは、本気で批難するべきものではない――私自身、少しは胸が痛んだが、じきに忘れてしまった。車の運転について面白い会話を交わしたのも、同じハウスパーティーでのことだった。土木作業をしている人たちとすれすれのところを通過したせいで、フェンダーに一人の作業員の上着のボタンが引っかかった。

 「まったく、酷い運転をするんだな」と私は抗議した。「もっと注意して運転しないんだったら、運転は金輪際(こんりんざい)しない方がいい」

 「注意して運転してるわよ」

 「いや、そんなことはないね」

 「そうね、他の人は注意深い」と彼女はおどけて言った。

 「それが何の関係がある?」

 「避(よ)けてくれるでしょう」と彼女は言い張った。「事故が起きるには、二人が必要だけれど」

 「君と同じように全然注意が足りない奴と当たったらどうするんだ」

 「そうならないといいわね」と彼女は答えた。「注意の足りない人って嫌い。私があなたを好きなのも、それだからよ」

 彼女の灰色の、日を受けて細まった両眼が前方をまっすぐに見据えていた。けれども彼女は意図的に私たちの関係を一歩動かしたし、しばし私は、自分は彼女を愛していると思った。しかし私はゆっくりとしか物を考えられない人間であるし、心の中には、欲望に歯止めをかけるための自分なりの取り決めが山ほどある。それにまず、故郷でこじらせた関係をいったん完全に解消しなければならないことも分かっていた。週に一度は手紙を書いていたし、そこには「愛を込めて ニック」と署名をしていた。私に思い出せたのは、この女性がテニスをするとき、上唇に微かな口髭のような汗が浮かぶ様子くらいのものだった。けれども二人の関係には、はっきりとしたものではないにせよ、相互理解とでも呼ぶべきものがあった。絆(ほだ)されまいとするのなら、それは上手く解消されなければならなかった。

 誰しも自分は、少なくとも一つは徳を持っていると思うものだ。私に関して言えば、こういうことになる。私自身、私がこれまでに知る中でも、数少ない正直な人間の一人である。

The Great Gatsby 第2章

Chapter II

 

 ウェスト・エッグとニューヨークの真ん中あたりで、自動車道が急に鉄道に寄り添って、そのまま四百メートルほどを駆け抜けるところがある。ある荒れ果てた土地の一角から逃れるためとでも言わんばかりだ。これは灰の谷である。巨大な農地であり、灰が小麦のように育ち、尾根となり、丘陵(きゅうりょう)となり、おぞましい庭地となる。さらには家、煙突、立ち昇る煙の形をとる。かなり手こずるとは言え、終(しま)いには、粉っぽい空気の中でぼんやり動く、もう崩れかかっている男らの形をとる。ときどき灰色の貨車の列が、目に見えぬ轍(わだち)を這って来る。キイィとおぞましい軋(きし)み。停車。すぐに灰色の男らが一斉に、鉛色(にびいろ)の鋤(すき)を持って動き回る。灰がモクモクと立ち上がるのを、掻き回す。彼らの人知れぬ作業は覆い隠されてしまう。

 けれども、この灰色の地、荒寥(こうりょう)たる灰燼(かいじん)が息巻いては絶えず地を撫でているところから目を上げると、しばしの間を置いてT. J. エクルバーグ博士の両眼が顕れる。T. J. エクルバーグ博士の両眼は青く巨大で、網膜が一ヤードの高さにある。顔はない。その代わりに巨きな黄色い眼鏡が、そこにあるはずの鼻に掛かり、中から両眼が見据えている。明らかに、型破りでふざけた眼鏡処方師が、クウィーンズ行政区での事業を膨らませる目論見で設置したのだ。そうして彼自身は永遠に光を失ったか、あるいは眼のことは忘れてしまい、どこかに越してしまったのだ。けれども博士の両眼は、風雨に晒されても塗り直されることがなかったために少しばかり鋭さを失いつつ、今なお、荒寥としたゴミ捨て場の上で物思いに耽っている。

 灰の谷の片側の境界は小さなどぶ川である。荷船を通すのに撥ね橋が上げられるときは、橋が架かるのを待つ列車に乗り合わせた乗客は、半時間もの間この気の滅入るような光景を見せつけられることになる。そうでなくてもここでは常に、列車は少なくとも一分は停車する。私がトム・ビュキャナンの女と初めて会ったのは、そういう事情からだった。

 彼に女がいるというのは、彼を知った人のいる場ではどこであっても言い立てられた。彼の知り合いらは、彼がその女を連れては流行りのカフェに出没し、テーブルに女を残したままで歩き回り、知った人間誰にでも話しかけるというので腹を立てていた。私はその女がどんなのか見てみたいと思ったが、会う約束を取り付けようとまでは思わなかった。けれども結局そうすることになった。ある日の午後に私はトムと列車でニューヨークまで出掛けた。灰がうず高く積もっているところで列車が停まるや彼はぴょんと立ち上がり、私の肘を取って文字通り私を車室から引きずり出した。

 「降りるぞ」と彼は言い放った。「俺の女に会って欲しい」

 思うに、彼は昼食時にだいぶ飲んでいたのだろう。私を同伴させると端から決めていた。ほとんど暴力であった。傲慢にも、私には日曜の昼間にはそれ以上ましな予定はないだろうと信じて疑わないのだ。

 私は彼に付き従った。低い、白塗りの鉄道の柵を越え、鉄道に沿って百ヤード、もと来た道を遡った。その間ずっと、T. J. エクルバーグ博士が執拗に私たちのことを見ていた。視界にあった唯一の建物は、黄色い煉瓦造の小さなビルで、荒れ地の端に佇んでいた。ニューヨークのメイン・ストリートの縮約版みたいなもので、当地の必要に応じていたが、今にも消えてしまいそうな代物だった。店が三軒入っていて、一軒は「貸店舗」とあった。もう一軒は朝まで営業する料理屋で、入り口には灰が近づいていた。そしてもう一軒は自動車修理店であった。「修理承ります。ジョージ・B・ウィルソン。車の買取と販売」その中にトムが入り、私も続いた。

 内装は貧相で、がらんとしていた。目につく唯一の車は塵の積もったおんぼろのフォードで、薄暗い角に佇んでいた。そのときまでに私には、こいつは一見自動車修理店のようだが、引っ掛けだ、豪華でロマンティックな部屋がいくつも頭上に隠れているのだと考えていた。そのとき家主が事務室の出入口に現れた。よれよれの布で両手を拭いていた。金髪で、覇気のない男だった。青白く、少しだけ男前だった。私たちを認めると、彼の水色の両眼に、潤んだ希望の光が射した。

 「よう、くたびれウィルソン」とトムは言った。気安く肩を叩いた。「商売はどうだ?」

 「文句は言えません」とウィルソンは弱々しく答えた。「あの車はいつお売りいただけるんでしょうか?」

 「来週だ。家の者に手入れさせている」

 「ゆっくりですなあ」

 「そんなことはない」とトムは冷たく言った。「そう思うんだったら、俺はやっぱり車は他所(よそ)で売ろうか」

 「そんなつもりじゃないんです」とウィルソンは急いで説明した。「ただ……」

 彼の声が萎(しぼ)まった。トムは苛立ちを隠さずに工場(こうば)を見渡した。そのとき階段で足音が聞こえた。すぐに、肉づきの良い女が現れた。事務室の扉からの光を遮っていた。彼女は三十代の中葉で、少しぽっちゃりとしていた。けれども、剰(あま)った肉の纏(まと)い方は官能的だった。そういうことができる女性はそう多くない。顔が、水玉模様が施された紺のクレープデシンの上にあった。煌めくような、あるいは輝くような美しさがあるわけではなかった。けれども彼女には、すぐに見て取れる活力があった。まるで身体の神経が断続的に燻(くすぶ)っているようだった。彼女は徐(おもむろ)に相好(そうごう)を崩すと、夫の傍らをすたすたと歩いて行き(まるで彼が幽霊とでも言うように)、トムと握手をした。彼女に見つめられ、トムの眼は輝いた。そうして彼女は、唇を湿らせ、振り返ることもせず、夫に柔らかく嗄(しゃが)れた声でこう言った。

 「椅子をお持ちしたらどうかしら、ね、お掛けいただけるように」

 「ああ、そうだね」とウィルソンは慌てて諾(うべな)い、小さな事務室の方へと行ったかと思うと、壁のセメントの色と混ざってしまった。白い灰燼が彼のダークスーツを、薄い色の髪を覆い、そこら中の物全てを覆った。もっとも彼の妻は例外であった。彼女はトムに寄り添った。

 「会いたかった」とトムは熱っぽく言った。「次の列車に乗ろう」

 「ええ」

 「下の売店で待ち合わせよう」

 彼女は頷いて彼から離れた、と同時に、ジョージ・ウィルソンが事務室の扉から椅子を二つ持って現れた。

 私たちは道を下った、目の届かないところで彼女を待った。七月四日の独立記念日の数日前だった。灰色で痩せぎすのイタリア系の子供が線路に癇癪玉を並べていた。

 「ひどい場所だな」とトムが言った。しかめっ面をエクルバーグ医師と交わした。「やりきれない」

 「出かけるのはあいつにとって良いことだよ」

 「旦那は反対しないの?」

 「ウィルソンか?ニューヨークの妹に会いに行ってるんだと思いこんでるよ。ほんとに馬鹿だから、自分が生きてるってことすら分かっていない」

 それでトム・ビュキャナンと彼の女と私は皆でニューヨークまで行った。いや、正確には「皆で」というわけではない。というのも、ミセズ・ウィルソンは用心して別の車輛に座っていたからだ。トムは、同じ電車に乗っているかもしれないイースト・エッグの同胞たちの感情に、その程度の配慮はしていたわけだ。

 彼女は茶色の綿のドレスに着替えていた。ニューヨークに着いて、彼女が列車から降りるのをトムが手助けしたときには、服が彼女の幅広な骨盤に沿ってピンと張った。売店で彼女は『タウン・タトゥル』誌と映画雑誌を買った。それから駅の薬局でコールドクリームと瓶詰めの香水を買った。階段を上がると、陰鬱な喧騒が溢れる車回しが現れた。彼女はタクシーが四台流れていくのを見届け、そうして新しく、内部に灰色の布が張ったラヴェンダー色のタクシーを選んだ。これに乗って私たちは巨きな駅舎から燦々たる陽光の中へと滑り出て行った。けれどもすぐに、彼女が窓からキッと振り向いたかと思うと、前に身を乗り出し、運転席との仕切りのガラスを叩いた。

 「あそこの犬、一匹買いたい」と彼女は本気で言った。「部屋に一匹欲しいのよ。犬を飼うのって、すてきよ」

 私たちは、犬を売る灰色の老人のところまで車を戻した。彼は不条理なほどジョン・D・ロックフェラー(訳注:アメリカの実業家、慈善家。1839-1937)と似ていた。彼の首にぶら下がっている籠の中には、生まれて間もない、品種も定かでない仔犬が十二匹ほど、身を縮めて慄いていた。

 老人がタクシーの窓までやってくると彼女は「仔犬ちゃんの種類は?」と熱っぽく尋ねた。

 「何でもございます。何をお求めになりますか?」

 「警察犬を一匹いただきたいわ。でも、いないでしょうね」

 老人は疑わしそうに目を細めて籠の中を確認した。中に手を突っ込み、首根っこを掴むや、身を捩らせている仔犬を引き上げた。

 「警察犬じゃない」とトムは言った。

 「ええ。正確には警察犬じゃありません」と言った老人の声には落胆が宿っていた。「むしろ、エアデールですな」と言って、老人はその、茶色のタオルみたいな背を撫でた。「この毛並をご覧ください。大したもんでしょう。風邪を引いてご迷惑をおかけすることはない犬ですよ」

 「可愛い」とミセズ・ウィルソンは大喜びで言った。「おいくら?」

 「この犬ですか?」老人は「すごいな」とでも言うように仔犬を見遣った。「十ドルで結構ですよ」

 そのエアデールは(どこかでエアデールの血が入っているのは疑いようがなかったが、足はまばゆいほどに真っ白だった)今や飼い主が変わり、ミセズ・ウィルソンの膝に落ち着いた。彼女は悦に入って、仔犬の、どんなに天気が悪くても平気だという毛並を撫でた。

 「この子は男の子?女の子?」と彼女は上品な言い回しで訊いた。

 「この子ですか?男の子ですよ」

 「ビッチ(雌犬)だ」とトムがぴしゃりと言った。「金だ。行ってあと十匹買って来い」

 私たちは五番街へと車を走らせた。暖かく柔らかな、ほとんど牧歌的とでも言ってよい夏の日曜日の午後であった。真っ白な羊の大群が角を曲がるのが見えたとしても、私は驚かなっただろう。

 「車を停めて」と私は言った。「ここでお別れだ」

 「だめだよ」とトムが素速く言葉を挿んだ。「お前が部屋に来ないとマートルが心を痛める。なあ、マートル」

 「いらっしゃいよ」と彼女は促した。「妹のキャサリンに電話をするから。妹は、お目が高い方々にはすごく綺麗だと言われているのよ」

 「いや、伺いたいんだけど、でも……」

 車はさらに進んだ。また進行方向が逆になり、セントラル・パークを抜け、西の百番台の通りに向かった。百五十八丁目でタクシーは停まった。マンションの家々が長いホワイトケーキで、その一片に停まったようだった。ミセズ・ウィルソンは、本国に還った女王よろしく近隣を一瞥し、仔犬や他に買った物を取りまとめ、傲然と中に入った。

「マッキーご夫妻にもいらしてもらうつもりなの」と、私たちがエレヴェーターで階上に行くとき彼女が告げた。「それからもちろん、妹にも電話するわ」

 部屋は最上階にあった。小さな居間、小さな食事室、小さな寝室、そしてバスルームがあった。居間には、そこには収まり切らないほど大きな、タペストリー(訳注:風景や人物の絵模様を織り出した室内装飾用の織物)で装飾を施された調度品一式がぎっしり扉まで詰まっていて、動き回ったら何度も、ヴェルサイユ宮殿の庭々でブランコ遊びに興じる淑女の描写に足を取られることになった。写真が一枚だけあったが、拡大されすぎていた。見たところ、ぼやけた岩に佇む雌鶏のようであった。けれども遠目から見ると、その雌鶏は女性用の帽子で、しっかりとした体軀の高齢の女性のほころんだ顔が部屋を見下ろしていた。しばらく前の『タウン・タトゥル』誌が数冊、『ペテロと呼ばれたシモン』(訳注:当時の人気小説)やブロードウェイの事情を扇情的に書き散らしている小振りの雑誌何冊かと一緒にテーブルに置かれていた。ミセズ・ウィルソンがまず気にしたのは犬のことだった。気怠そうなエレヴェーター・ボーイが、藁を敷きつめた箱と牛乳を持って来る役目を与えられたのだが、気を利かせて、缶に入った大きくて固い犬用ビスケットまで持ってきた。そのうちの一枚は、午後の間中ずっと牛乳の入った皿にあって、誰にも気を留められることなく、ぐずぐずに崩れてしまった。他方、トムは鍵のかかった引き出しからウィスキーのボトルを取り出して来た。

 私は、泥酔したのは生まれてから二回しかない。二回目がその午後のことだった。そのせいで、部屋には八時を過ぎるまで素敵な陽光が満ちていたのに、その午後の出来事には仄暗い霞がかかっている。ミセズ・ウィルソンはトムの膝に座って何人かに電話をかけた。それから煙草が切れて、角の薬局に買いに出た。戻ると皆いなくなっていた。居間で注意深く腰を下ろし、『ペテロと呼ばれたシモン』を一章分読んだ。碌でもない書き物だった。あるいは、ウィスキーが物事を歪めていたのだろう。何を書いているのか訳が分からなかった。

 トムとマートル(一杯目を飲んでから、ミセズ・ウィルソンと私は互いをファースト・ネームで呼ぶようになっていた)が再び姿を現し、それとともに玄関の扉には客人が到着し始めた。

 妹のキャサリンはほっそりとして世慣れた風貌の三十歳前後の女性で、髪は赤毛でべったりと固められたボブ、肌は白粉で乳白色だった。眉は抜かれ、もっと「格好がつく」角度で眉が引かれていた。けれども元あった眉は自然、元あった場所に生えてこようとするから、結果、彼女の顔はぼやけた印象を与えた。彼女が動き回ると、両腕に着けた無数の陶器のブレスレットが踊って、絶え間なくかちゃかちゃ鳴った。我が物顔でそそくさと入ってきて、自分の物だとでも言うように調度品を見渡すから、私は彼女がここに住んでいるのではないかと訝ったほどだ。けれども、私が訊いてみると、彼女はゲラゲラ笑って私の質問を繰り返し、そうして自分は女友達とホテル住まいをしているのだと教えてくれた。

 ミスタ・マッキーは、一つ下の階の部屋に住む、血色が悪く、女性みたいな男性だった。髭を剃ってきたばかりのようで、石鹸の白い泡が片方の頬骨に残っていた。そして、部屋の皆に極めて丁重に挨拶をしていた。自分は「芸術畑」にいるのたと教えてくれたが、後になって私は彼が写真師であると知った。壁に心霊写真のように浮かんでいたのはミセズ・ウィルソンのお母さんで、写真を拡大してぼやかしたのは彼だということだった。ミセズ・マッキーは、声が甲高いくせに覇気がなく、また、顔立ちこそ整っていたものの、ひどい人間だった。自分は結婚してから旦那に百二十七回も写真を撮ってもらったのだと自慢をしてきた。

 ミセズ・ウィルソンは少し前に着替えており、今や意匠を凝らした、クリーム色の絹のアフタヌーンドレスを着ていた。ドレスを引き摺って部屋を歩くから、いちいちその度にサラサラと鳴った。彼女はドレスの威を借りて、人柄までも変わっていた。ウィルソンの工場であれほど目立っていた強烈な活力は、形を変え、大層な高慢になっていた。彼女の笑い声、仕草、きっぱりとした断定口調は刻一刻と猛烈に感化され、彼女が膨らむにつれ、彼女の周りで部屋は小さくなった。そうしてついに彼女は、大きな軋みを立てる回転軸になって、紫煙のくゆる空気を掻き回すに到った。

 「マイ・ディア」と彼女は妹に、気取った大きな声で言った。「こういう人たちってほとんど皆、いつも人を騙しているんだよ。頭にあるのはお金のことだけ。先週は足を診てもらおうと思って女の人をここに呼んだんだけどね、請求書を見たらすごいの。盲腸でも切ったんじゃないかっていうくらい」

 「その女の人、何て名前?」とミセズ・マッキーが尋ねた。

 「エバハートさんっていうの。よく足を往診してるのよ」

 「そのドレス、いいね」とミセズ・マッキーが言った。「素敵だと思う」

 ミセズ・ウィルソンはこの賛辞を、侮蔑を込め眉を吊り上げて一蹴した。

 「古い、しょうもない物よ」と彼女は言った。「見た目を気にしないときにたまに着るの」

 「でも、すごく似合ってるよ。何て言えばいいのかな」とミセズ・マッキーは食い下がった。「もしそのポーズでいるのをチェスターが写真に撮ったら、ちょっとした物になるよ」

 一同が黙ってミセズ・ウィルソンを見た。両眼にかかっていた髪を払い、満面の笑みを湛(たた)えて見返してきた。ミスタ・マッキーは片側に首を傾げて真剣な顔で彼女を見ていた。それから、顔の前で手を前後に動かした。

 「光の具合を変える必要があります」と彼はしばらくして言った。「顔の立体感も表現したいですし、後ろの髪も捉えたいですから」

「この光のどこがいけないっていうのよ」とミセズ・マッキーが大声を上げた。「私は……」ミスタ・マッキーが「シッ」と言うと、一同は再び被写体を見遣った。そこでトム・ビュキャナンが聞こえるように欠伸(あくび)をして立ち上がった。

 「まあマッキーご夫妻、何かお飲みなさい」と彼は言った。「氷とミネラルウォーターを追加で持って来い、マートル。皆様がお休みにならないうちにな」

 「私はあの男の子に氷を持っておいでって言ったのよ」とマートルは眉を吊り上げ、下々の者の怠慢は絶望的だといった調子で言った。「あの人たちったら!ずっとお尻を叩いてないといけない!」

 彼女は私を見て、意味もなくハハハと笑った。そうして、どかどかと犬のところまで歩いて行き、悦に入ってキスをすると、すうっと台所に入っていった。そこでは、シェフが十余人、彼女の指示を待ち構えているかのようだった。

 「ロング・アイランドではなかなかの仕事ができましたよ」とミスタ・マッキーが自信たっぷりに言った。

 トムはぽかんと彼を見遣った。

 「下の階で、そのうちの二枚を額縁に入れたんです」

 「二枚の何です?」とトムは問い質した。

 「習作なんですが。ひとつは『モントーク岬 鷗(かもめ)』といたしまして、もうひとつは『モントーク岬 海』といたしました」

 キャサリンが、カウチに座る私の隣に腰を下ろした。

 「お住いは、あなたもロング・アイランドなの?」

 「ウェスト・エッグですよ」

 「そうなの?一ヶ月ほど前かな、パーティーがあって行ったよ。ギャツビーさんっていう人のとこ。ご存知じゃない?」

 「お隣さんですよ」

 「あのね、ギャツビーさんは、ヴィルヘルム皇帝の甥だか従弟なんだとか。お金は全部そこから来てるんですって」

 「そうなの?」

 彼女は頷いた。

 「ぞっとする。ああいう人に弱みを握られたりはしたくないわ」

 私の隣人にまつわる、この興をさかす情報は、ミセズ・マッキーが唐突にキャサリンを指差したことで立ち消えになった。

 「チェスター、彼女を撮ったら素敵なんじゃない?」と彼女は切り出した。けれどもミスタ・マッキーは退屈そうに頷いただけで、トムに注意を向けた。

 「ロング・アイランドでもっと仕事がしたいものです。そうした機会に恵まれるならば、ということですが。きっかけさえいただければいいのです」

 「マートルに頼めばいい」とトムは言った。ミセズ・ウィルソンが盆を持って入ってくるや、彼は束の間、哄笑した。

 「あいつがあなたに紹介状を書きますよ。なあ、マートル」

 「何ですって?」彼女は仰天して尋ねた。

 「お前がマッキーさんに、お前の旦那への紹介状を書くんだよ。そうしたら、お前の旦那の習作が撮れる」

 彼の唇がしばらく静かに動き、彼は戯れにこう言った。「『ジョージ・B・ウィルソン。ガソリン入れ場にて』とか何とか」

 キャサリンが私に身を寄せ、耳元に囁いた。

 「二人とも、結婚相手には我慢がならないのよ」

 「そうなの?」

 「我慢がならない」彼女はマートルを見て、それからトムを見た。

 「つまりね、何で相手が我慢がならないっていうのに、一緒に暮らし続けてるのかってこと。私だったら離婚して、すぐに一緒になるけどな」

 「お姉さんもウィルソンが好きじゃないの?」

 この質問への答えは予期しないところから出てきた。マートルが聞き及んで答えたのだ。攻撃的で野卑な言い方だった。

 「ほらね」とキャサリンが勝ち誇ったように声を上げた。彼女はもう一度声を低くした。「結婚できなくしてるのは、実際トムの奥さんなのよ。カトリックでね、離婚なんてできないというわけ」

 デイジーカトリックではなかった。私は嘘が念入りに拵えられているのに、頭がくらくらした。

 「実際結婚するとなったら」とキャサリンは続けた。「ほとぼりが冷めるまで、しばらく西部に行くつもりでいるのよ」

 「ヨーロッパに行く方が慎重だという気がするけど」

 「あら、ヨーロッパがお好き?」と彼女は意外にも大きな声で応えた。「私はモンテ・カルロから戻ってきたばかりなの」

 「そうなんだ」

 「去年ね。もう一人の女の子と行ったんだけどね」

 「長いこといたの?」

 「いや、モンテ・カルロに行って帰ってきただけだよ。マルセイユ経由でね。千二百ドル以上持っていったんだけどね、カジノの特別室で、二日で全部巻き上げられてしまったの。帰りは正直ひどいものだったよ。あの街はほんとに嫌い!」

 暮れなずむ空が束の間、窓越しにきらめいた。地中海が碧(あお)い蜂蜜を湛(たた)えているようだった。――そこで、ミセズ・マッキーの金切り声が私を部屋に引き戻した。

 「私ももう少しで間違いをするところだった」と彼女は元気いっぱいに言い募った。「何年も私を追いかけ回した、ちびのユダ公と結婚するところだった。そいつは私とは釣り合わないって分かっていたわよ。みんなも『ルシル、あの人なんかじゃもったいないよ』ってずっと言ってくれてたし。でもね、チェスターと出会わなかったら、きっとあいつが私を射止めてたわね」

 「そうね、でも聞いて」とマートル・ウィルソンがうんうんと頷きながら言った。「少なくともあなたは、その人と結婚しなかった」

 「そうね」

 「私はね、結婚したのよ」とマートルは含みを込めて言った。「それが、あなたの場合と私の場合の違いなの」

 「どうしてあなたは結婚したの、マートル?」とキャサリンは食って掛かった。「誰に強制されたのでもないでしょう?」マートルは考え込んだ。

 「私が彼と結婚したのは、彼が紳士だと思ったから」と彼女はようやく言った。「礼儀作法も多少わきまえていると思っていたけど、でも、私の靴を舐めるにも値しない」

 「しばらく彼に夢中だったじゃない」とキャサリンは言った。

 「夢中?」マートルは信じられないと言うように声を上げた。「私が夢中だったって、誰が言ったの?私はちっとも夢中じゃなかったわよ。あそこのお兄さんに夢中になってないのと同じ!」

 彼女は突然私を指差した。皆が、批難するように私を見た。私は何とか顔を繕って、自分は彼女の過去には何もかかずらっていないのだと示そうとした。

 「あの人と結婚したのだけは大失敗だったわ。しくじったってすぐに分かったよ。彼はね、結婚するとき、誰か他の人の一番いいスーツを借りてきてね、私にはそんなこと全然言わなかった。ある日彼が留守にしてるときに、スーツを貸した人がやって来たのよ。『あら、これはあなたのスーツですか?』って訊いてね。『初めてお聞きしました』って言ったわ。スーツを返して、ひっくり返って、その午後ずっと死ぬほど泣いたよ」

 「ほんとに彼から逃げ出せばいいのに」とキャサリンは私に繰り返した。「二人はあの修理場の上で十一年も一緒に暮らしているのよ。で、トムが彼女のつくった最初の恋人」

 ウィスキーのボトル(二本目だった)には、居合わせた皆がひっきりなしに手を伸ばしていた。もっともキャサリンは例外で、「全然飲まなくっても気持ちいい」と言うのだった。トムはベルを鳴らして管理人を呼び、名高い店のサンドウィッチを持ってくるよう言った。それだけで夕食として通用するものだった。私は外に出て、柔らかな黄昏の中、東の方に、セントラル・パークの方へと散歩がしたかった。けれども、外に出ようとするたび、私は粗野な口論に絡め取られて内側に引き戻された。ロープで括られて、椅子に戻されるようだった。しかし、街の高いところでは、黄色い灯のともった、私たちの部屋の窓の連なりは、人間が秘匿するものの幾分かを、暮れゆく街路で何気なしに目を上げる人に垣間見せていたに違いない。そして、私はその人でもあった。見上げ、訝っていたのだ。私は内にいつつ、同時に外にいた。生の尽くことのない多様さに蠱惑されつつ、同時に嫌気がしていた。

 マートルが自分の椅子を私のに近づけ、唐突に、温かい息遣いで、トムとの馴れ初めを話し始めた。

 「向かい合わせの小さな席だったのよ。電車で、いつも最後まで誰も座らない席ね。私はニューヨークまで妹に会いに行って、そこに泊まるつもりだった。トムはドレススーツを着て、エナメル革の靴を履いていて、私は目を逸らすことができなくってね。でも、トムが私を見るたび、私は彼の頭の上の広告を見てる振りをしなくちゃならなかった。駅に着いたらトムは私の横に来て、真っ白なシャツを着た胸を私の腕に押し付けてきたのよ――だから私、『警察を呼びますよ』って言ったんだけど、嘘ついてるのはバレてたね。私は舞い上がっちゃって、彼と一緒にタクシーに乗り込んだときには、自分が地下鉄の駅には向かっていないんだってのも分かっていなかった。頭の中で何度も『人はいつまでも生きていられるわけじゃない、いつまでも生きていられるわけじゃないんだから』って、その言葉だけが響いていたよ」

 彼女はミセズ・マッキーの方を振り向いた。マートルのわざとらしい笑い声が部屋中に響いた。

 「マイ・ディア」と彼女は大きな声で言った。「このドレス、着終わったらあげるね。明日新しいのを買わなくちゃ。要る物のリストをつくらなくちゃ。マッサージをしてもらって、髪にパーマをあててもらって、仔犬ちゃんに首輪を買って、バネの付いた可愛らしい灰皿があるでしょ、それもね。それから、母のお墓に黒いシルクのリボンが付いた花輪がいるな、夏の間ずっともつやつ。リストを書かなきゃ。忘れないようにね」

 それが九時だった。それからほんの僅かして腕時計を見たときにはもう十時だった。ミスタ・マッキーは拳を膝の上に載せて椅子で眠っていた。「活動家」と題された写真のようだった。私はハンカチを取り出して、彼の頬から乾いた石鹸の泡の残りを取ってやった。午後の間ずっと気になっていたのだ。

 仔犬はテーブルの上に座っていて、まだ開かぬ目で紫煙のくゆる宙を見ていた。時折、微かに呻いた。人々は、消え去り、また現れ、どこかに行く計画を立てたかと思えば、互いを失い、互いを求め、そうして数フィート先に互いを見つけるのだった。日の変わる時間が近づいて、トム・ビュキャナンとミセズ・ウィルソンが真向かいで立って、昂奮した声で、彼女がデイジーの名に言い及ぶ権利があるかどうかを言い合っていた。

 「デイジー!デイジー!デイジー!」とミセズ・ウィルソンは叫んだ。「言いたいときはいつだって言ってやる。デイジー!デイ……」

 咄嗟に、手際よく、トム・ビュキャナンは平手で彼女の鼻を折った。

 それからバスルームの床には、血のついたタオルが積み重ねられた。複数の女性の声が怒鳴っていた。喧騒を圧して、痛みから来る長く嗄(しゃが)れた呻吟が響いていた。ミスタ・マッキーが居眠りから目を覚まし、困り果てて扉に歩み寄った。半ば出て行って振り返り、その光景を見つめた。自分の妻とキャサリンが叱責をし、慰めていた。救急用品を手に、ぎっしりと調度品のつまった部屋のあちこちで蹴躓いていた。カウチに横たわる、絶望のさなかにある当人は、たらたらと血をながしながら、ヴェルサイユ宮殿でのさまざまな情景を描いたタペストリーの上に『タウン・タトル』誌を広げようとしていた。それらを見届けて、ミスタ・マッキーは前を向いて、扉の外へと出ていった。私はシャンデリアに載せてあった帽子を取り、後を追った。

 「昼食にいらしてください」と彼は提案した。階下に降りるエレヴェーターも呻吟していた。

 「どちらで?」

 「どちらでも結構です」

 「手をレバーから離してください」とエレヴェーター・ボーイがぴしゃりと言った。

 「申し訳ありません」とミスタ・マッキーが威厳を保ちつつ言った。「触っているとは気づかなかったものですから」

 「大丈夫ですよ」と私は賛意を示した。「ぜひご一緒したいです」

  ……私は彼のベッドの傍らに立っていた。彼はベッドで布団に入り、身を起こしていた。下着姿だった。両手には大きな写真帳を携えていた。

 『美女と野獣』……『孤独』……『老いた食料雑貨馬』……『ブルックリン橋』……

 それから私は、ペンシルヴェイニア駅の下の階で、寒風に打たれながらまどろんでいた。『トリビューン』の朝刊を見つめながら、四時の始発の電車を待っていた。

The Great Gatsby 第1章

それから、黄金の帽子も被るんだ。もし彼女が喜ぶんだったらね。

もし高く跳べるなら、彼女のために跳んであげるんだ。

彼女がこう叫ぶまで。「大好き、金ぴかの帽子を被って、高くジャンプするあなた。
あなたは私のもの!」

 

Then wear the gold hat, if that will move her;
If you can bounce high, bounce for her too,
Till she cry “Lover, gold-hatted, high-bouncing lover,
I must have you!”
- Thomas Parke D'Invilliers

 

Chapter I

 

 

 今より若くて傷ついてばかりだった頃、父が教えてくれたことがある。私は今に到るまでずっと、その言葉に思いを巡らせては噛み締めてきた。

「誰かのことを悪く言いたくなったら」そう父は言った。「この世の誰しもが、お前ほど恵まれてきた人間っていうわけじゃないんだといつも思い出すようにしなさい」

 父はそれ以上を言わなかった。けれども、私たちはほとんど何も語らなくても、不思議なほどに通じ合うことができるのが常である。だから、父は言外に遥かに多くの含みを込めているのが察せられた。その結果、私は何事も決めてかからないよう気をつけるようになった。この習慣のおかげで、私のところにはおかしな人間が押し寄せてくるようになった。筋金入りのしょうもない人間の相手もしなければならなくなった。異常な人間というのは、まともな人間にこの性質が顕れると、すぐに感知し、くっついてくる。大学生のときには、私は、気が許せない奴だと不当に批難されることになった。無節操な、どこの者とも知れない人間がこっそり隠してきた悩みを私が聞かされていたからだ。そんな秘密を私の方から求めたことはまずなかった。何かしら疑いようのない気配があって、誰かある人が馴れ馴れしい打ち明け話をしようと逡巡しているのに気づくと、私はよく眠ったふりをしたり、考えごとに耽っているふうを装ったり、あるいは意地悪くちゃかしてみせたものだ。若者の馴れ馴れしい打ち明け話などは、少なくともその言葉遣いなどは、ほとんどいつも誰かからの借り物であるし、自分を露骨に抑圧してきたせいで損なわれている。判断を留保すれば、いつまでも希望をもっていられる。父が取り澄まして仄(ほの)めかしたように――そして私も取り澄まして同じことを言うのだが――人間としてのまともさの感覚は、生まれたときから均しく分かち合われているのではない。私が今でも些(いささ)か怖れているのは、このことを心に留めておかないと、私は何かを失ってしまうということだ。

 このように寛容さを衒(てら)っていると、ものには限度があると思い到る。人の振舞いは、硬い磐(いわお)の上にも、ぬめぬめした湿地の上にも礎を築き得るだろうが、私の場合、ある閾値(いきち)を超えるとどちらでもよくなってしまう。昨秋東部から戻ってきてみて、この世はいつまでも、いわば軍服を着て、高潔たらんと不動の姿勢をとっていて欲しいと思ったものだ。喧騒に首を突っ込んで、人間の内奥を垣間見るような大層な身分はもうまっぴらだった。ただ、本作の題名が由来する、ギャツビーただひとりだけが、私の反撥を免れていた。ギャツビー。私が本気で軽蔑するあらゆることを体現していた男。もし個性というのが、目的に適った印象を与える仕草を綻(ほころ)びなく演じ続けることだとするなら、確かに彼には華麗なところがあった。人生が約束してくれることに対して、鋭敏な感覚を持っていた。まるで、一万マイル先の地震を記録する、あの複雜な機械のひとつと繋がっているようだった。この感覚は、「創造性」という名で美化される、ひ弱な感受性とは無縁だった。志をもつ並外れた才能であり、私がこれまで他の誰にも見出したことのない、愛への備えであった。今後も二度と見出すことはあるまい。いや――ギャツビーはあれでよかった。彼が死んで分かった。人間の夢が破れる悲しみ、人間の束の間の恍惚に対して、私が一時的であったにせよ幻滅したのは、彼を食い物にした一切、彼の夢の跡を覆う塵芥(ちりあくた)のせいなのだ。

 

 私の家族は三世代に渡り、この中西部の街では名を知られ、富裕であった。キャラウェイ一家はちょっとした名家で、バクルー公の末裔であるというのが語り草だった。それでも、一家のじっさいの立役者であったのは祖父の兄であった。1851年にこの地を踏み、南北戦争への召集には身代わりを送り、金物の卸売を始めた。今では父がその事業を引き継いでいる。私を目にすることなく大伯父は他界したが、人々は私に、父の事務所に掛かってあるかなり強面の肖像画を引き合いに出しては、「お前には面影がある」と言い聞かせてきた。私は1915年にイェール大学を卒業した。父は同じ大学をその二十五年前に卒業した。私は卒業して程なく、世界大戦の名で知られる、遅がけのゲルマン民族大移動に参戦した。心ゆくまで反撃を堪能したから、帰国しても落ち着かずにそわそわしていた。中西部は、世界の熱気ある中心であるのをやめ、今では宇宙の惨めな切れ端のようであった。それで私は、東部に行って証券事業で手に職をもつことにした。知り合いは皆、証券事業に携わっていたし、この事業なら、独身の男が一人くらい加わったって面倒を見てくれるだろうと思った。伯父、伯母は皆、まるで私に私立の高校でも選んでやっているかのように話し合いをもって、終いには、「もちろん、よろしかろう」と重々しく渋々の顔で言った。父は一年間は私に金銭の援助をするのを諾(うべな)ってくれ、ごたごたがいろいろあって予定よりは遅れたが、私は東部にやって来た。もう戻るまい、と私は思った。1922年の春のことだった。

 仕事のためにはニューヨークに部屋を見つけるのがよかっただろうが、何しろ暑い時期だった。芝生が広がり、涼し気な樹々に恵まれた土地を離れてきたばかりだったから、同じオフィスで働く年若い男性が、電車通勤ができる地域で家を間借りしないかと持ち掛けてくれたのはありがたかった。家は彼が見つけてくれた。野ざらしの、段ボールでできたみたいな平屋で、月八十ドルだった。けれどもいよいよというときに会社は彼をワシントンに転勤させ、私はひとりでそこに赴いた。私は犬を飼った。数日で逃げて行ってしまったが、少なくともそれまでの間は、ということだ。それから、古い車があって、フィンランド人の家政婦がいた。ベッドを整えてくれ、朝食を作ってくれた。電気コンロに手をくべながら、母国の格言をぶつぶつ言った。

 一日かそこらは寂しいものだったが、ある朝、私より後にこの土地に来た男が道で話しかけてくれた。

 「ウェスト・エッグ(西側の卵)にはどう行ったらいいですか」と彼はお手上げといった様子で訊いた。

 私は教えてやった。そうして歩いているうちに、私はもう寂しくなくなっていた。私は案内人であり、開拓者であり、原住民だった。彼はそれと知らずに、この界隈の名誉市民権を授けてくれていたのだ。

 そうして、次々とコマが進む映画の中で物事が変わってゆくように、どんどん陽射しが強まって樹々の葉が青々と茂るにつれ、私は、人生は夏とともに繰り返し始まるのだ、というあのお馴染みの確信を抱いた。

 ひとつには、読むべきものがたくさんあったというのがある。それに、瑞々しい空気からもらうべき元気も山ほどあった。銀行業務や貸付、有価証券についての書籍を何十冊も買い込んだ。それらの本は、鋳造されたばかりの硬貨のように、赤や金色で書棚を彩った。ミダス(訳注: ギリシャ神話に現れる、フリュギアの王。体に触れるものすべてを黄金に変える力を得た)とモルガン(訳注: 米国の実業家・金融資本家。モルガン商会を興し、鉄鋼・鉄道をはじめ諸産業を支配する財閥を築いた)とマエケナス(訳注: ローマ帝政初期の貴族。文人の創作活動への援助を惜しまなかったことで知られる)だけが知っている、きらびやかな秘密を紐解いてくれるのだ。それに加えて、他の本もたくさん読もうという意欲も大いにあった。大学ではかなり物を書いていたのだが、ある年など、イェール大学新聞に、当たり前のことを仰々しく論じた連載を書いたことがあった。今ではそうしたこと全部を取り戻して、自分の生活に組み入れようとしていた。そうして再び、あらゆるスペシャリストの中でもその専門をもっとも活かせない部類の人間、つまり「多面的人間」になるつもりだった。ここで私は、単に警句を吐きたいわけではない。煎じ詰めるとやはり、人生というのはただ一つの窓から眺めていた方が、遥かにはっきりと目に入ってくるものなのだ。

 北米でもなかなかない奇妙なコミュニティ(地域社会)で間借りをすることになったのは、偶然の産物だった。家は、ニューヨークから真東に伸びた、細くて賑やかな島にあって、自然の面白いいろいろな側面の中でもとりわけ、珍しい地形が二つあるのが目を引く。ニューヨーク市から二十マイル離れたところに巨大な卵型の地形が二つあって、外形は同じで、名ばかりの湾で隔てられている。この二つの地形が、西半球で最も「馴致された」海域、つまりロングアイランド海峡と呼ばれる、納屋周りの広大な濡れた土地に突き出ている。もっとも、それらは完全な卵型ではなく、コロンブスの卵のように土地との接触面はひしゃげている。それでも、空を飛ぶ鷗(かもめ)は、二つの卵がよく似て見えることを絶えず不思議に思っているに違いない。もっとも、翼のない者にとっての関心はそれよりも、両者が形と大きさ以外のあらゆる点で似ていないということである。

 私が住んでいたのは、ウェスト・エッグ、つまり「時勢に遅れた方」である。奇妙で、さらには甚だ不吉な両者の対照を表すのに、これは極めて皮相的なレッテルであるが。私の家は、卵の先端にあって、湾から五十ヤードしか離れていなかった。二つの巨大な建築に挟まれていて、それらは季節あたり一万二千ドルないしは一万五千ドルで貸与されていた。右手の建築はいかなる基準に照らしても巨大なもので、ノルマンディーにある何とか市庁を実際に真似たものであった。片側には塔がそびえ、細い蔦を這わせていた。大理石のプールがあり、四十エーカーは下らないほどの広さの芝生と庭があった(訳注:1エーカーはおよそ4047平方メートル。40エーカーは東京ドーム3.4個分ほどにあたる)。これがギャツビーの邸宅であった。いや、私はそのときギャツビーと面識がなかったのだから、そういう名前の男が住まう邸宅であった、と言うべきか。私の住まいは目障りな代物、とは言っても、些細な目障りでしかなくて、ギャツビー邸から見下ろされるところにあったから、私もまた海面を眺め、隣人の芝を垣間見ることができた。大金持ちの近隣に住まうことで慰みも得られた。全て込みで一月当たり八十ドルだった。

 さて、名ばかりの湾を隔てると、「時勢に乗った」イースト・エッグ(東側の卵)の白い宮殿群が、岸辺に沿って眩く光っていた。そして、その夏の出来事が始まるのは、私がトム・ビュキャナン一家と夕餐をとるために、そこまで車で行った宵のことであった。デイジーは親戚で(曽祖父の玄孫だ)、トムのことは大学にいたときから知っていた。二人とは、戦争が終わった後でシカゴで二日過ごしたこともあった。

 デイジーの夫であるトムはスポーツで鳴らしており、中でもイェール大学のアメリカン・フットボール部では、大学史上まれに見る強力なエンドを務めた。ある意味「国民的な」人物となったのだが、二十一歳でそうした目を瞠るべき、それでも限定的な高みに達した後は、世の習いに違わず、その後の一切は蛇足の人生であるように見えた。家族が巨万の富を持っていて、大学にあってさえ、彼は金遣いの荒さで顰蹙を買ったものだ。彼は今ではシカゴを離れ、東部に来ているわけだが、そのやり方には度肝を抜かれた。例えば、レイクフォレスト(訳注:米国イリノイ州の小都市)から、ポロ用の馬を一式連れてきていた。私と同世代にある人間がそんなに金持ちなのは理解し難かった。

 私に判然としないのは、なぜ彼らが東部に来たかだ。特段の理由なしに彼らは、フランスで一年を過ごしたことがあった。その後、人々がポロをし、共に金持ちでいられるところへはどこへでも、あちらこちらへと落ち着きなく彷徨した。「動き回るのはこれが最後」とデイジーは電話で言ったが、私は信じなかった。もっとも、デイジーの心の中はまるで分からなかった。それでも、トムはいつまでも、少しは期待に胸膨らませながら、二度と戻ってくることのないフットボールの試合のような、劇的な揺らぎを求めて彷徨うのだろうという気がした。

 そんな経緯があって私は運命の悪戯で、暖かく風の強い宵に、ろくに知りもしない旧友二人に会うためにイースト・エッグへと車を走らせることになった。二人の家は、思ったよりもはるかに意匠を凝らしていた。ジョージ王朝時(訳注:イギリスの1714年から1830年までの王朝)の植民地にあったような、眩いばかりの赤白の邸宅で、湾を見下ろしていた。海岸まで延びた芝は、玄関の方へと四百メートルを駆け抜け、日時計と煉瓦の小道を跳び越え、庭々を青く燃やし、ついには邸宅に及んだ。走り切った弾みとでも言わんばかりに、きらきらした蔓が家の側面にまで及んでいた。正面にはフランス窓が並び、陽の光を受けて金色に輝き、暖かな風の流れる午後の世界に開け放たれていた。トム・ビュキャナンが、馬衣を纏い脚を広げて玄関に立っていた。

 彼は大学を出てから、変わってしまっていた。今ではがっちりとした体軀の、麦藁色の髪をした三十男で、口はかなり悪く、所作は高慢であった。ぎらぎら燃える、 驕れる両眼が顔の印象に勝っており、いつもがつがつして前のめりであるような感じがした。彼の馬衣には女性的な淑やかさがあったが、体軀が途方もなく逞しいのは隠しようがなかった。しっぽりとした光を放つ編み上げ靴には両足が収まり、紐が一番上までしっかりと縛られていた。片方の肩が薄い上着の下で動くと、大きな筋肉の塊も位置を変えた。巨大な梃子(てこ)として機能しうる、冷酷な肉体であった。

 話し声は粗野で嗄(しゃが)れたテノール歌手のようで、それが、彼に纏わりついた、癇癪を起こしそうな印象を一層強めていた。そこには、父性的な蔑みの感があった。蔑みは、彼が好意を持つ人にさえも向けられた。そして実際大学では、彼の猛々しさを唾棄してきた人もいた。

 「さて、これこれに於ける俺の意向が最終的なものだとは思わないでくれ。俺の方がお前よりも強く、男らしいからとはいえ」彼はそう言っているようだった。私たちは同じ学生団体に属していた。互いに親睦したことこそなかったが、私には常に、彼は私を認めており、そして私に好意を抱いて欲しがっているのだと思われた。ぞんざいで生意気でも、彼なりに遣る瀬ない気持ちでいたのだろう。

 陽を浴びながら、私たちは玄関で数分間言葉を交わした。

 「ここは良い所だ」と彼は言った。目は光り、落ち着きなく泳いでいた。

 私の片腕を取って後ろに振り向かせると、彼は前景に沿って大きな平たい手を動かした。眺望の低い所にはイタリア式の庭が広がり、半エーカーほどの花壇には真紅の薔薇が強い香りを放っており、沖に向かっては獅子鼻の形をしたモーターボートが潮に洗われていた。

 「前はディメインさんの物だった。あの石油屋のな」彼はもう一度私の向きを変えた。丁寧に、しかし唐突に。「中に入ろう」

 天井の高い玄関を進むと、明るい薔薇色の空間が現れた。両側のフランス窓(訳注:床面まである両開きのガラス窓。テラスやバルコニーに面して設けられ、出入りができる)がなければそこは邸外だと言ってよいほどだった。窓は微かに開いていて白く輝き、先には瑞々しい芝が広がっていた。勢い余って家の中に少し入って来そうなほどだった。そよ風が部屋の中を渡った。色褪せた旗がはためくように、カーテンの片側が屋内に滑り込み、反対側が外に流れ出た。カーテンは絡み合い、飾られたウェディング・ケーキを思わせる天井の方へと浮かび上がった。風が海を撫でたように、影が漣(さざなみ)となってワイン色の絨毯の上を流れた。

 部屋の中では大きなカウチだけが全き静寂を保っており、そこには若い女性が二人、留められた風船のように佇んでいた。二人とも白いドレスを纏っていて、そのドレスはふわふわと波打っていた。しばし邸宅の周りをたゆたっていたのを風に吹かれて戻ってきたかのようだった。私は数秒間は、カーテンのはためきに、壁に掛かった絵の呻きに耳を澄ませていただろうと思う。そのときトム・ビュキャナンは背後の窓をがちゃんと閉めた。部屋の風が止み、カーテンも絨毯も、若い女性二人も、緩やかに床に降りてきた。

 二人のうちで年下の方の女性を、私は知らなかった。カウチの端に大の字になって、身じろぎひとつせずに少しだけ顎を上げていた。今にも崩れそうな何かを、顎の上で釣り合わせているようだった。目尻に私の姿が映ったのかもしれないが、眉ひとつ動かさなかった。実際私は、驚きのあまり、入室して邪魔したことをもごもごと詫びるところだった。

 もう一人の女性がデイジーで、身を起こそうとした。翼々とした顔つきで少し前かがみになり、それからクスクスと笑った。馬鹿みたいな、でも素敵で可愛らしい笑い声だった。それで、私も笑ってしまい、部屋の中へと入っていった。

 「嬉しくって、う、動けない」

 彼女は、まるで何か面白いことを言ったとでもいうように、また笑った。そして、しばし私の手を取り、じっと顔を見上げた。この世界にこんなにも逢いたい人は他にいないのだと請け合いながら。それが彼女の作法だった。顎を上げている女性の姓がベイカーであると囁いてくれた。(デイジーが囁くのは、単に相手を自分に向かって前傾させたいからだという悪口を聞いたことがある。的外れな批難だ。彼女の囁きは変わらず素敵だったのに。)

 とにかく、ミス・ベイカーの唇は震え、ほとんど分からないほどに私に頷き、そして素速く頭を元に戻した。顎の上で支えている物体は明らかに少し揺らめき、これは危ないと思ったのだ。再度謝罪のような言葉が私の口をついて出た。私は、完全な自足というものを見せられるとほとんどいつも、目を丸くし、賛辞を惜しまない。

 従妹の方を顧みた。低くてゾクゾクさせる声で私に質問をし始めたからだ。耳を澄ませていると、聴いている側まで上下に波打っている気がしてくる、そんな声だ。それぞれの発話が、二度とは演奏されない音符を並べたようだった。顔は憂いを帯びて、同時にそこには輝かしいものもあって、溌溂としていた。きらきらした目と明るく熱っぽい唇。それでも声には、彼女を好きになった男なら忘れ難い、一種の昂奮があった。歌うような圧迫。「聞いて」という囁き。自分は今しがた愉しくて素敵なことをしたのだから、次の一時間にもきっと愉しくて素敵なことが待ち受けている、そんな確信。

 私は彼女に、東部に行く途中でシカゴに一泊することになった経緯を、そして、十二人もの人が私づてに愛を伝えてきたことを話してやった。

 「寂しがってくれているかしら!」と彼女は大喜びで言った。

 「街中がさびれているよ。車は全部、左後ろの車輪を黒くしている。喪中の花輪だよ。北の方の岸では呻きがひっきりなしに聞こえている」

 「すごい。戻りましょう、トム。明日!」それから彼女は唐突に付け加えた。「娘に会ってちょうだいよ」

 「ぜひ」

 「今眠っているのよ。三歳でね。会ったことはなかったかしら」

 「ない」

 「それじゃあ、会わなくちゃ。娘は……」

 トム・ビュキャナンは、さっきから部屋を落ち着きなく歩き回っていたが、歩みを止め、手を私の肩に置いた。

 「ニック、仕事は何をしている?」

 「証券だよ」

 「どこでだ」

 教えてやった。

 「聞いたことがない」と彼はぴしゃりと言った。

 私は苛ついた。

 「いずれ聞くことになる」と私は短く答えておいた。「東部にいるなら、きっとね」

 「そうか、俺は東部にいる。心配しなくていい」そう彼は言って、デイジーに目を遣り、それから私を見た。まだ他にも気をつけるべきことがあるかのようだった。「他の場所に住むほど糞馬鹿じゃないからな、俺は」

 ここでミス・ベイカーが口を開いた。「もちろん!」私はあまりに虚をつかれ、びくっとした。それは、私が入室してから彼女が発した最初の言葉だった。彼女は明らかに、私に劣らず自分の発言に驚いたようだった。というのも彼女はあくびをすると、すばやくきびきびと動いて立ち上がり、私たちのところに歩いてきたからだ。

「身体が凝っちゃった」と彼女は託(かこ)った。「ずうっとあのソファーで横になってたから」

 「私を見ないでちょうだいよ」デイジーは言い返した。「お昼間ずっと、あなたをニューヨークに連れて行こうとしていたのに」

「いや、行きませんよね」とミス・ベイカーは、たった今パントリー(訳注:食品や食器等を収めた部屋)から運ばれてきたばかりのカクテルが四杯あるのに向けて話しかけた。「しっかりトレーニングをしてるんですものね」

 トムが、信じられないというふうに彼女を見た。

 「そうかね!」彼は自分の飲み物を、残り一滴とでも言わんばかりに飲み干した。「お前は成し遂げるということがあるのかよ。どうやってだ?俺には分からんね」

 私はミス・ベイカーを見た。彼女が「成し遂げる」というのは一体どういう意味かと訝った。彼女を見るのは愉しかった。華奢で胸の小さな女の子だ。背筋をぴんと伸ばして動く。若い士官学校生みたいに身を反らせるから、それが余計に目についた。陽が差して細くなった、彼女の灰色の瞳が私を見つめ返した。色つやを欠き、人を魅きつける、倦むことのない顔には、慇懃な、「お互い様よね」という好奇心が窺えた。今や私には、彼女とは以前どこかで会ったことがあるのではないかと思われた。それとも、彼女の写真を見たことがあるのだろうか。

 「ウェスト・エッグにお住まいなんですって?」どこか侮蔑を含んだ調子で彼女は言った。「知り合いが住んでる」

 「僕は一人も……」

 「ギャツビーのことはきっと知っているでしょう?」

 「ギャツビー?」デイジーが問い質した。「その人、ファースト・ネームは何ていうの?」

 彼は隣に住んでいるのだと言おうとしたが、夕餐の時間になった。トム・ビュキャナンは強張った腕を私の脇の下に捩じ込み、私を部屋から追い立てた。チェッカーズ(訳注:室内遊戯の一種)の駒を別の升目に動かしているようだった。

 ほっそりした身軀を気だるそうにさせ、手は軽く腰に当て、二人の女性は私たちに先立って、外の薔薇色のヴェランダに出た。夕陽が燃えていた。蝋燭が四本、テーブルの上で微風を受け、揺らめいていた。

 「どうして蝋燭が?」とデイジーは異を唱え、渋い顔をした。炎を指で揉み消した。「二週間したら、一年でいちばん日が長くなるのに」そう言って彼女は目を輝かせて私たち一同を見た。

 「皆さんは、一年でいちばん日が長い日をいつも心待ちにして、過ぎちゃったら寂しいって思う?私は、一年でいちばん日が長い日をいつも心待ちにして、過ぎちゃったら寂しいなって思う」

 「何か計画をたてなきゃ」とミス・ベイカーは欠伸(あくび)をし、まるでベッドに潜り込むようにテーブルに着いた。

 「よし」とデイジーは言った。「何を計画しようかな?」彼女は途方に暮れて私に向き直った。「普通の人は何を計画するんだろう」

 私が答えるよりも前に、彼女の目は慄き、小指に留まった。

 「見てよ!」と彼女はこぼした。「ケガしちゃった」

 一同が見た。関節に青黒い痣(あざ)ができていた。

 「あなたのせいよ、トム」と彼女は責めた。「わざとじゃないって分かっているけど、あなたがしたの。獣みたいな男の人と一緒になったご褒美よ。でかい、とにかくでかい、根っからの体育会系って感じの……」

 「でかいって言葉はむかつく」とトムは苛立ちを隠さず反撥した。「冗談でもな」

「でかいくせに」とデイジーはなおも続けた。

 時折、彼女とミス・ベイカーは全く同時に口を開いた。それでも二人はごく控え目で、おどけて些細な冗談を言っても、それは彼女らの纏うドレスのように涼しげであったし、また、物欲しさとは無縁の、どこかよそよそしい二人の目のように冷静でもあって、会話にまで発展することはついになかった。彼女らはここにいてトムと私を受け入れ、このひと時を楽しみ、場の人間を楽しませるために、礼に適い、感じよろしく心を尽くしていたに過ぎなかった。二人は、じきに夕餐が終わることも、さらにもう少ししたらこの夜も更け、気に留められもせずに忘れ去られることも分かっていた。これは西部とは正反対だ。そこでは宵の時間は、ひとつの段階から次の段階へと夜更けまで追い立てられる。人々の期待は何度も何度も挫かれ、そうでなければ、「今」自体に人々はぴりぴりと怖れを抱くことになる。

 「デイジー、君がいると何だか自分が野暮ったく(uncivilized)思える」と私は二杯目を飲みながら告白した。コルクの匂いがするが、かなり上質の赤ワインだ。「君はほら、作物とかの話はしないの?」

 この発言に特段の意味はなかったが、思わぬ形で取り上げられた。

「文明(civilization)はばらばらになる一途だ」とトムが荒っぽく堰を切った。「今のあれやこれやに、俺はひどく悲観的にならざるを得ない。ゴダッドの『有色人種諸帝国の勃興』は読んだか?」

 「いや、読んでない」と彼の勢いにかなり面食らって、私は答えた。

 「そうか。優れた本だがな。皆が読むべき本だ。要するに、気をつけておかないと白人種は……白人種は完全に転覆させられると言うんだよ。完全に科学に則ってる。証明されているんだ」

 「トムの話がだんだん深くなってきた」とデイジーは言った。顔には取って付けたような哀しみが宿っていた。「トムは、長い綴りの単語がたくさん入った難しい本を読むの。あの単語なんだっけ、ほら……」

 「こういう本は全部科学に則って書かれている」とトムは苛立ち、彼女を一瞥して語気を強めた。「この著者はあらゆる問題に取り組んでいる。目を光らせておくべきなのは、俺たち、支配する側の人種であってな、さもなくば、ここに書いてある他の人種が事態を牛耳ってしまうことになる」

 「そいつらをやっつけちゃえ」とデイジーが囁いた。ぎらぎら燃える夕陽の方を向いて、挑発的にウィンクした。

 「カリフォルニアに住んだらいいのよ。だって……」とミス・ベイカーも話に入ってきたが、トムが椅子の中で仰々しく尻の位置を変えて遮った。

 「要はな、俺たちは北欧人種なんだよ。俺も、お前も、お前も、それから……」ほんの一瞬躊躇してから、少しだけ頷いてそこにデイジーも加えた。デイジーは私にまたウィンクした。「さて、俺たちは文明の形成に資するもの全てを作ってきた。つまり、科学、芸術、そういうの全部だ。分かるだろ」

 彼が我を忘れているのには、どこか痛々しいところがあった。古めかしい、というよりはむしろ深刻な自惚れだけでは事足りないようだった。と、それとほぼ同時に、邸内で電話が鳴って、執事がヴェランダを離れた。デイジーは一瞬の隙を突いて私の方に身を乗り出した。

 「家族の秘密を教えてあげる」と彼女は活き活きして囁いた。「執事の鼻のことよ。執事の鼻の話聞きたい?」

 「今夜はその話を聞きに来たんだよ」

 「ええっとね、あの人はずっと執事だったわけじゃないの。昔は銀の食器を磨く人で、ニューヨークのお屋敷にお仕えしていたの。二百人の銀の食器を磨いていたのよ。朝から晩まで磨かなくちゃならなくって、ついに鼻が悪くなってきた……」

 「悪いことは重なる」とミス・ベイカーが仄めかした。

 「そう、悪いことは重なる。ついにあの執事さんは仕事を辞めなきゃいけなくなった」

 ほんの束の間のことだが、陽が沈み切ろうとする瞬間、西日に煌めく彼女の顔が狂おしいほど愛おしく映った。彼女の声を聴いていると、私は息をするのも忘れて前のめりになった――やがて煌めきは褪せ、光が一縷、また一縷と名残惜しそうに彼女から失われていった。あたかも黄昏に子供が大好きな路傍で遊んでいるのを止め、一人、また一人と散っていくように。

 執事が戻ってきて、トムの耳元で何事かを囁いた。とっさにトムの顔が曇り、椅子を後ろへ押しやって、何も言わずに邸内に入って行った。デイジーは、トムがいなくなったことで心の内の何かを刺激されたように、また身を乗り出した。そうして、キラキラと歌うような声でこう言った。

 「ニック、私のところで一緒にお食事ができるなんて嬉しい。あなたがいるとね、薔薇を思い出す。完全な薔薇。そう思わない?」彼女は、同意を求めてミス・ベイカーの方を向いた。「完全な薔薇」

 これは真実ではなかった。私はいかなる意味合いにおいても薔薇とは程遠い人間である。彼女は単に即興で話していただけだったが、こちらの胸が熱くなるほどの温もりが漂ってきた。まるで彼女の心臓が、そういった息を詰まらせ胸を打つ言葉のどれか一つに隠されていて、こちらに跳び出して来ようと必死になっているようだった。すると突然、彼女はナプキンをテーブルにうっちゃり、「ごめんね」と言って邸内に消えた。

 ミス・ベイカーと私は、意味ありげに映らないように互いに意識しながら目配せをした。私が話そうとしたら、彼女は警戒して居住まいを正し、「シッ」と注意した。声を抑えてはいるが感情的な囁きが、奥の部屋から聞こえてきた。ミス・ベイカーは無遠慮にも身を乗り出して聞き取ろうとした。聞こえてくる声は震え、もう少しで意味の形をとるところだったが、小さくなり、昂奮して高まり、そうして完全に消えてしまった。

 「君が話したミスタ・ギャツビーというのは僕の隣に住んでいてね……」と私は話し始めた。

 「今は話さないで。何が起こってるのか聞きたいの」

 「何かが起こってるの?」と私は軽々しく尋ねた。

 「本気で知らないって言ってるの?」とミス・ベイカーはすっかり驚いて言った。「みんな知ってるものだと」

 「僕は知らない」

 「ええっとね」と彼女はためらいがちに言った。「トムにはニューヨークに女の人がいるの」

 「女の人がいる」と私はうつろに繰り返した。

ミス・ベイカーは頷いた。

 「夕食の時間に電話をかけてこないくらいの配慮があってもいいのに。そう思わない?」

 その意味があまり飲み込めないうちに、ドレスの衣擦れが、革のブーツのバリバリという靴音が聞こえてきた。トムとデイジーがテーブルに戻った。

 「仕方のないことだったの」とデイジーは無理に明るく大きな声で言った。

 彼女は座り、疑わしそうにミス・ベイカーを、それから私を一瞥した。そうしてこう続けた。「しばらくお外を見ていてね、とってもすてきなお外だったわ。芝に鳥がいたんだけど、きっと、はるばるキュナードだかワイト・スター・ラインだかの汽船にのってやって来たナイティンゲイルよ。ずっと歌ってくれていた」彼女の声は弾んでいた。「すてきね、トム?」

 「実にすてきだよ」彼はそう言ってばつが悪そうに私を見た。「食事が終わってもまだ明るかったら、馬小屋まで案内したい」

 中で電話が鳴った。ベルの音は物々しかったが、デイジーはトムに向かってきっぱりと首を振った。馬小屋の話題は、いや、話題はすべて立ち消えた。夕餐でテーブルについていた最後の五分の記憶は切れ切れでしかないが、蝋燭がもう一度、徒(いたずら)に灯されたのは覚えている。それから、全員を正視したいと思ったが、しかし同時に、誰からも見られたくないと思ったことも覚えている。デイジーとトムの心中を推し量ることはできなかった。けれども、ミス・ベイカーのような一種の不躾な懐疑を我が物にした人間であっても、この五番目の客がよこしてきた電話の、ジリリリリン、ジリリリリンという甲高い金属音を完全に忘れられただろうか。ある種の心の持ち主には、この情況は実に面白いものだったかもしれない。しかし私は直感的に、すぐに警察を呼ばねばと思った。

 言うまでもないが、馬の話になることはもうなかった。トムとミス・ベイカーは数フィートの間隔を開け、のんびりと書斎に戻って行った。二人の間には夕暮があった。まるで、手で触れられる遺体の傍らで執り行われる通夜に訪(おとな)うように見えた。私は努めて明るく、情況に興味を惹かれているふりをし、また少し耳が遠いのだといった様子で、デイジーに続いて互いに繋がったヴェランダを廻ると、正面のヴェランダに出た。薄闇の中で私たちは籐の長椅子に隣同士に座った。

 デイジーは両手で顔を包んだ。まるで顔の可愛らしい形を確かめているようだった。両眼がゆっくりと、外へ、ヴェルヴェット色の黄昏の中へと動いた。彼女が揺れる思いに翻弄されているのが見てとれた。それで私は、彼女の娘についていくつか質問をした。それで気持ちが落ち着くならば、と。

 「ニック、私たちって、お互いのことをあまり知らないね」と彼女は突然言った。「従兄妹どうしであっても、ね。あなたは私たちの結婚式にも来てくれなかったでしょう」

 「戦争から戻ってなかったから」

 「そうよね」と彼女は躊躇(ためら)いながら言った。「ニック、結婚してからはすごくひどかったわ。何でも斜に構えて見るようになった」

 それは明らかにもっともなことだった。続きを待ったが、もう彼女は何も言わなかった。ややあって私は、弱々しく彼女の娘の話を振った。

 「もう話せるでしょう?食べたり、何でもするんじゃない?」

 「そうね」彼女はぽかんとして私を見た。「聞いて、ニック。娘が産まれたとき私が何て言ったか。聞きたい?」

 「ぜひ」

 「私が……私がいろんなことをどう思うようになったか分かるわよ。あのね、産まれてまだ一時間も経っていなかったけど、トムの居場所は全く分からなかった。私は麻酔から醒めて、すっかり打ち捨てられた気持ちですぐに看護師さんに訊いたの。『男の子ですか、女の子ですか』って。看護師さんは『女の子ですよ』って言って、それで私はそっぽを向いて泣いたの。『いいわよ』って私は言った。『女の子でよかった。成長して馬鹿になりますように。この世で女の子にとって、綺麗で可愛らしい馬鹿になるほど素敵なことはない』」

 「とにかく、何もかも最悪」と彼女は自信たっぷりに続けた。「みんなそう思ってる……いちばん進んだ人たちは、ね。で、私は知ってるの。どこへでも行って、何でも見て、何でもやったから」彼女の周りを見ていると、食って掛かるように目が光った。トムみたいな目だった。そうして彼女は、ぞくぞくするような嘲りを込めて、笑った。「擦れちゃったのね。私、擦れちゃった!」

 話し終わった途端、もう彼女の声は私の注意を惹かなかった。それを信じることもできなくなった。咄嗟に私は、彼女がこれまで言ったことは根本的に嘘なのだと感じた。私は不安になった。まるでその夕餐全部が、私から同情を引き出すための、一種のはったりであったかのようだった。私は待った。果たして彼女は、愛らしい顔に満面の笑みを湛えて私を見た。まるで、自分は、自分とトムが属する特殊な秘密の社会の側の人間だと言わんばかりに。

 

 邸内では、緋色の部屋を光が彩っていた。トムとミス・ベイカーはカウチの両端に座っていた。ミス・ベイカーがトムに『サタデー・イブニング・ポスト』の一節を読み上げた。もごもごと抑揚なく発せられる語と語が繋がって、やさしい音色になった。灯光は彼のブーツを明るく照らし、彼女の黄色いもみじのような髪を鈍く照らしていた。彼女がページを繰ると、雑誌に落ちた光も走った。彼女の両腕の細い筋肉はその度に震えた。

 私たちが中に入ると彼女は手を上げ、しばらく黙っていろと指図した。「次週に続く」と彼女は言って、雑誌をテーブルに放り投げた。「乞うご期待」

 彼女の身体が機動した。膝が落ち着きなく動き、彼女は立ち上がった。「十時だ」と彼女は言った。どうやら天井を見たら時刻が分かるようだった。「わたくし、おねむの時間です」

 「ジョーダンは明日のトーナメントに出るのよ」とデイジーは説明した。「ウェスチェスタでね」

 「ああ、あなたはジョーダンさんというのか。ジョーダン・ベイカーさん」

 今や私は、どうして彼女の顔に見覚えがあったのか判然とした。アシュヴィルやホット・スプリングズ(訳注:いずれも観光保養地)、パーム・ビーチ(訳注:フロリダ州の避寒地、海水浴場)でのスポーツ事情を伝える数多くのグラビア写真の中から、彼女は蔑むような、けれども憎めない顔をして、私のことを見ていたのだ。見聞もあった。批判的で不愉快な噂だ。けれども私は、それがどういったものだったかとうに忘れていた。

 「おやすみなさい」と彼女はやさしく言った。「八時に起こしてね」

 「起きてくれるならね」

 「起きるわよ。おやすみ、ミスタ・キャラウェイ。また近いうちにお会いしましょう」

 「もちろん近いうちに会うことになるわよ」とデイジーは断言した。「実は私、お二人が結婚できるようにお手伝いしようかしらと思ってるのよ。ニック、もっとここに来るようにして。それで私ね、何て言うんだろ、お二人を一緒に送り出したいのよ。思いがけずリネン室(訳注:亜麻製のシーツや枕カバー、タオルなどが収納されていたクローゼット)に閉じ込めて、そのままボートに乗せて海に押し出したり、そういうことをして」

 「おやすみなさい」と階段からミス・ベイカーが大きな声で言った。「私、何も聞こえてないよ」

 「いい子だよ」とトムが少しして言った。

 「こんなふうに田舎で好き勝手にさせておくべきじゃない」

 「誰が好き勝手にさせておくべきじゃないの」とデイジーが冷ややかに訊いた。

 「家族がだよ」

 「家族って、何千年も生きてらっしゃるような伯母様がお一人だけですけど。それに、ニックがジョーダンをみてくれるよね、ね、ニック。ジョーダンはこの夏、週末は大抵ここまで出てきて過ごしてくれるし、家庭の空気も彼女にはうまく作用すると思う」

 デイジーとトムは何も言わずにしばし互いを見た。

 「彼女はニューヨークのご出身?」と私は慌てて訊いた。

 「ルイヴィルよ。無垢な幼時代を一緒に過ごしたのよ。私たちの美しい無垢な……」

 「ヴェランダで、少しはニックと心通わせて話したのか」と唐突にトムは質した。

 「私が?」と言って、彼女は私を見た。「思い出せないわね。でも、北方人種の話はしたかもしれない。そう、した、した。いつの間にかそういう話になって、気づいたら……」

 「こいつの言うことを鵜呑みにするなよ、ニック」と彼は私に忠告した。

 私は何も聞いていないと快活に言った。数分して、帰宅するために腰を浮かせた。二人は私と一緒に玄関まで来てくれ、方形の明るい光の中に立ち並んだ。私がエンジンをかけると、デイジーが「待って!」と威圧的に言った。

 「訊くのを忘れたことがあるの。大切なこと。西部の女の子と婚約したんですって?」

 「そうそう」とトムが穏やかな調子で合いの手をいれた。「婚約したって聞いた」

 「デマだよ。僕は結婚するほど金持ちじゃない」

 「でも聞いたのに」とデイジーはなおも続けた。再度、花が咲くみたいに本心からものを言い出したから、私は驚いてしまった。「三人から聞いたもの。ほんとのことに決まってる」

 もちろん私には、何の話をしているのか分かっていた。しかし、私は婚約など絶対にしていなかった。噂のせいで、教会が結婚予告(訳注:教会で結婚式を挙げる前に、引き続き三回日曜日に予告し異議の有無を尋ねる)をしていたのも、東部に来る一因となった。噂のせいで馴染みの友達と縁を切ることはできないし、かといって、噂のせいで結婚にまで到るつもりもなかった。

 二人が示してくれた関心はありがたかったし、貧乏な私との距離が少しは縮まって思えた。けれども、車を運転しながら、私の心は混乱していたし、また幾分嫌悪の念もあった。デイジーがすべきは、子供をひしと抱き、邸宅から飛び出すことではないかと思われたが、どうやら彼女の頭にはそんな気はさらさらないようだった。トムに関して言えば、「ニューヨークに女がいる」というのは意外でも何でもなく、むしろ本を一冊読んで打ちひしがれていたことの方が私には驚きだった。彼は何かに憑かれたように、黴の生えた議論の端っこを齧っていた。まるで、いくら身体を鍛えて悦に入っても、もはや高圧的な心の方には滋養を与えることはできないのだと言わんばかりだった。

 往来の酒場の屋根や路傍の自動車修理場の前には、今や盛夏が訪っていた。そして、自動車修理場の前の光の溜まり場には、真新しい赤のガソリンのポンプが佇んでいた。ウェスト・エッグの自宅に着くと、私は車を車庫に入れ、庭に打ち捨てられてあった芝刈り機にしばし腰を下ろした。風はすでに行き、夜は賑やかで明るかった。樹々の中では翼がはためき、大地というふいごは、一杯に膨らんでは蛙を息吹き、オルガンのような合唱がいつまでも続いた。猫の黒い影が月光の中にちらつき、過ぎて行った。私が目で追いかけようとしたとき、そこにもう一人いるのが分かった。五十フィート先、隣人の邸宅の影から、人が現れていた。彼は両手をポケットに入れ、見つめる先には、銀色の胡椒を一面に撒いたような夜空があった。悠然とした身のこなし、そして、芝を踏む両足が安定した位置を占めているのを見て、この男こそがミスタ・ギャツビーだと思った。近隣の夜空の幾ばくほどが己(おの)が所有物か見定めに外に出てきたのだ。

 彼を呼び止めようと心に決めた。ミス・ベイカーが夕餐で貴君に言い及びましたと言えば、話の糸口にはなるだろう。しかし私は、彼を呼び止めはしなかった。というのも、彼は突然、孤りでいることに自足しているという様子を見せたからだ。不思議にも彼は、両腕を漆黒の海へと伸ばした。彼から隔たってはいたが、彼が震えていたのは間違いない。意図せず私は沖を見遣った。漆黒の海には、ただかなたに小さな緑の灯がひとつあっただけだった。桟橋の端だったのかもしれない。そうして再びギャツビーを求めたが、もう彼は消えていた。不穏な闇の中で、私はまた孤りだった。

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